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兎守
兎守
蒼開襟
文芸・その他童話
2025年03月20日
公開日
6,470字
完結済
小さな私が愛した、優しい神様との物語。

トカミ

海の向こうに見える鳥居、少し赤茶あかちゃけた門がを背に立っている。

あの場所に何があるのか、祖母に聞いたことがある。

祖母は怪訝けげんな顔をしてこちらを見た。

『何故知りたい?』

祖母の声は静かに低く、いつもの優しい声ではなかった。

『なんとなく・・・。』

そのような答えを飲み込んで黙り込むと、祖母の目を見る。

彼女は小さく溜息ためいきをつくと、遠くにある鳥居を見た。

『あれは・・・トカミ様だ。』

『トカミ様?』

『ああ、トカミ様はうさぎかみと書く。兎の姿をした神様だよ。』

『兎の神様。』

『ああ、そうだ。』

祖母はすうっと目を細めて鳥居を見る。

『ワシはずっと後悔こうかいしている。』

『ばあちゃん?』

祖母は小さな私の手をぎゅっと握り、海を背に町へと戻る。

手を引かれて顔を上げて見た祖母の目に涙が浮かんでいた。



いにしえの神。

いつ神になったのか神自身も知らなかった。

ただ独り海辺に居て、鳴り続ける腹の虫はやかましく、両手の震えが止まらなかった。

このままここで死ぬ?そう思って海を見る。

目の前には食い物も水もあるというのに、食いも飲めもしない。

ここにたどり着いた時、ふらふらした足取りで水に顔をつけてみた。

到底とうてい飲めるものじゃなかった。

ここへはどうやって来たんだろう?もう頭も朦朧もうろうとして思い出せもしない。

真っ白な手足が砂塗すなまみれで黒く汚れている。

べったりとしたものが砂の下にへばりついて、ごしごしこすっても取れやしなかった。

もう疲れ果ててごろんと仰向あおむけに寝転がった。

空は曇り雲が立ち込めている。いずれ雨になるだろうか。

そう思っているとポツポツ降りだして、叩き付けるような雨になった。

口をぽかんと開けて雨を飲む。

海よりはましだろうとじっと雨に打たれている。

そんな時、顔に当たる雨が消えて、ゆっくりと目を開けた。

黒い影に何か二つの目がのぞいている。

じっとこちらを見下ろし傍に座るとひたいに触れた。

『何をしてるの?』

綺麗な声が聞こえて耳を立てた。

ゆっくりと起き上がり、黒い影の中の二つの目をじっと見る。

『飲んでいる。』

答えてみたものの声はれて、じりっとのどいたんだ。

二つの目はいつか見た星の色に似て、柔らかく三日月に揺れた。

『そう。』

一筋ひとすじの風が雨を連れて、ふわりと影の中のそれと濡れた体を吹き抜ける。

『いい風。トカミ様がいらすかしらね。』

『トカミ?』

星の色の瞳が遠くを見る。

海の向こうに思いをせるように。

『そう、トカミ様。』

その瞳が水でにじんで揺れるのを見て、美しいと思った。



繰り返されるは断ち切られることはない。

永遠に続く。

また独り海辺にち捨てられた男が寝転んでいる。

襤褸ぼろまとって、片手には小さな刀が握られている。

随分ずいぶんと痛めつけられたのか切り傷だらけで、顔は青あざでぼこぼことれていた。

腹には矢が刺さり、その先は半分に折れ曲がっている。

男は開かないまぶたを少し開いて空を見る。

生憎あいにくの雨だ。曇り空からじきに雷雨になるだろうと見た。

動けそうもない。

背中には大きな刀傷があり、体を動かすたびに痛みが走った。

このまま死ぬのだろうか?

