「君、治癒術が使えたの?」
真誠は森に向かって消えた虎が戻って来る気配がないのを確認した後、藤李に訊ねた。
法術とは自身の法力を術として使用すること。
法力には属性が存在するため、術者がどの属性が強いかによって使える術系統が違う。
火、水、風、木、土、雷の基本の六属性が法術として使われることが多い。
誰しもがこの六属性を持ち、自分に一番適した属性の術を使うことがほとんどだ。
その他にも治癒と呪の属性があるがこちらは誰しもが有する属性ではない。
その属性を有していても術として使用できる者は多くない。
藤李はその希少な治癒術を使えるようだ。
そばにいても微かにしか感じられない法力で術をなすとは驚きだ。
「……拙いものですけどね……」
聞き取りづらい小さな声で藤李は答える。
まるで消え入りそうな声からはいつものような覇気を感じない。
真誠は隣に立つ藤李に視線を向けるがどうにも様子がおかしい。
「陣?」
その名を口にした途端に藤李が膝から崩れ落ちるように倒れた。
「ちょっと!」
咄嗟に身体を支えるが藤李の身体には全く力が入っておらず、手足が小刻みに震えている。
法力を使い過ぎた時に起こる反応だ。
「君、しっかりしなよ」
一旦、藤李を木の幹に寄り掛からせて状態を確認する。
顔にかかった黒い髪を払えば小さな顔が露わになる。
「酷い顔だね」
目は虚ろで頬にも血色がなく、青白い。
「……うるさぃ……」
それでも意識はあるようで真誠の言葉はちゃんと拾っていた。
「君、靴は? 片足しかないじゃない」
右足だけ白い色が剥き出しになり、土で汚れている。しかも指もくるぶしも水ぶくれが出来てつぶれた所は血が滲んでいる。
左足の靴を脱がせれば同じような状態で足に合わない靴でこんな所まで走って来たのかと呆れてしまう。
右足の靴は周囲を見渡すが視界に入らない。
足の裏も傷だらけで、薄くて小さい手の平にも鋭利なもので擦ったような小さな傷が目に入る。
「本当にいい根性してるよ」
大した法力もなく、人攫いを追いかけたり、虎を引き付けるために自ら囮になるなんて馬鹿だとしか思えない。
何か勝算があったのだろうか。
いや、そんな風には見えなかった。
だけど、何か凄く慌てていた様子も見られた。
何か、持っていた物を失くした事に気付いた時のような焦り方をしていた気がする。
「しょう……尚書、私のことは放っておいて、先に戻って下さい」
生気のない顔で藤李は言う。
「そんなにここが気に入ったの?」
「はい。いい所ですよね。緑も綺麗で空気は澄んでますし、何故かは分かりませんが初めて来た場所じゃない気がします」
藤李は真誠の嫌味にそのまま乗っかる。
「君のためにここに小屋でも建ててあげようか?」
「婚約者がいるような大貴族の若君が本家で女を囲っていると醜聞になってもいいのであれば是非」
その言葉に棘を感じて真誠は口元を曲げる。
「大事な婚約者が怖い思いをしたんですよ。側にいて差し上げてはどうですか」
そう言って藤李は真誠を小さく睨む。
冷ややかな藤李の視線に胸がちりちりと痛むような気がした。
力なく言って、自力で立ち上がろうとする姿勢を見せるが、身体が重たいようで諦めて木の幹に寄り掛かる。
「私は……少し、やすん……で……から、もど……」
言い終えるより早く、重たそうな瞼が閉じて藤李の意識は沈む。
「どの口が言うんだか」
ヒクヒクと痙攣し、傷だらけの手足、青白い顔色には生気はなく、そのまま土に還りそうな勢いだ。
こんな所に残してもいつまた虎が出るか分からない。
置いていけるわけがない。
そんな風に思いながら、真誠は藤李の膝裏に腕を回し、反対の腕で背中を支えて立ち上がる。
「軽くは……ない」
藤李は華奢だ。しかし、見た目よりも重く感じるのは筋力があるからかもしれない。
もっと軽いかと思っていたが健康的で安心する。
真誠は藤李に極力負担が掛からないように歩き出す。
そもそも、この子……何でここにいるわけ?
