「あっ!陛下、駄目ですよっ!!」
重華は大事に抱えてきた盆を近くにあった机に置くと、すぐさま晧月が手に持っていたものを取り上げた。
「こら、重華、返せっ!それは、大事な……っ」
「今日はお休みになるお約束のはずですっ」
重華が離れたのは、食事を準備するためのほんの少しの時間のはずだった。
それなのに、その間に晧月は横になっていたはずが、しっかり起き上がっており、何やら書状らしきものに目を通している。
(ひょっとして、私に食事を作るように仰ったのも……)
重華の料理が食べたかったわけではなく、ただ、重華をこの場から離れさせるための口実にすぎなかったのかもしれない。
そう考えるだけで、重華の気持ちはどんどんと沈んでいくような気がした。
「あっ!」
重華が一人で落ち込んでいる間に、晧月はさっと重華から書状を取り返してしまった。
「陛下、駄目ですってば」
「頼む、これだけは確認させてくれ。終われば言う通り、ちゃんと休むから」
「で、でもっ」
「これだけは、どうしても今日中に確認しなければならないんだ。俺の政務が滞れば、困るのは民たちだ。どうか理解してくれ」
晧月は、必死に重華に懇願した。
その言葉に、嘘は一つもない。
今、晧月の手にあるのは、これだけはどうしても晧月自ら今日中に確認しなければ、民の生活に大きな支障をきたすかもしれないものである。
そして、それさえ終われば、後の政務は全て諦め、今日だけは重華の言う通りに休みを取るつもりでもある。
重華にもそれはしっかりと伝わったが、それでも重華はすぐにでも晧月に休んで欲しかった。
(でも、これは陛下にとって、本当に大事なことなんだ……)
必死な様子の晧月を見ていると、重華は先ほどのように安易に駄目だとは言えなくなった。
(きっと、倒れるほど無理をしたのだって、全て民のためで……)
重華とて、民たちが困ることを望んでいるわけではない。
皇帝とは本当に代えの利かない存在であり、日々本当に大変なのだと改めて実感しながら、晧月の言葉を受け入れるしかなかった。
「わかり、ました。それだけ、なら……」
「ありがとう」
晧月はすぐに、書状に目を通そうとした。
だが、視界の端に、今しがた重華が持ってきたばかりの盆が映る。
そこにのせられているいるのは、まだ湯気のたつ、間違いなく重華が作った料理なのだろうと晧月は思った。
「ああ、だが、先に食事にしようか。せっかく作ってくれたのに、書状を見た後では冷めてしまう」
「大丈夫です、冷めたら、春燕さんに作り直してもらいましょう」
「なぜ春燕に?あれは、おまえが作ったのではないのか?」
「私が作りました。でも、春燕さんの教わったものなので……」
晧月が望んだのは、重華の作る料理ではなく、重華がこの場を離れることだった。
それならば、重華の作ったものを、無理に晧月に食べさせる必要性を重華は全く感じなかったのだ。
(きっと、春燕さんが作った方が、ずっとおいしいはず)
はじめて重華が作ったものなど、比べるまでもないだろう。
それならば、晧月が書状を見ている間に、春燕に作り直してもらう方がいいと重華は判断したのである。
「あれは、下げておきます。ですから、陛下は気にせず書状を……っ」
「悪かった。結果的に口実に使ったようになってしまったが、おまえが作ったものを食べたかった気持ちに嘘はない。だから、そう怒らないでくれ」
「わ、私は別に、怒っているわけでは……」
重華は本当に怒っているわけではなかった。
ただ、晧月の本心ではなかったのだと、残念に思っただけだったのだ。
それなのに、晧月は今、先ほど書状の件で重華に懇願してきた時よりも、必死の形相で重華の腕を掴んでいる。
熱のせいなのか顔も赤く、目も潤んだ様子で、いつもより元気もない、それなのにそれほど必死な晧月の様子を見ていると、重華はなんだか自分が晧月に酷いことをしているようで居たたまれなくなってきた。
(これじゃあ、相手は病人なのに、私が拗ねてわがまま言ってるみたい……)
優先すべきは晧月の体調だ、重華は自身にそう言い聞かせ、それ以上考えるのを止めることにした。
「お食事に、しましょう。お薬も、飲まないといけませんから」