男は今年の春、祝言sゆうげんを挙げたばかりだった。

可愛い女房にょうぼうが仕方なしに送り出してくれた戦は酷いもので、始めから負け戦だった。

『早く帰るって約束したのにな。』

男はぽつりと吐き出した。頭に女房の顔が浮かんでじわりと涙が出た。

『すまねえ・・・俺は嘘つきだな。』

目を閉じると可愛い女房の笑顔ばかりが浮かぶ、鈴が鳴るような声に、愛らしいしぐさ、好きで好きでたまらなくて、夏の日に思いを打ち明けた。

男は口下手くちべたで、それでも一所懸命いっしょけんめいに言葉を選んだ。

すると嬉しそうに笑ったのだ。

あの日のことは死ぬまで忘れられない。

墓まで持っていくと決めていたけど今じゃない。

それだけは分かる。

男は脱力していく体をゆっくりと起こして、海の向こうをじっと見た。

遠く海と空の境界きょうかいがきらきら光っては揺れている。

そして耳に雷音が響き、顔を上げると雨が降り出した。

ぽつぽつした雨は次第しだい早足はやあしになり、叩き付ける雨になった。

男は肩で息をしながら愛しい女房の名前を呼ぶ。

繰り返し、繰り返し。

涙が頬を伝い雨が全てを流していく。

『お前に会いたい。』

ゆっくりと倒れこんだ男は、砂を一掴ひとつかみして目を閉じた。



雨が降る。雷が鳴り稲光いないかりが走る。

美しい光景は海に反射してキラキラと輝く。

浜辺でひとり座り込み、それをじっと見つめている。

白い手には大きなはすの葉が握られ、葉の下の暗闇くらやみには二つの目が浮かんでいた。その目が水に濡れて揺れると、ゆっくりと砂の上にしずくが落ちた。

『トカミ様、魂は半分こ。』



幾千いくせんの命、たましいみちびき。

潮が押し流し遠く遠く連れて行く。

魂の行く先は誰も知らず、神となった者たちがそれぞれ役割を得てこの世に戻ってくる。

ある者は草花くさばなのために、ある者は人のために。

この海で死んだ者たちは、いずれそうなり配置はいちに付く。

兎守とかみは魂を半分に割り、半分を神に変える。

もう一度人として産まれたいと願っても、聞き入れることはない。

魂は半分、半分では輪廻りんねから切り離される。

半分の魂を小さな箱に入れてひもをかける。

箱はうるししゅ色で兎守が大切に色をつけた。

兎守は毎夜、箱を抱いて眠る。



またひとり海で死んだ。

たましいは割られ、一つは神に、一つは箱へ。

海辺では蓮の葉がぽつりとあった。

雨に打たれ暗闇に浮かぶ二つの目が遠くを見つめている。

大きな目からこぼれる水は、いつしか雨と同じように流れた。

ある夜、沖で船が沈んだ。

足元にあった網がからまり、引きずられるようにして男たちが沈んでいく。

もがき苦しみ、あがき、両手は水の中で空をつかむ。

しだいに動かなくなっていく人の影から、光の玉がゆらりと出て、海の向こうへ吸われていく。

兎守とかみもとへ飛んでいくのだ。

この海で死んだ者は皆、こうなる運命だと死んでからsaとる。



雨の降らない夜がない。

海辺で独りはすの葉の下で海の向こうをながめている。

暗闇くらやみの中の目が、水ばかり落としている。

喪失感そうしつかん絶望感ぜつぼうかん永遠えいえんと続くこれは雨のようだと思った。

目を閉じるたびに誰かの記憶がそこにある。

幸せな一日、幸せな過去。

平吉へいきちと呼ぶ笑顔の女は誰であろうか?

おっ父、そう呼ぶ小さな手は誰であろうか?