木蓮は『拾った』と言っていたがあれは比喩だ。
どういった経緯でこの邸の敷居を跨ぐことになったのだろうか。
「それに尚書って……僕に言ったらダメなんじゃないの?」
昨晩の宴で『貴方とは初対面です!』みたいな体でいたから折角その設定に乗っかって知らないフリをしてあげたのに。
台無しじゃない?
『貴方は昨晩の……』ぐらいにしておけば芝居を続行してあげたのに。
真誠は藤李が何のために戸部に遣わされているのかも分からなければ藤李が何をしたいのかも分からない。
男装して小間使いをしたり、宮妓に混ざっていたり、こんな所でも小間使いみたいなことをさせられていたり、何がしたいのかさっぱり理解できない。
真誠は藤李の顔を覗き見る。
小さい顔に長い睫毛に縁取られた目は伏せられ、ふっくらとした形の良い唇には色がない。黒い艶やかな髪が首筋に掛かり、妙に色気があると思うのはおそらく気のせいだ。
いつもの顔に広がるそばかすは消えているところを見ると、自分で描いているのかも知れない。
この華奢な身体にこんな顔が乗っかっているのだから男と言い張るのは無理があるんじゃない?
どいつもこいつも目が悪いらしい。
いつまで経っても国が豊かにならないのはそのせいではないのか。
「……んっ……」
小さく藤李が声を発する。
真誠の腕の中で身体がビクッと小さく跳ねた。
しかし、彼女の声は規則正しい呼吸音に変わり、真誠に無防備な寝顔を晒している。
「……少し無防備過ぎるんじゃないの?」
男を前にしてこれでは危険なのではないだろうか。
僕が心配することじゃないけど。
そう思いながら真誠は邸への道を折り返す。
その途中で視界の端に、きらりと光りを反射する物体が飛び込んできた。
草むらの中で光るのは紐のついた玉である。
藤李の物かもしれないが手が塞がっているため、拾い上げることが出来ない。
後で獏斗にでも取りに行かせよう。
そう思い、真誠は藤李を抱いて邸を目指した。
ぼんやりする意識の中、規則的な振動を身体に感じる。
浮遊感を身体に感じるものの、しっかりと支えられた身体は安定感があり、その温かさと逞しい腕には安心して身を任せることが出来た。
薄らと開いた視界に映るのは森の緑と空の青、そして斜め下から見上げても美し過ぎる上司の顔だ。
正面からだけじゃなく、どの角度から眺めても美しいのか、この男。
正面、後ろ姿、斜めの角度、全方位の美しいを網羅している。
男のクセに無駄な美しさが備わっているな、この人。
そこで藤李はようやく我に返った。
「しょ、きゃぁ」
「ちょっと、暴れないでよ」
はっと我に返って上体を起こそうとした藤李を真誠は文句を言いながら抱え直した。
どうりで、身体に浮遊感を感じるわけだ。
藤李は真誠に抱かれて森の中を移動していた。
「尚書、すみませんでした。私、自分で歩けますので!」
慌てて降りようとするが真誠は眉を顰めた。
藤李の言葉を無視して真誠はそのまま邸に向かって歩いて行く。
「尚書、あの……降ろして下さい」
「自力で立ってもいられないくせに、よく言えるね」
言い当てられて藤李は奥歯を噛み締めた。
抱かれたまま抵抗を試みるが手足に力が入らない。
自分の腕がびりびりと痺れ、痙攣している。
力の入らない右手を恨めしく睨み付ける。
「自分の力量を考えて行動しなよ」
「……申し訳ありません……」
真誠の言う通りだ。
あれぐらいの法術を使っただけでこの有様とは、さきほどの芙陽のことを笑えない。
兄も弟も父も強力と言って良いほどの法力を持っているのに関わらず、藤李には微かな法力しか神は授けてくれなかった。
『きっとそれには意味がある』とみんなは言うが、藤李はいつも惨めな思いをしていた。
