学校が終わり、
「なぁ、そういやバイトどうする? 専門行ったらやりたいって陽向話してただろ?」
「あー……うん、だね……」
生返事をしながら、陽向は慎重に、慎重にと
「まぁそうは言っても、授業で手一杯ってとこはあるけどな……痛って」
「わ! ごめん!」
「や、大丈夫。血出てないし」
「あーもうほんと甘皮処理苦手だよ……」
慎重にと思いすぎた結果、力んでしまい甘皮を強く押し上げてしまった。
「珍しいよな。陽向なら器用にやれそうなもんなのに。むずい?」
「慣れてないってのもあるけど、痛くしちゃったらどうしようとか考えすぎて逆に力入っちゃうんだろうな。甘皮処理されるのが苦手な人もいるらしいし。あーもう、ちょっと休憩」
陽向はプッシャーを机に置いて、脱力した。
初歩的なところから躓いていてどうする。授業は待ってくれないので、苦手なところは各自克服していかなくてはならない。思わずため息があふれた。
投げ出した陽向の足に、ずしりと重みが加わる。
「なんのための練習台だよ。俺にはべつに失敗したっていいんだから、何回でも失敗して感覚掴めよ」
陽向の太ももに頭を乗せた真紘が、陽向を見上げて笑った。
「やだよ、真紘に怪我させたくない」
「クラスメイトにさせるより身内の方がまだやりやすいだろ」
「そりゃそうかもだけどさ」
不満が口元にあらわれていたのか、無意識に突き出した陽向の唇を真紘がむにと摘んだ。
陽向の『真紘にだからこそ怪我をさせたくない』という感情の機微は真紘には届かない。唇を摘むという、真紘にとってはただの戯れに、陽向がものすごくどきどきしているということも届かない。
唇が解放されるのを待って口を開く。
「そういやバイトだっけ」
「陽向どうする? 就職するまでに一回くらい働いてみた方がいいだろ?」
「そうだね。忙しいけど、学校自体には慣れてきたしやれるだけやってみたほうがいいかも……。できるかな」
練習を疎かにしてまでアルバイトをする気はない、というのは不安からの言い訳だ。どう考えても自由に使えるお金というものは魅力的だし、ネイル用品も嵩めば結構な額になる。たくさん練習をしたいなら、やっぱりお金は必要だった。
「ま、やってみないことには両立できるかもわかんねぇから」
「うん……」
真紘みたいに考えられたらといつも思う。陽向はどうしてもやる前から先のことを考えてしまって不安になりがちだ。
「もうさ、どうせならバイト先も一緒のとこにしね?」
「え? そんな都合よく見つかる?」
「どっちか先に採用されてさ、紹介できる奴いるっつったらいけんじゃね」
「えーそうかな……」
入ったばかりの新人をそこまで信用するものだろうか。アルバイト経験のない陽向には『いける』の範囲がわからない。けれど、もしそれがまかり通るなら、陽向としてはものすごく嬉しい。真紘と同じところでなら、頑張れる気がする。
「それにさ、
「母さんが?」
「陽向はなんでも器用にできるし、
いつもおっとりしている母だ。そんなふうに心配してくれているなんて、少し意外だった。
「箱入り息子だからねぇ……だってさ」
小さな感動に水を差すように、真紘がすかさず言った。
「ちょっと!」
あながち間違ってねぇだろ、と真紘は楽しそうに笑う。
「ていうか、姉ちゃんに鍛えられて育ってるって親が言うセリフ? なんかそれ違う感すごいんだけど」
「それも、あながち間違ってねぇだろ」
陽向のことは全部知っているとばかりに自信ありげな顔をするので、おでこをぱちんとひとつ叩いてごまかしておいた。
「まぁ……これも訓練だと思って頑張るけどさ。お金欲しいし」
下から伸びてきた真紘の片腕が、陽向の頭を優しくいたわるように撫でた。あからさまになだめられている。
ムッとする気持ちがないわけではないげれど、真紘に髪を梳かれると、いつも心が溶けてうやむやになってしまう。たぶんこれが幸せってことだ。
頬が緩まないように唇を真横に引き結んで耐えようとしても、むずむずと唇が物語ってしまう。それもきっとこの幼なじみにはお見通しなんだろう。
「じゃーバイトどこにすっかなー」
真紘の興味が自分から逸れたことを知り、ほんの少しの寂しさと安堵をおぼえる。
「どこかよさそうなところある?」
質問を投げかけることで寂しさを紛らわせた。
「んー、時間帯は十八時くらいからがいいよなぁ」
「そうだね、学校終わって少し時間に余裕ほしいし」
真紘は陽向の太ももに頭を置いたまま、片手でスマートフォンを操作し求人サイトを見ている。陽向は真紘の少し硬めの髪に指をとおし、気の向くままに遊ぶ。
いつもやっていることだから真紘はなにも言わない。
とくに意味はない行為。けれど陽向には意味がある行為。真紘にばれたらダメなもの。
「やっぱ飲食が多いな」
「飲食か……」
「あんまりか?」
「うーん」
接客業を経験しておくのは、後々のことを考えると必要だとは思う。けれど、繁盛しているラーメン屋や居酒屋のように、声を張り上げて接客するのには怖気づいてしまう。ネイリストに大声は必要ない、なんてただの屁理屈なのはわかっているけれど。
ああでも、真紘なら大声を張り上げても格好いいんだろうなぁ。例えばガソリンスタンドとか。
ちょっと聞いてみたい、と邪な気持ちが顔を出す。
「んーじゃあさ、ここにしね? 裏方で体力仕事だけどまぁいけんじゃねぇかな」
「どれ?」
真紘の手元を覗き込むと、表示されている求人はホテルのようだった。
「ホテル清掃?」
「そ、ラブホのな」
「……ラブホ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。驚きのあまり声も大きくなった。自分でも大きな声を出し過ぎたと慌てて手で押さえたけれど意味はなかった。邪な気持ちでいた罰だろうか。
「おお、すごい動揺」
真紘はニヤニヤと意地悪な顔で笑う。
こういうちょっとしたいたずら心で陽向をからかってくるところが唯一と言って遜色ない真紘の嫌なところだ。それでも憎めないのだから惚れた弱みというのは確実にある。
「べつに動揺っていうか……普通にラブホって聞いたら驚くし……」
「かわいいな」
「かっ……、なにそれ、わけわかんないっ」
ホテル清掃と聞いたら普通はビジネスホテルを思い浮かべるだろうという意味で言っただけなのに、絶対にバカにされている気がしてならない。
顔が熱い。
「あらー照れちゃって」
違う、これはそういうんじゃなくて! と言葉にしたところで、どうせ揚げ足を取られるだけだとわかっているがゆえに反論できない。
「……うるさい」
苦し紛れにそう答えるのがやっとだった。
「よし、じゃあ決まりな。このホテル、従業員複数募集ってなってるし。俺が最初に面接行って採用決めてくるから、あとは手はず通りに」
まるでこれから悪いことでもやるかのように聞こえる。採用されるという自信があるのも、なんとか陽向を売り込む算段があるというような言い方も、実に真紘らしいけれど陽向にとっては不安いっぱい、前途多難の予感しかしなかった。