「ほんとに、
「どした唐突に」
真紘がおかしそうにくつくつと笑う。
すし詰め状態の車内で真紘に体を預けながら、
「だって、専門に進学するっていうのは決まってたけど、学校選びは迷ってたから。真紘がここにしよって言ってくれて、嬉しかった」
当たり前のように、専門も同じ学校にしようと言ってくれたから、陽向はこうやって今、真紘に身を預けながら登校できている。
「陽向のネイリストも俺のヘアスタイリストも、どっちも美容専門学校なわけだろ。別にわざわざ違う学校に通う必要なくね?」
なんのためらいもなく、こんなふうに言ってくれる。
陽向だけなんだろう。いずれ訪れる、生まれたときから二人一緒の日常の終わりに覚悟を必要としているのは。
遅かれ早かれ、離れるときはやってくる。
「あ、そうだ。今日も煮卵ノルマあるからね」
「また作ったのか?」
真紘が呆れて言う。
「また一段と上達したから」
「まじでクラスの奴らに、なんでそんな大量に煮卵? 好物なのかって笑われんだからな」
「それはねーちゃんに言ってよ」
「でも当の
「飽きたって」
「あー……まんまとやられたな、今回も」
そう、陽向は自身の凝り性を逆手とられ、姉の命令通りの煮卵を研究するうちにのめり込み、日々大量の煮卵を生み出しているのだ。
「
「気概っつーか、陽向以外はある意味誰も相手にしてないからな」
「うっ」
事実が胸にささる。
「まぁさ……自分で気づけなかった俺の手先の器用さとか凝り性なとことか、気づかせてくれたのはねーちゃんだけどさ」
「陽向がネイリスト目指したきっかけではあるしな」
それは穏やかな日差しが気持ちいい、ある日のことだった。
陽向の手先の器用さを見抜いた姉が「ん」と言って、とつぜん陽向の目の前に足を差し出してきた。爪に色を塗れということだと理解するのに数秒はかかった。ようは、『お前は器用だから女王である私の足の爪にマニキュアを塗ることを、特別に許可してやろう』ということだった。
姉の弟への態度には卒倒しそうなくらい腹立たしかったものの、歯向かえない陽向はしぶしぶ塗ってやった。すると尊大な態度の姉が珍しく陽向を褒めた。
――赤は塗るの難しいんだよ。あんたネイリストでも目指せば?
天変地異が起こった十五歳の春、凝り性な性格も相まってやる気になり、ネイリストが陽向の夢になった。
「でも安心して。煮卵ノルマは今日で終わりだから」
「え、まじか。助かったー……」
思いのほか真紘が本気でほっとしているのが声に滲んでいて、陽向はいまごろ申し訳なくなった。
「やっぱさ、恥ずかしかった? 女子に冷やかされたり?」
「いや、煮卵に突っ込んでくんのは男連中な。てか、クラスに女子が多いのは俺より陽向だろ」
「まぁ、そうだね」
「圧倒的女子率で居づらくねぇの?」
「うーん、案外平気。その辺はねーちゃんせいというか、おかげというか」
「ここでも女王様の影響が……」
陽向も自分で言っていてげんなりした。
けれど事実として、女子が九割を占めるクラスでも浮かないのは姉のおかげだった。
日ごろ姉からもたらされる情報に相槌を打つという作業をしているうちに、いま女子の間でなにがトレンドなのかという情報集能力、聞くに徹するのが吉、などのスキルがついた。
結果、クラスの女子たちとの間に壁を感じずにすんでいる。
「ま、そうでなくても陽向は人懐っこいし誰とでも仲良くなれるよな」
「そうかな?」
真紘は、陽向が自分に懐いている様子をみてそう思うんだろうか。
確かに陽向は、誰かと仲良くなるのにとくべつ難しさを感じたことはない。思春期を経てもそう感じるのは、またしても姉の強い言(ネイリストを目指すなら人当たりが良くて当たり前、懐に入るのが得意くらいになってくれないと、長い施術時間が退屈でしょ)によって陽向が気を付けているからだし、それは真紘も知っているはずだ。
だから、真紘が思う陽向の人懐っこさには、真紘に対して幼なじみ以上の感情が多分に含まれていることになる。
「俺から言わせてみれば、自然と誰とでも仲良くなっちゃうのは真紘の方だと思うけど。どうせ専門でも男女関係なく囲まれてるくせに」
