「迎えに来た。共に
その声は夜の闇のようにしっとりと落ち着いて、よく響いた。
マタレーナを見下ろすのは、ウルマス・ディア・ウルライネン。
狼獣人の国ウルライネンの国王だ。
漆黒の髪に金色の瞳、黒い騎士服を纏った長身の体躯。
文句のつけようがない美青年だ。
けれどそれはマタレーナにとって、心からどうでも良いことだった。
眉を顰めてため息をつく。そして冷めた目で、ウルマスを見上げ返した。
「謹んでお断りいたします」
金色の双眸が大きく見開かれている。
断られるとは思いもしなかったようで。
どうして……と、心の声が聞こえてきそうだ。
「わたくし、まだ仕事が残っておりますので。御前、失礼いたします」
軽く腰を落として形ばかりの礼をした後、マタレーナはさっと背を向けて去る。
(関わらない、関わりません。関われば……、これまでの全部が無駄になる)
呪文のように繰り返しながら、屋敷へ続く坂道を駆け続けた。
この世界には、獣を始祖とする獣人族と純粋な人族とが混在している。
マタレーナは人の王国の、貧乏子爵ハカネン家の三女として生まれた。
地方の小さな領地の上がりだけで暮らす生家では、跡継ぎとして一人、せいぜい控えの子をもう一人、二人の子を育てるのが精一杯。
だからマタレーナの姉二人でギリギリのはずだった。
それなのになぜマタレーナが生まれたか。
両親があくまでも男子の後継者にこだわったからだ。
マタレーナが生まれた頃には、家督相続に男女の差はなくなっていたというのにだ。
今度こそはといきごんで三人目を作り、そしてお目当てが外れた。
生まれたマタレーナを見た時、父も母もとてもがっかりしたらしい。
「この子、ぱっとしない見た目だわね」
母はそう言って、嘆きを深くしたのだそうだ。
物心ついたマタレーナに生まれた時の様子を聞かせてくれたのは、他ならぬ母なのだから間違いない。
「あなたのおばあ様、お父様方の。あちらに似てしまったのね。かわいそうにね」
姉二人はともに金髪碧眼で、美人と言って良い容姿をしていた。
自分に似たおかげだと得意気に言う母は、美貌をみこまれて準男爵家から嫁入りしたというのが何よりの自慢だった。
「お姉さまたちのようにはいかないでしょうから、あなたは一層努力しないとね」
自慢話の最後は、いつもきまってこう結ぶ。
美しくないマタレーナは、容姿以外の例えば音楽や手芸の腕を磨いて、より良い嫁ぎ先を見つけなさいということだ。
この呪いのような言葉を、マタレーナは十三歳になるまで聞かされ続けた。
「これはこれで、悪くないと思う。私は気に入ってるんだけどな」
十三歳の誕生日、朝の身支度をしながらマタレーナは鏡をのぞきこんでいる。
毎朝丁寧にブラシをかけた栗色の髪は艶々で、緩やかにうねっている。
ハシバミ色の目はぱっちりと大きくて、髪と同じ色のまつ毛は濃くて長い。おまけにくるんと上向きにカールしていた。
ぷるぷるの唇はふっくらと薄桃色で、小さいけれどすっきり通った鼻筋は、それほど悪くはないと思えた。
難があるとすれば、姉たちよりも育ちすぎた身長くらい。
同じ歳の少年に比べると、手足は長く背もかなり高い。
「大女なんて、かわいくないわ」
昨晩の夕食の席のこと。
いかにも嫌そうな、渋い顔をして母は言った。
ここ最近、マタレーナの身長がぐんぐん伸び始めたのを心底嫌っているようだ。
けして母には逆らわない父が、マタレーナをかばってくれるはずもない。
だから父はいつも知らん顔だ。
「あら、かわいくなくていいじゃない。王子様みたいで素敵よ」
みっつ上の姉エルマは、カトラリーを持つ手を止めることなく、さらりと口にした。
幸いなことに、二人の姉はいつも母を制してくれるのだ。
「お母さまはご自分だけが正しいとお思いみたいだけど、流行りの容姿も変わるのですよ?」
特に毒舌の下の姉アーダは、皮肉を載せたきつい口調で言い足した。
エルマとはひとつ違い。
見た目はエルマとよく似ているが、冷静なエルマと違って直情的だ。
「今時わたくしやお姉さまみたいなキンキラの金髪に碧眼、ありがたがる殿方は古臭いと言われますよ」
流行はいつも変わるのだと、下の姉は力説する。
姉たちは母によく似ている。
つまり母のような容貌は、いまや時代遅れなのだと。
(さすがに言い過ぎじゃ……)
流行ではないかもしれないけど、価値がないわけじゃない。
身びいきなしで、二人の姉は美しいとマタレーナは思う。
けれど姉たちが母にぴしゃりとやってくれるのは、嬉しかった。
「今はレーナみたいに、きりっとした姿がうけますの」
上の姉はさらに畳みかける。
母の自慢の美しい顔が歪んだ。
これ以上何かを言えば、倍返しされる。
それを察したのだろう。
気の毒だけれど、二人の姉は母よりはるかに頭が良いのだ。
「まあ、なんてことでしょう。揃いも揃って親に口ごたえですか」
睨み返しはするものの、上の姉は正式な次期当主だ。
立場としては、母より強い。
「わたくしはマタレーナのために、あえて嫌なことを口にしているのよ。親じゃなければ誰が言ってくれるの」
悔し気に言い捨てて、母は席を立った。
おろおろとその後を父が追いかけるのも、最近では珍しくない。
「ごめんなさいね、レーナ。あんな嫌なことを聞かせて」
上の姉は綺麗な眉を顰めていた。
「小さいころからずっとですものね。あんな言いたい放題、止められないお父さまもどうかしているわ」
「ほんとにね。私ならあんな夫、ごめんだな」
まったく同意だと、下の姉もこっくりと頷いた。
「お姉さまたちがいてくれて、本当によかった」
心からそう思った。
両親にはその……、いろいろと思うところがあるけれど、この二人の姉は誇らしい。
この姉たちのおかげで、マタレーナの自己肯定感は底まで落ちずに済んだ。
「お嬢様、十三歳おめでとうございます」
光沢のある茶のドレスでマタレーナを飾り付けながら、初老の乳母イーブは鏡ごしに微笑んだ。
二人の姉とマタレーナを育ててくれた彼女は、貧乏子爵家に仕えてくれる数少ない使用人の一人だ。
「すっかり大人におなりですね。お美しくおいでですよ」
この言葉を疑わないでいられるのも、昨晩の姉たちのおかげだ。
ありがとうと、マタレーナが口にする前に。
「あら?」
乳母は訝し気な表情で、小さく声に出す。
「これは……」
袖を通す前の右肩を乳母はじっと見ている。
どうしたのかと、マタレーナも首を傾げてそこを見た。
「なに、これ!」
昨日までなかった赤い模様が、くっきりと浮かんでいた。
はっきりした五角形がふたつ、重なり合っている。
マタレーナの小さな拳、その半分くらいの大きさの。
「お嬢様、これは番紋ですよ」
畏まって告げた乳母の言葉を、その音だけを拾って繰り返す。
「つがいもん?」
教科書でさらりと触れたことしかない言葉。
けれど乳母の様子に、ただ事ではないことだけはわかる。
とても怖ろしかった。