重華がそう言って、持ってきた盆に手を伸ばせば、晧月は嬉しそうに笑った。
だから、これでよかったのだ、と重華は自身に言い聞かせる。
そこまでは、まだよかった。
「食べさせてくれ」
「ええっ!?」
ほかほかと湯気のあがる、先ほど重華が春燕の手を借りて作ってきたお粥。
それを目の前に差し出された晧月の言葉に、重華は驚かずにはいられなかった。
「身体がだるくて、あまり力が入らないんだ」
瞬時に嘘だと、重華は思った。
体調を崩しても尚、重華より力が強いと感じる場面は先ほどまでに幾度となくあったから。
(でも、相手は病人、なんだから……)
言い争うのもよくないし、結局勝てる気もしていない。
重華は仕方なく、震える手で晧月の口へと粥を運ぶこととなった。
(全部食べてくださった……)
おいしい、とも言ってもらえた。
重華にとってはどちらも喜ばしいことだったけれど、それ以上に震えが最後まで止まることはなく、終始緊張しっぱなしだった腕の疲労感がとてつもなかった。
「陛下、お薬を……」
食事を用意したのは、薬を飲んでもらうため。
ようやく目的を達成できる、と重華が薬に手を伸ばすと、満足そうに笑っていたはずの晧月の表情が曇る。
(陛下でも、お薬は嫌いなのかしら)
重華の想像では、晧月は苦い薬であっても涼しい顔で飲んでしまいそうだった。
けれど、表情を見る限り、そうではないようである。
(だから、これが必要なのね)
重華の視線の先、薬の横にあるのは果物を甘く煮出した湯。
苦い薬を飲んだ後の口直しに晧月が好んで飲むのだと、雪梅が用意してくれたものである。
そういうものがあるということをはじめて知った重華は、少しだけ味見をさせてもらったけれど、甘くておいしい飲み物だった。
「ちゃんとお口直しもありますので、お薬が苦くても、大丈夫ですよ」
重華はそう言って、用意してもらった飲み物を見せる。
「なるほど、雪梅か」
晧月の表情が少し和らぐ。
そして、晧月は薬を一気に煽ると顔を顰め、ひったくるように口直しを手にしてそれもまた勢いよく煽った。
(完璧な皇帝に見えても、苦手なことってあるのね)
口内の苦みが消えたのか、ほっと息を吐く晧月を見ながら重華は思う。
重華から見れば何でも完璧にこなしてしまう印象の強い晧月、だからこそ苦手なものがよりにもよって苦い薬だというのが、どこかかわいらしく思えた。
「そこにずっと座っているだけでは、暇だろう。何か書物でも読んだらどうだ?」
どうせ、重華は今日はもう、ここから立ち去る気は微塵もないのだろうと晧月は思っている。
晧月もまた、無理に追い出そうという気もない。
ただ、何もせずじっと座って、晧月が書状を確認するのを見ているのは、非常に退屈だろうと思って晧月は重華に声をかけた。
「その辺りの棚にある書物は読むのは難しいかもしれんが、向こうの棚にあるものは俺が幼い頃に読んだものばかりだ。おまえでも、読めるものもあるはずだ」
言われて重華は、向こうの棚へと目を向ける。
(あれ、全部、小さい頃に読まれたの……?)
非常にたくさんの書物がある、それが全て幼い頃に読まれたのだということに重華は驚きを隠せなかった。
(そういえば、避暑に行った辺りから、あまり文字の勉強進んでないかも)
暑くなって何もしたくなくなった頃に、勉強は全くもってしなくなった。
避暑に向かってからは、はじめてのお出かけに浮かれており、全くしなかったわけではないが、勉強の頻度は格段に減ってしまっていた。
そして、避暑から戻ってきても、その状況は変わらないままである。
文字の勉強ももう少しがんばらなくては、という思いと、手持ち無沙汰だったことから、重華は晧月の言葉に甘え書物を借りることにした。
「わからないことがあれば、聞いてくれてかまわないぞ」
「いえ、大丈夫です」
さすがに、体調を崩した人間に、勉強を教わろうだなんて重華は思えなかった。
それよりも、一刻も早く書状の確認を終わらせて休んで欲しいというのが、重華の強い願いである。
「元気になられたら、また教えてください」
「わかった、わかった。今はこれを早く終わらせて、休めばいいんだろう?」
口に出さずとも、重華の意図は伝わったらしい。
重華は満足気に笑うと、借りた書物へと視線を落とした。