「まぁな」
「うわ謙遜しないし」
「しても意味ないだろ」
真紘らしかった。
他の誰かなら、多少なりとも否定しなよと思うところだけど、相手が真紘なら、そういうところも『らしくて好きだな』となってしまう。
惚れた欲目ほど自分の中の基準を捻じ曲げてしまうものはない。
電車が大きく揺れた。
真紘に身を預けている安心感から、不要な力を抜いていた陽向はバランスを崩した。
しかし次の瞬間、陽向は真紘に抱きかかえられていた。
真紘の匂いが、強い。
「大丈夫か?」
「うん」
ごめん、と言いながら慌てて体勢を立て直す。
今度はもう真紘に寄りかからずに真っ直ぐに立った。心臓がどくどくと音を立てている。
「寄りかかんねぇの? 眠いんだからそうした方がいいって。また揺れたら——」
「もういい。また真紘潰しちゃうし、ちゃんと自分で立たなきゃ」
慌てて言う。
「あのなぁ、陽向くらい支えられる。いいから、ほら」
真紘は強引に陽向の腰を引き寄せた。
不意を突かれた陽向は、ぶつかるように真紘の胸へ飛び込むしかなかった。
なんでこんなに未練になるようなことをするんだろう。
湧き上がる愛おしさと嬉しさで身が捩れそうで、同時に苦しさが口から零れ落ちそうでもあって、陽向はきゅっと唇を結んだ。
真紘はずるい。本当にずるい。こんなことされたらもっと好きなる。なってしまう。
「……やっぱさ、真紘は……うん」
うん、うんと一人で納得する。
やっぱり、真紘は格好いい。
「なんだよ。いつも『うん』で勝手に終わるなって言ってんだろ」
「……うん」
やっぱり、好きだなぁ。
けれどこの恋は、行き止まりだ。
好きでいるくらい自由にさせてほしい。けれどこれから先、叶いもしない想いを抱えたまま生きていくんだというビジョンも見えない。
だから陽向は決めていた。
この恋を、あと二年で終わらせると。
目指す職種は違う。
住むところも変わるだろう。
いずれ、離れるときはやってくるのだから。
専門学校へ通う二年は、学ぶ二年だ。そして、真紘を諦める二年でもある。
掴むための二年と、手放すための二年。
チグハグだ。
気をつけていないと心がバラバラになりそうだった。一つの身体で、頭で、方向の違う作業をしなければいけない。
二年間で少しずつ真紘への想いを断ち切っていく。二年もかかるのか、二年では足りないのか。
いいや、二年で区切りをつけるのだ。
真紘が一緒に通える専門学校を見つけてくれたおかげで、あと二年は一緒にいられる。
二年間で、真紘から離れる訓練をする。
大丈夫、きっとできる。
「ね、真紘。……好きな子できたら、教えてね」
「なんだよ突然」
「深い意味はないけど。強いて言うなら幼なじみ特権的な」
「できねーよ」
やけに強い口調だった。驚いて、真紘を見上げた。
「あ……いや、いまは彼女とかそれどころじゃないわ」
たしかに、四月に入学してまだひと月ほどだというのに、お互いに座学に実技にと忙しい日々を送っている。
けれども、どんなに忙しくても恋は出来るって、陽向自身が証明だ。
いつか真紘も恋をする。
なぜか真紘はこれまで一度も彼女をつくったことがない。モテることを裏付けるように、何度も告白されていたことを知っている。
いつか真紘には、心底好きだと思う人が現れる。
こうやって満員電車を逆手にとって密着して、それで幸せだなと思うような、それくらいしかできない奴とは違って、真正面からなんの躊躇いもなく真紘に抱きついて、笑ってくれるような人が。
少しずつなにかを手放しながら進んでいく。それが大人になるってことに繋がるんだろうか。
もしそうなら、大人ってこわい。
好きなものは好きでいいはずなのに、だめなものもある。
ネイリストの夢は絶対に諦めない。
恋は諦めても、夢だけはなにがあっても絶対に叶えてみせる。手に職をつけて、ちゃんと自分の足で立つ。
少しずつ手放して、大人になって、夢を叶えるんだ。
そうひとり唱えて、でも今はまだここに居たい、ときつく目を瞑った。