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『絃ちゃん観察日記・17
嘘はつきたくない。絃ちゃんにだけは。そう思っていたのに、失敗してしまった』
僕はどうにかまだ動かす事が出来る左手で、それだけ書いた。息を吸うのもやっとだ。恐らく肺が潰れているのだろう。スイのおかげで痛みはあまり感じないが、そんな事よりも思い通り動かない四肢の方が問題だ。
「ヴィー、いい加減に血を飲め! 誰でも良い!」
「嫌、だ。僕は、絃、ちゃんの、吸血鬼、だから」
焼け付くような喉でどうにか声を絞り出すと、それを聞いてスイが眉根を寄せて睨みつけてくる。
「馬鹿か。そんな事を言っていたらいつまで経っても再生しないぞ!?」
「お前も、見た、だろ。僕の、身体が、受け付けない。誰の、血も、欲しがら、ない」
僕は二ヶ月前、ロアの罠にハマってしまった。実に馬鹿げた話だ。僕のもとに、あの絃を奪った吸血鬼の血液タブレットが届いたのだ。
これが無ければ絃は死んでしまう。サシャやセシルからは何の連絡も無かったが、絃に何かあったのかと思った僕は、皆が止めるのを聞かずに会議を投げ出して一人で日本に戻ろうとしたのだが、それこそが罠だった。
空港に向かうために車に乗り込み、エンジンをかけた途端に車が大爆発を起こしたのだ。
咄嗟に顔や頭は庇ったが、もろに爆発に巻き込まれた僕は車体の破片やガラスに身体のあちこちを貫かれた。
けれど色んな臓器がやられた中、何故か心臓だけが無事でその理由は後から知る事になる。
城の前での大爆発に辺りは騒然としていたが、すぐさま仲間たちによって助け出された僕は、そのままスイの自宅へと運び込まれた。
「……これ、は……」
スイが僕を見て絶句したのは聞こえていたが、それ以降の言葉を僕は聞き取る事は出来なかった。ただ、僕は無意識のうちにスイに言ったらしい。
「絃、に、言う、な。連絡、を、怠る、な」
それだけ言って僕はどうやら意識を失ったらしいのだが、あれから二ヶ月。
僕の身体はほとんど回復をしていない。それどころか損傷箇所がどんどん酷くなっている。ハミルトン家の血を持ってしてもこの大損傷には敵わないようだ。
僕の身体にはあちこち色んな管が繋がれているが、その殆どは生理食塩水だった。吸血鬼なのだから血を飲めば簡単に回復する事も分かっている。それなのに、誰の血も僕の身体は受け付けなくなっていた。無理やり献血をされれば吐血し、さらに損傷が激しくなるのだ。
「ヴィー、こいつはどうだ」
スイが一人の嗜好生物を連れて部屋へ入ってきた。視線だけを動かしてそちらを見ると、髪型だけが絃にそっくりの少女が頬を上気させ、恐る恐るこちらに近寄ってくる。
一瞬、記憶の中の絃が微笑んだ気がしたが、絃ではない。そう思った途端に僕はその少女から顔を背けた。
「いら、ない。戻れ」
「……駄目か」
スイは落胆したように少女の背中を押して部屋から追い出し、僕に近寄ってきて大きなため息を落とす。
「輸血も駄目、吸血も出来ない。何なら受け入れるんだ、お前の身体は」
「絃、なら」
思わず漏れた本音にスイが眉根を寄せた。ここには絃は居ないし、僕自身が今回の事を絃に告げるなと言ったのだ。それなのに都合が良い奴だと思っているのだろう。
「戻ったら一番に絃のタブレットでも作るか」
冗談めかしてそんな事を言うスイの声にはもう諦めの色が滲んでいる。
それぐらい僕の身体はもう限界だった。自分で言っておいてなんだが、絃に会いたい。
そしてこんな事になって初めて知った。あの時、吸血鬼に襲われた時の絃の恐怖を。
「怖、かった、だろう、な」
僕でさえ怖いのだ。もう絃に会えなくなるかも知れない。その事がこんなにも怖い。吸血鬼の最高峰だなどと言われていても、生物としての本能が死の恐ろしさを容赦なく突きつけてくる。やり残した事も山程あるというのに。
「何か食べたい物はあるか?」
食べる事など出来ないと分かっているだろうに、スイがふとそんな事を言ってきた。それを聞いて僕は小さく微笑む。
「絃」
それだけ呟いて僕はとうとう意識を失った。
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