これは、私がカミユ様と結婚するより、少し前のお話である。
「はぁぁ……」
ようやくカミユ様、という呼び方にも慣れてきた頃だった。
学園を卒業後、皇子宮の中で、私に与えられた一室。
そこに置かれたふかふかのソファに座ったカミユ様は、それはそれは盛大にため息をつかれた。
「どうかなさいました?お疲れですか?」
最近特別忙しい、ということはなかったはずだけれど。
私は皇后陛下に出された課題をこなしながら、最近のカミユ様の様子を思い浮かべる。
するとまた、カミユ様から盛大なため息が聞こえてきた。
「シェリルってば、せっかく一緒に暮らせるようになったのに、勉強ばっかり」
カミユ様はそう言って、またもやため息をつく。
ため息の原因はどうやら、疲労や体調不良ではなさそうであることに、少しだけ安堵した。
「だって、今、とっても楽しいんですよ。皇后陛下から教わることは、学園では習わなかったようなことばかりですし。それに、カミユ様との将来のための勉強だって思うと、フランツ様のために勉強していた時よりやりがいもありますし」
皇后陛下は、決して厳しい期限を設けてはいらっしゃらない。
第3皇子の妃は気楽なものだし、自分のペースでゆっくり進めればいいと仰ってくださる。
けれど、私は気づけば夢中で、必要以上の速度で進めてしまい、皇后陛下までも驚かせてしまっていた。
カミユ様の妃になるための勉強は、それくらい、私にやりがいを感じさせてくれたのだ。
「そう言ってくれるのは非常に嬉しいんだけどさ、シェリルってば僕には全然かまってくれないじゃないか」
「そんなことないですよ。朝食も、昼食も、3時のおやつも、夕食も、毎日一緒じゃないですか」
「食べることばっかりじゃないかっ!」
「カミユ様とお食事しながらお話するの、私は楽しいですけれど……」
カミユ様はそうではなかったのかもしれない、そう思うとなんだかちょっと、いやかなり悲しい気持ちになる。
こうして一緒に暮らして、一緒の時間を過ごすことを楽しいと感じるのは私だけなのだろうか……
「別に食事の時間が楽しくないなんて言ってないよ!シェリルと過ごす時間は、どんなものでも楽しいに決まっている!」
「それならよかったです。カミユ様も、私と同じですね」
「うん」
にこりと笑ってくれるカミユ様に安堵しつつ、再び課題に向き合おうとしたとき、バンっと音が鳴った。
音の発生源に目を向けると、カミユ様が目の前のテーブルを勢いよく叩いたみたいだ。
手は、痛くなかっただろうか。
「って、そうじゃなくて!」
カミユ様は勢いよく立ち上がると、今度は私が今、課題と向き合っている机の前までやってきて、今度は課題が山積みになっている机をバンっと叩いた。
積みあがった紙の束が、少しだけ崩れ落ちてしまった。
「せっかく、せっかく一緒に暮らしてるのに!これじゃあ、学園に通ってた時の方が一緒にいる時間が長かった気がする!」
「そんなこと、ないと思いますけど……」
学園に通っていた時は、共に食事をできるのは昼食だけだったし。
クラスも別々だったから、授業中に顔をあわせることもない。
一緒に居られたのは、休み時間や放課後だけだった。
「学園に通っていた時は、シェリルのお弁当だって食べられたのに」
それだって、食べることではないか、と思ったけれど、ご機嫌を損ねそうなので言わないでおく。
「お弁当が食べたいんですか?」
卒業してからはずっと皇子宮での生活だ。
皇子宮には、伯爵家とは比べものにならない優秀なシェフがたくさんいて、毎日の食事は非常においしい。
そんな中でわざわざお弁当を作ろうなんて、考えるはずもなく。
私は卒業してからはお弁当はおろか、料理なんて一度もしていない。
「食べたいっ!」
カミユ様の瞳はパッと輝いた。
けれど、私はちょっと歓迎できない。
「うーん……私なんかが厨房に入ったら、シェフの皆さんが嫌な思いをされるのでは……?」
「そんなことないっ!シェリルは未来の皇子妃なんだから、この宮で入っちゃダメな場所なんてないんだっ!!」
カミユ様は妙に力が入っているようだ。
しかし、そこまで言ってもらって、断るのも忍びない。
「では、厨房を借りて、久々に作ってみましょうか?」
「ホント!?嬉しいなっ」
皇子宮のシェフが作るランチの方が、ずっとおいしいはずなのに。
カミユ様が本当に嬉しそうな顔をなさるので、嬉しい半面、失敗しないようにと妙な方向に力が入るような気がした。