法力も乏しく、得体の知らない呪印を持つ藤李を世間に出すのが恥ずかしいのか、両親も兄も瑠庵も藤李を一族の姫として世間に出すことを躊躇う。
世間からは病弱故に既に死んでいると噂されているし、名前も認知されていない。
兄も、瑠庵も藤李の話題が出ると『藤の姫』と呼ぶ。
王族を示す紫になり切れない藤の色を指して誰かが言い出した名称をそのまま使っている。
王族の姫としての結婚の役割も今はまだ果たせそうにない。
一族にとっても世間にとっても半端者の位置づけなのだ。
「尚書、助けて下さってありがとうございました」
藤李は俯きながら礼を言う。
「ですが、お邸も見えてきましたし、本当に降ろして頂いて大丈夫です。貴方の婚約者様に見られると本当に面倒なんです。どうか私を助けると思って降ろして下さい」
もう既に面倒は起きている。
「絡まれるのは御免です」
芙陽の目が嫉妬の炎で燃えていた。
これだけの美丈夫に愛されているのであれば自身の魅力に自信を持って他の女に嫉妬などしないで頂きたい。
何せこの嫌味な男が人目も憚らず真昼間から接吻したくなるような婚約者なのだ。
自信を持て。私を巻きこむなと言いたい。
「二人共、無事ですか⁉」
そこに走って駆け寄って来たのは獏斗だ。
心配そうな表情で藤李の様子を窺う。
どうしよう……お茶をする前の会話を思い出してムカムカしてきたわ。
婚約者がいるにも関わらず、宮妓との逢引きをさせようとしているこの主とこの従者だ。
どういう主従だ。全く。
今は腹を立ててもどうしようもないのだが、胸の中に苛立ちが広がる。
「大丈夫。大したことないわ」
「真誠様、俺が変ります。木蓮様が邸の結界を張り直すそうです」
獏斗は真誠から荷物を受け取るかのように藤李に腕を回した。
藤李も真誠に抱きかかえられたままよりは獏斗の方が身の安全を確保できるので獏斗の首に向かって腕を伸ばす。
真誠から獏斗に渡されて藤李は言う。
「ありがとう、獏斗。ごめんね、重いよね?」
見た目より重いと言われるので藤李は申し訳ないと思う。
「いや、全然軽いよ。それに足……痛そうだ。すぐ治療師呼ぶから。落ちないように捕まってて」
そう言って獏斗は丁寧に藤李を邸に運び入れる。
出迎えてくれたのは木蓮と百合だ。
「藤李、大丈夫かえ?」
「木蓮様、申し訳ありません……その、お借りした服を汚してしまいました……」
獏斗に抱えられたまま藤李は木蓮に謝罪するが、木蓮は軽快に笑う。
「構うな。靴擦れだけで事が済んで何よりじゃ。それにしても、そなた、誠に勇ましいのう」
扇で口元を隠して木蓮は笑う。
勇ましく立ち向かってこの様です。
「こちらの若様のおかげです」
格好良く虎を退治していればいいが、真誠がいなければ藤李はどうなっていたか分からない。
ただ、手間を取らせただけだ。
「獏斗、もう歩けるから……降ろしてもらっていい?」
「降ろしたってまだ歩けないだろ? 手足が痙攣してるじゃないか」
「いや、そうだけど……恥ずかしいのよ。本当に大丈夫だから。降ろして支えてくれればその方がいいんだけど」
ずっとこのままは流石に恥ずかしい。
庭先には邸中の使用人が出て来て騒がしいし、注目を出来る限り浴びたくない。
「そうか? 分った」
そう言って獏斗は藤李を降ろそうとした時だ。
「わっ!」
地面に着くはずの足が再び浮き上がり、思わず大きな声を上げた。
子供を高く抱き上げるように脇を支えられてそのまま俵のように担がれる。
「……降ろして下さい」
藤李は米俵のように担がれているので真誠の背中に抗議する。
「床が汚れるでしょ」
不機嫌そうな声音で真誠が正論を突き付けてくる。
「獏斗、お湯と拭くもの。それから治療師。雪斗を呼んで」
ぽかんと口を開けて固まる獏斗に真誠は命じた。
「え~アイツですか?」