知りもしないものが永遠と流れてくる。

悲しみがうずになり、暗闇の中にあるかくに流れ込んでは、消化しょうかされていく。

ときどき々、手が震える。

ここでただ海を見ているだけなのに、死にたくないという切望せつぼうが、ないはずのしたから上がってくる。

二つの目はぼとぼとと水を落とし、はすを持つ手が震えている。

『月が半分こになったら、お前はここに戻っておいで。』

優しい兎守とかみの声を思い出し、空を見上げる。

月などないくもり空が泣いている。



雨がぴたりと止んだのは、それから随分ずいぶんと時間がってから。

空には丸い月があり、はすの葉を持った手がくんとそれを上に動かすと、暗闇の二つの目が月をうつした。

『半分こでないが、トカミ様のとこ戻ろう。』

ゆっくりと浜辺を進み海へ入る。

暗闇はただ暗闇で、波にただよいながら、ゆっくりと海を渡る。

時々、何かに触れたようにしては、二つの目から水があふれた。

小さな進みは波に流され漂うように、兎守とかみの元へとたどり着く。

小さな箱庭hあこにわが海の上にぷかりと浮かび、あかい屋敷とその前には半分にちぎられた魂が、ゆらゆらと海へ向かって歩いていくところだった。

魂は海にけ、空に溶け、幾つかの違う形をして飛んでいく。

『トカミ様。』

紅い屋敷の扉を開けて中をのぞきこむ。

屋敷の高さと同じほどのうさぎがくるりと振り向くと、赤い目が細く長くなる。

『月は半分こだったか?』

『まんまるだったよ。』

『そうか。』

兎守とかみは小さな蓮の葉を持つ手に指先を触れさせた。

『まだ手しか出来なかったのだな。』

暗闇の中の二つの目が兎守を見る。

『目玉はあるよ。』

『本当だ。』

兎守は蓮の葉をそっとでた。

『本当だ・・・目玉はある。』




兎守とかみの一日は永遠と続く。

休むひまもなく、やってくる魂たちの相手をしている。

ちぎっては半分を外へ、半分を箱へ。

そのたびに暗闇の中の二つの目がびくりと揺れた。

あの者の名前は・・・。

聞かずとも流れ込んでくるそれが、記憶だと気付いた時にはもう遅かった。

もう数え切れないほどの者の記憶が、永遠と回り続けている。

私の名前はタカヨシで、ヒナタで、ユキチで。

二つの目からあふれる水は滝のようで、兎守は顔をにごらせる。

『どうして顔がえないのか。』

『顔?』

『お前の顔が見たいのだ。触れたいのだ。』

兎守の白い指が暗闇を突き抜ける。

実態じったいのないお前には触れられない。』

実態のない私。

かくを突き抜ける記憶たちの中に、私の記憶はない。

私について何一つ存在しない。



毎日毎日、誰かの記憶が駆けめぐる。

ないはずの何かがひどいたんで、時々動けなくなる。

はすの葉を握る手がずっと震えている。

見かねた兎守とかみが傍に座ると、暗闇の中の目を見つめた。

『お前は昔、自分で死んだのだ。だからその悲しい過去はお前の中にはない。』

『ない?』

『新しいお前はゆっくりとえてくるだろう。神の力を持って、人の命を使ってお前と言うものを形作かたちづくる。以前と違うお前になるだろう。お前の目玉が星の光に染まったように、お前は美しく生えるだろう。』

『美しく?美しいとは何?』

『お前そのものだ。以前のお前も美しかった。それでも消し去りたいほどに悲しかったのだろう、次はきっと大丈夫だ。』

兎守とかみの言うとおりにはならなかった。

暗闇には目玉が二つ浮かんでいるだけで、いつまでも手以外にえはしなかった。

兎守もまた心配したが神の時間は長い、だからさほど心配はしないと笑った。



夜、兎守とかみの傍で眠る。

暗闇の中の二つの目は、兎守が大事そうに抱えているそれを見た。

それに半分こを入れていた。

震える手で兎守の手の中から箱を引き抜いた。

肩を揺らし眠る兎を横目よこめに箱を持つと外に出た。

美しいうるしの箱。

紐を解いて蓋を開くと、無数の半分のたましいき出て空へと飛んでいった。

いつだったか大きな音のする夜の花のようだ。

箱の下には薄茶色の毛皮が入っている。

両手で持ち上げると小さなうさぎだった。

かたくなった体が両手の中で重く、指先からどす黒い記憶が流れ込む。

『あ・・・。』

嵐の海、沢山の人がおぼれている。

兎はその人たちの上でそれを見ていた。

言葉が話せる兎なんてめったにいない。

だから連れてきた人たちは、口々に助けてくれと叫んでいる。

しかし助ければ自分も死ぬだろう。

何も出来ずただ沈んでいく人たちをながめていた。

でも船は波につぶされて兎もじきに死んでしまった。

そう思ったが目を開けたとき、美しい男のかみがそこにいた。

『どうした?兎。』

神は両手で兎を抱えて海の上を歩く。

波はおだやかで足元でキラキラ光っては後ろへと流れていく。

神はつややかな黒い髪で美しい顔をしていた。

肌は少し浅黒くの光りの下ではやかで。

ふと見惚みとれていた自分に気付き、兎は顔をせた。

なんてあさましい、神に見惚れるなど。

神の手の中で兎はじっとしていた。

なるべく気分をそこなわせないように。



神の家は赤い屋敷で箱庭はこにわの上にぽつりとあった。

誰かが来るのかたずねると迷った鳥や魚だけ。

お前は初めての客人だ、そう言うと笑った。

ほがらかな微笑ほほえみに兎は心臓がつぶれそうになった。

どうしてこのような人が、たった独りでいるのだろうと。

一緒にいるだけで幸せな気持ちになれるのに、どうしてあげることができないのだろう?

