海の向こうに見える鳥居、少し
あの場所に何があるのか、祖母に聞いたことがある。
祖母は
『何故知りたい?』
祖母の声は静かに低く、いつもの優しい声ではなかった。
『なんとなく・・・。』
そのような答えを飲み込んで黙り込むと、祖母の目を見る。
彼女は小さく
『あれは・・・トカミ様だ。』
『トカミ様?』
『ああ、トカミ様は
『兎の神様。』
『ああ、そうだ。』
祖母はすうっと目を細めて鳥居を見る。
『ワシはずっと
『ばあちゃん?』
祖母は小さな私の手をぎゅっと握り、海を背に町へと戻る。
手を引かれて顔を上げて見た祖母の目に涙が浮かんでいた。
いつ神になったのか神自身も知らなかった。
ただ独り海辺に居て、鳴り続ける腹の虫はやかましく、両手の震えが止まらなかった。
このままここで死ぬ?そう思って海を見る。
目の前には食い物も水もあるというのに、食いも飲めもしない。
ここにたどり着いた時、ふらふらした足取りで水に顔をつけてみた。
ここへはどうやって来たんだろう?もう頭も
真っ白な手足が
べったりとしたものが砂の下にへばりついて、ごしごし
もう疲れ果ててごろんと
空は曇り雲が立ち込めている。いずれ雨になるだろうか。
そう思っているとポツポツ降りだして、叩き付けるような雨になった。
口をぽかんと開けて雨を飲む。
海よりはましだろうとじっと雨に打たれている。
そんな時、顔に当たる雨が消えて、ゆっくりと目を開けた。
黒い影に何か二つの目が
じっとこちらを見下ろし傍に座ると
『何をしてるの?』
綺麗な声が聞こえて耳を立てた。
ゆっくりと起き上がり、黒い影の中の二つの目をじっと見る。
『飲んでいる。』
答えてみたものの声は
二つの目はいつか見た星の色に似て、柔らかく三日月に揺れた。
『そう。』
『いい風。トカミ様がいらすかしらね。』
『トカミ?』
星の色の瞳が遠くを見る。
海の向こうに思いを
『そう、トカミ様。』
その瞳が水で
繰り返される
永遠に続く。
また独り海辺に
腹には矢が刺さり、その先は半分に折れ曲がっている。
男は開かない
動けそうもない。
背中には大きな刀傷があり、体を動かすたびに痛みが走った。
このまま死ぬのだろうか?
男は今年の春、
可愛い
『早く帰るって約束したのにな。』
男はぽつりと吐き出した。頭に女房の顔が浮かんでじわりと涙が出た。
『すまねえ・・・俺は嘘つきだな。』
目を閉じると可愛い女房の笑顔ばかりが浮かぶ、鈴が鳴るような声に、愛らしいしぐさ、好きで好きでたまらなくて、夏の日に思いを打ち明けた。
男は
すると嬉しそうに笑ったのだ。
あの日のことは死ぬまで忘れられない。
墓まで持っていくと決めていたけど今じゃない。
それだけは分かる。
男は脱力していく体をゆっくりと起こして、海の向こうをじっと見た。
遠く海と空の
そして耳に雷音が響き、顔を上げると雨が降り出した。
ぽつぽつした雨は
男は肩で息をしながら愛しい女房の名前を呼ぶ。
繰り返し、繰り返し。
涙が頬を伝い雨が全てを流していく。
『お前に会いたい。』
ゆっくりと倒れこんだ男は、砂を
雨が降る。雷が鳴り
美しい光景は海に反射してキラキラと輝く。
浜辺で
白い手には大きな
『トカミ様、魂は半分こ。』
潮が押し流し遠く遠く連れて行く。
魂の行く先は誰も知らず、神となった者たちがそれぞれ役割を得てこの世に戻ってくる。
ある者は
この海で死んだ者たちは、いずれそうなり
もう一度人として産まれたいと願っても、聞き入れることはない。
魂は半分、半分では
半分の魂を小さな箱に入れて
箱は
兎守は毎夜、箱を抱いて眠る。
また
海辺では蓮の葉がぽつりとあった。
雨に打たれ暗闇に浮かぶ二つの目が遠くを見つめている。
大きな目から
ある夜、沖で船が沈んだ。
足元にあった網が
もがき苦しみ、あがき、両手は水の中で空を
しだいに動かなくなっていく人の影から、光の玉がゆらりと出て、海の向こうへ吸われていく。
この海で死んだ者は皆、こうなる運命だと死んでから
雨の降らない夜がない。
海辺で独り
目を閉じるたびに誰かの記憶がそこにある。
幸せな一日、幸せな過去。
おっ父、そう呼ぶ小さな手は誰であろうか?