「ごめんなさい、突然厨房にお邪魔してしまって」
厨房で働く皆さんの作業を止めてしまうことになり、非常に申し訳なく思いながら厨房を訪れた。
けれど、事前にカミユ様も連絡してくださっていたようで、皆さんとても暖かく私の来訪を迎え入れてくれた。
「お手伝いできることがあれば、なんでもお申し付けくださいね」
そうしてかけてもらった声に甘え、材料と用意してもらったり、作業を手伝ってもらったり、そんなこんなで私はお弁当作りに励んだ。
「へぇ、カミユ殿下は、こういった食べ物を好むのですね」
時にはそんな風にまじまじとシェフに料理を見られ、ちょっとばかり居たたまれない気持ちにもなったけれど。
シェフたちも知らなかったカミユ様の好みは、今後出される皇子宮のメニューに反映されそうである。
「うわぁ、気持ちいい」
心地よい風と陽射し、とても穏やかな気候だった。
「でしょう?こんな日にお弁当なら、外で食べないともったいないと思ったんだ」
連れてこられたのは、皇子宮にある庭園だった。
学園時代、学園の中庭で共にお弁当を食べたことを思い起こさせるけれど、皇子宮の中庭は比べものにならないくらいずっと広い。
しかも、この場にいるのはカミユ様と私だけ、おかげでより一層穏やかな時間を過ごせるような気がする。
「こんなに素敵なお庭があったんですね」
「シェリルってば、ここに来てどれくらい経ったと思ってるの?そんなことも知らなかったなんて」
言われて思い返せば、カミユ様と食事を共にする以外は勉強ばかりだった。
皇后陛下の授業、皇后陛下が選んでくださった教師たちによる授業、それらの復習、課題、そういったものに追われているうちに、あっという間に一日が終わる。
もちろん、授業以外は自主性に任されているので、長時間やる必要もなければ、休んだってかまわない。
けれど、気づけば使えるだけいっぱいいっぱい時間を使ってしまっていた気がした。
「たまには、こうしてのんびりするのもいいですね」
私がそう呟いた途端、カミユ様ががしっと私の両肩を掴んだ。
距離が一気に縮まって、ドキドキしてしまう。
「やっと……っ、やっと気づいてくれたんだねっ!!」
何やら、カミユ様は今にも泣きそうで、感動すらしていそうだ。
「シェリルってば、ここに来てから本当に勉強ばっかりで、いや、そんな一生懸命なシェリルも僕ば好きなんだ、好きなんだけど……」
カミユ様はぶるぶると震えている。
寒いのか、体調不良なのか、少し心配になってお顔を覗き込もうとしたら、ばっとカミユ様の顔が上げられた。
「僕はもっと、シェリルといちゃいちゃしたいんだっ!!」
力いっぱいそんなことを言われ、一気に顔が熱くなるのを感じる。
周囲に誰も居ないはずなのに、つい周囲を気にしてしまう。
「カ、カミユ様っ」
きっと私の顔は真っ赤なのに、カミユ様は涼しいお顔をされていて、なんだか悔しい。
「ね、お弁当、これからもまた作ってくれる?大変だろうからさ、毎日とは言わないから」
「もちろんです、カミユ様が望んでくださるなら」
もう、必要ない、と思っていただけだ。
こんなにカミユ様が喜んでくれるのなら、また作りたいと私だって思う。
「それから、今度、デートしよっか?」
「デート?」
「そう、街に出かけよう?行きたいとこ、考えておいて」
「えっ!?皇子殿下が街に出て、大丈夫なんですか?」
「お忍びで出かけるくらい、兄上たちだってやってるから大丈夫だよ」
第1皇子も第2皇子も平然とやっているのだから、第3皇子ができないはずない、とカミユ様は力説する。
そう言われてみれば、確かにそうだと思えてくる。
「シェリルはデート、どこ行きたい?」
問われて、考えを巡らせた。
恋愛小説もたくさん読んできただけに、デートの行先の憧れなら、たくさんある。
「オペラを見に行ったり、景色のいい公園に行ったり、一緒に買い物をしたり、お茶したり、それから……」
止まることのないくらいの私の要望を、カミユ様は笑顔で全部受け止めてくれる。
「うん、うん。全部やろう!一回じゃ無理だから、たくさんデートしようね」
婚約者が皇子殿下となった以上、不可能かもしれないと思っていたことまで、カミユ様は叶えてくれる気満々だった。
「他にも、シェリルと一緒にやりたいこと、たくさんあるんだ」
「私もありますっ、カミユ様と一緒にやりたいこと」
「じゃあ、それも全部やろう!」
「はいっ」
今日も明日も明後日も、きっと私はこの先ずっと、カミユ様のおかげで幸せだ。