あの瞳に優しさを、あの唇にいつくしみを。

うさぎはたくさん考えた。

屋敷の鏡の前で長い耳を両手で整えて、黒い瞳でじっと見る。

そんな時、おろかかな考えが浮かんだ。

くだらない、そんなこといけない。

頭を振るも兎はそうでなければいけないと願ってしまった。

月の夜、兎は波打ち際で、海に月を浮かべて女神に願う。

一瞬でいい、神様と。

女神はたわむれか兎の手をすくうと両手に息を吹きかけた。

みるみる人の手に変わり、女神の息吹いぶきは頭の先から足の爪までも包み込んだ。

兎だった姿は美しい女の姿に変わった。

水面に自分を映しては兎は涙を浮かべた。

女神は去り際、星を散らして笑う。

『命は変わらぬ。』

兎は去り行く女神に頭を下げて、屋敷の奥で眠る神の元へ駆け寄った。

美しい神の寝顔に指を触れ、すぐ傍にひざまずくとそのまま眠りについた。



目覚めた神は、傍で眠る女に兎の面影おもかげを見る。

そして優しげに笑うと、彼女を抱き上げ腕の中で眠らせた。

兎もまた目を覚まし、神の腕の中にいることに気付き、その優しい眼差まなざしに微笑ほほえむと静かに口付けをわした。

愛し合う二人の時間は朝と夜を溶かす。

二人きりの時間はお互いが全てを差し出しても足りないほどだった。

けれど幸せな時間は長くは続かない。

兎の時間はとうに過ぎている。

体の中からむしばまれ、次第に衰弱すいじゃくしていく女の姿に、神は悲しみ泣き暮らした。

神もまたよからぬ思いを持った。

神の力をもたない兎に持たせるためには生贄いけにえを。

その夜から神は海をらした。

人が死に神の元へ流されてくる。

たましいの話を聞き、犠牲ぎせいにするには悲しすぎると魂を半分に割り、半分を女の口へすべり込ませた。

魂の欠片かけらは女の頬を上気じょうきさせる、しかし一つでは数秒と持たぬ。

神は幾度いくど幾千いくせんとそれを繰り返した。

繰り返される悲しき行為に女の体はけ、兎に戻った。

神は絶望ぜつぼうし小さな箱にそれをいれ、それからも繰り返し魂の半分を入れ続けた。

けがれは神をおそっていた。

美しい顔だったのに黒いあざがでて、美しい両手は獣のように毛むくじゃら。

いつしか耳は長くなり、神が鏡を見る頃には大きな兎の姿に変化へんげしていた。



何万なんまんの時をて神の傍で小さな暗闇くらやみが産まれた。

神は喜び消えてしまわないようにとはすの葉を持たせた。

小さな目印だ。

暗闇は海の向こうばかりを気にしている。

ここにいては退屈たいくつだろうと神は約束を交わして暗闇を送り出した。

『月が半分こになったら戻っておいで。』

その頃になればきっと、そう信じて疑わなかった。


暗闇の二つの目から涙がこぼれた。

昔の記憶、神様の記憶。

振り返ると兎守とかみが悲しげな顔をしてそこにいた。

『知る必要などなかったのに。』

『トカミ様。』

兎守がしゃがみこみ暗闇の二つの目を見つめる。

『お前は・・・いつまでもこのままであるのは望まないからだろう?私がこんな風に変わってしまったからだろう?お前のためにしていることも今は神の名にずべきこと。私はけがれてしまった。お前がどのような姿でもいいと願ったのに・・・目玉だけのお前でもいいはずなのに、何故触れたいと願うのだろうな?私は浅ましい。お前に触れたいのだ。』

両手で顔をおおい兎守は泣いた。

暗闇の中、かくに流れ込んでくる記憶の数々は悲しみにあふれている。

『トカミ様、聞いてもいいですか?』

『うん。』

『私の中の人たちはどうしたら幸せになれるのでしょうか?今も悲しみにれています。トカミ様のように泣き悲しいと。』

『そうか・・・お前はそうしたいか?』

暗闇は小さく頷くと兎守の顔を見た。

その顔が優しく微笑ほほえみ昔の面影おもかげが見えた。

兎守はそうか、と笑うと立ち上がり両手の爪で自分の胸をつらぬいた。

白い毛皮が赤く染まり倒れこむ。

すると暗闇の核が暴れだし、小さな穴を作り出すとそこから魂が大きく噴出ふきだした。

暗闇は気を失いそうになりながらも、兎守の傍によると両手で兎守の背をでた。



輪廻りんねの輪が繋がり、また人々は愛する人の元へ戻り始める。

暗闇が目を覚ますと、あの日、女神に願った人の姿になっていた。

すぐ傍には兎守が横たわっている。

女はそっと兎を抱きしめると呪詛じゅそつぶやいた。


神殺かみごろしは禁忌きんき

ならば私は、永遠にこの記憶を持ち続けよう。

幸せの中にいても兎であったことを胸にきざもう。




遠く空が曇っていく。

雨雲が雷雨らいうを連れて来る。

祖母はそう言った。

私は祖母がぽつぽつと話すトカミ様の話を聞きながら、胸の奥に湧いてくる記憶の波におぼれそうだった。

幾千いくせんの、幾万いくまんの悲しいほどに愛する感情。

祖母が?それとももっと前の?

私ではない誰かの血の中に刻んだのろいが、今もここにある。

そしてまた私も祖母と同じように受けtういでいくのか。

海の向こうにある赤茶けた鳥居、そこにある愛する人の記憶を。

ふと私の手を引く娘の姿に笑みをこぼす。

『お母さんどうかしたの?』

『ううん、なんでもない。』

小さな娘の瞳に映る鳥居を見て、私は視線をらす。

『さあ、帰ろう。』


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