知りもしないものが永遠と流れてくる。
悲しみが
ここでただ海を見ているだけなのに、死にたくないという
二つの目はぼとぼとと水を落とし、
『月が半分こになったら、お前はここに戻っておいで。』
優しい
月などない
雨がぴたりと止んだのは、それから
空には丸い月があり、
『半分こでないが、トカミ様のとこ戻ろう。』
ゆっくりと浜辺を進み海へ入る。
暗闇はただ暗闇で、波に
時々、何かに触れたようにしては、二つの目から水が
小さな進みは波に流され漂うように、
小さな
魂は海に
『トカミ様。』
紅い屋敷の扉を開けて中を
屋敷の高さと同じほどの
『月は半分こだったか?』
『まんまるだったよ。』
『そうか。』
『まだ手しか出来なかったのだな。』
暗闇の中の二つの目が兎守を見る。
『目玉はあるよ。』
『本当だ。』
兎守は蓮の葉をそっと
『本当だ・・・目玉はある。』
休む
ちぎっては半分を外へ、半分を箱へ。
そのたびに暗闇の中の二つの目がびくりと揺れた。
あの者の名前は・・・。
聞かずとも流れ込んでくるそれが、記憶だと気付いた時にはもう遅かった。
もう数え切れないほどの者の記憶が、永遠と回り続けている。
私の名前はタカヨシで、ヒナタで、ユキチで。
二つの目から
『どうして顔が
『顔?』
『お前の顔が見たいのだ。触れたいのだ。』
兎守の白い指が暗闇を突き抜ける。
『
実態のない私。
私について何一つ存在しない。
毎日毎日、誰かの記憶が駆け
ないはずの何かが
見かねた
『お前は昔、自分で死んだのだ。だからその悲しい過去はお前の中にはない。』
『ない?』
『新しいお前はゆっくりと
『美しく?美しいとは何?』
『お前そのものだ。以前のお前も美しかった。それでも消し去りたいほどに悲しかったのだろう、次はきっと大丈夫だ。』
暗闇には目玉が二つ浮かんでいるだけで、いつまでも手以外に
兎守もまた心配したが神の時間は長い、だからさほど心配はしないと笑った。
夜、
暗闇の中の二つの目は、兎守が大事そうに抱えているそれを見た。
それに半分こを入れていた。
震える手で兎守の手の中から箱を引き抜いた。
肩を揺らし眠る兎を
美しい
紐を解いて蓋を開くと、無数の半分の
いつだったか大きな音のする夜の花のようだ。
箱の下には薄茶色の毛皮が入っている。
両手で持ち上げると小さな
『あ・・・。』
嵐の海、沢山の人が
兎はその人たちの上でそれを見ていた。
言葉が話せる兎なんてめったにいない。
だから連れてきた人たちは、口々に助けてくれと叫んでいる。
しかし助ければ自分も死ぬだろう。
何も出来ずただ沈んでいく人たちを
でも船は波に
そう思ったが目を開けたとき、美しい男の
『どうした?兎。』
神は両手で兎を抱えて海の上を歩く。
波は
神は
肌は少し浅黒く
ふと
なんて
神の手の中で兎はじっとしていた。
なるべく気分を
神の家は赤い屋敷で
誰かが来るのか
お前は初めての客人だ、そう言うと笑った。
どうしてこのような人が、たった独りでいるのだろうと。
一緒にいるだけで幸せな気持ちになれるのに、どうしてあげることができないのだろう?
あの瞳に優しさを、あの唇に
屋敷の鏡の前で長い耳を両手で整えて、黒い瞳でじっと見る。
そんな時、
くだらない、そんなこといけない。
頭を振るも兎はそうでなければいけないと願ってしまった。
月の夜、兎は波打ち際で、海に月を浮かべて女神に願う。
一瞬でいい、神様と。
女神は
みるみる人の手に変わり、女神の
兎だった姿は美しい女の姿に変わった。
水面に自分を映しては兎は涙を浮かべた。
女神は去り際、星を散らして笑う。
『命は変わらぬ。』
兎は去り行く女神に頭を下げて、屋敷の奥で眠る神の元へ駆け寄った。
美しい神の寝顔に指を触れ、すぐ傍に
目覚めた神は、傍で眠る女に兎の
そして優しげに笑うと、彼女を抱き上げ腕の中で眠らせた。
兎もまた目を覚まし、神の腕の中にいることに気付き、その優しい
愛し合う二人の時間は朝と夜を溶かす。
二人きりの時間はお互いが全てを差し出しても足りないほどだった。
けれど幸せな時間は長くは続かない。
兎の時間はとうに過ぎている。
体の中から
神もまたよからぬ思いを持った。
神の力をもたない兎に持たせるためには
その夜から神は海を
人が死に神の元へ流されてくる。
魂の
神は
繰り返される悲しき行為に女の体は
神は
美しい顔だったのに黒い
いつしか耳は長くなり、神が鏡を見る頃には大きな兎の姿に
神は喜び消えてしまわないようにと
小さな目印だ。
暗闇は海の向こうばかりを気にしている。
ここにいては
『月が半分こになったら戻っておいで。』
その頃になればきっと、そう信じて疑わなかった。
暗闇の二つの目から涙が
昔の記憶、神様の記憶。
振り返ると
『知る必要などなかったのに。』
『トカミ様。』
兎守がしゃがみこみ暗闇の二つの目を見つめる。
『お前は・・・いつまでもこのままであるのは望まないからだろう?私がこんな風に変わってしまったからだろう?お前のためにしていることも今は神の名に
両手で顔を
暗闇の中、
『トカミ様、聞いてもいいですか?』
『うん。』
『私の中の人たちはどうしたら幸せになれるのでしょうか?今も悲しみに
『そうか・・・お前はそうしたいか?』
暗闇は小さく頷くと兎守の顔を見た。
その顔が優しく
兎守はそうか、と笑うと立ち上がり両手の爪で自分の胸を
白い毛皮が赤く染まり倒れこむ。
すると暗闇の核が暴れだし、小さな穴を作り出すとそこから魂が大きく
暗闇は気を失いそうになりながらも、兎守の傍によると両手で兎守の背を
暗闇が目を覚ますと、あの日、女神に願った人の姿になっていた。
すぐ傍には兎守が横たわっている。
女はそっと兎を抱きしめると
ならば私は、永遠にこの記憶を持ち続けよう。
幸せの中にいても兎であったことを胸に
遠く空が曇っていく。
雨雲が
祖母はそう言った。
私は祖母がぽつぽつと話すトカミ様の話を聞きながら、胸の奥に湧いてくる記憶の波に
祖母が?それとももっと前の?
私ではない誰かの血の中に刻んだ
そしてまた私も祖母と同じように受け
海の向こうにある赤茶けた鳥居、そこにある愛する人の記憶を。
ふと私の手を引く娘の姿に笑みを
『お母さんどうかしたの?』
『ううん、なんでもない。』
小さな娘の瞳に映る鳥居を見て、私は視線を
『さあ、帰ろう。』