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第12話 家族旅行

 ——……俺ね、あのときからずっと真紘まひろのことが好きだったよ。


 ——安心してよ。もう今日で終わりにするから。真紘はただの幼なじみ。真紘的にはなにも変わらないよ。



 あの思い出すのも苦しい夜からひと月ほどが経ち、期末試験を終えた七月の下旬、陽向ひなたたちは夏休みに入った。


 あれ以来、陽向はふとした瞬間に、ベッドの上で真紘に組み敷かれたことを思い出してしまう。

 真紘は懺悔と後悔にまみれた呻き声で陽向を汚したくなかったと言い、泣いた。


 陽向にとって真紘はいつだって甘苦しいくらいに優しくて、格好いい幼なじみだった。

 あの日、陽向の知らない真紘がいた。ひどく混乱して、だから陽向はそれらを振り切るように、なにも考えないで済むようにと、とにかく毎日練習に打ち込んだ。


 朝は真紘と登校していた時間より早く家を出て、放課後もバイト以外の日は出来るだけ学校に残って練習した。

 そのおかげもあって、苦手だった甘皮処理は危なげなく出来るようになったし、期末試験の手応えも十分だった。


 学校の成績だけを見れば、スッキリと夏休みを迎えたことになる。

 けれど、陽向の心中まではそう簡単にスッキリと晴れてはくれなかった。


「陽向、あんたまだ真紘と仲直りしてないわけ? いったいいつまで避けてたら気が済むのよ。旅行までになんとかしておかないと許さないからね」

 姉にぎん、と睨まれる。


 陽向の心中がスッキリとしない理由、それは、毎年恒例の家族旅行があるからだ。それも、柳木やなぎ家と合同の。


 物心ついたころにはもう恒例行事となっていた両家合同の家族旅行は、今年も例外なく日取りが決まっている。行き先は車で二時間ほどの距離にある温泉街だ。

 まさか幼なじみを避ける日々の只中にいるとは思わず、夏休みのビッグイベントが温泉街だと決まったときには、真紘と楽しみだな、などと言って盛り上がっていた。

 あのとき陽向が真紘を探しに喫煙所にさえ行かなければ、今も純粋に真紘を好きな陽向のままでいて、旅行も心から楽しみにしていたかもしれない。


「ちょっと聞いてんの? この私の言うこと無視して思考にふけってんじゃないわよ」

 腕を組んだ姉が仁王立ちでリビングのソファに座る陽向を見下ろす。

 女王の理不尽は今に始まったことではない。

「聞いてるって」

 陽向は呆れながら適当にあしらった。


「じゃあ早く仲直りしなさいよ。いつまでも母さんたちに心配かけてんじゃない」

 いつも陽向をしもべのように扱う姉でさえ、口は悪いが心配してくれているのだろう。陽向の両親はもちろん、真紘の両親も同じように。


 幼い頃から、四六時中一緒にいた二人だ。そりゃあ心配もかける。

 けれど、これはいわゆる喧嘩というやつなのだろうか。あれは家族が想像しているような些細な言い合いなんかじゃない。

 ゆえになにも解決せず、瞬く間に旅行の日程が迫ってきた。


   ◇


 お盆シーズンより少し前のよく晴れた日。温泉街から徒歩五分ほどのところにある旅館にチェックインした入野いりの家と柳木家は、夕食までの時間を使って有名な石段街を散策することにした。


 陽向たちが訪れた温泉街は関東屈指の人気を誇る温泉街の一つ。

 三六五段ある階段の途中には『黄金の湯』と『白銀の湯』からなる日帰り温泉や土産屋、老舗の旅館などが軒を連ねている。

 一つ百二十円の温泉饅頭や、射的などが楽しめる遊技場。

 どこか古めかしく味のある石段街は、ロマンに溢れていた。


「うっわ最高じゃん!」

 集団の先頭を行くように我先にと石段を上がっていた姉があとに続く家族を振り返り感嘆の声を上げた。

 姉の視線は陽向たちよりもっと遠くうしろにある。


「わあ……」

 振り返った視界に飛び込んできた景色に、陽向も思わず目を奪われた。石段街の歴史を感じさせる建物の向こうに、瑞々しい山並みが悠々と広がっている。

 温泉街一帯の地域よりは都会で暮らしている陽向たちにとって、石段街から見える山並みは思わず魅入ってしまうほど壮観だった。


 大自然を前にしばらくみんなで佇み、再び姉を先頭に一行は石段を登り始めた。

 名残惜しさにうしろ髪をひかれつつ、陽向も石段を上がろうと山並みに背を向けたとき、ばちっと真紘と目があった。

 不意打ちに心臓が嫌な跳ね方をした。

「すげえ、な」

「……だね」

 たったそれだけのぎこちない会話。すぐに視線を逸らした。


 久しぶりに聞いた真紘の声は、避けていた日数分遠かった。

 続ける言葉は見つからず、陽向も石段を上がる。真紘は一歩遅れて上がり始めた。

 いっそ追い抜いてくれた方が気が楽なのに、真紘は陽向を追い抜かそうとしなかった。背中に真紘の視線を感じるようで、思わず体に力が入った。

 わずかにペースをあげ石段を上がっていると、またもや姉がなにかを見つけたようだった。


「これやりたーい! 射的! 縁日とかでもやったことないしさ」

 遊技場の前ではしゃぐ姉に店主が気づき、「挑戦していってよ、十発で三百円」と呼びかけた。

「やりますやりますー! でも私やったことないからやり方わかんない!」

 陽向は身構えた。これは確実にしもべである陽向に振られるパターンだ。嫌だから、と言おうとした矢先、真紘が陽向を追い越した。


真由まゆちゃん、俺やろっか。けっこう得意」

「え、まじ! 真紘あんた男だね」

「射的ぐらいで男語られてもな」

 笑いながら、真紘は尻ポケットからさも当然のように財布を取り出し、小銭を店主に渡した。なんの違和感も疑問も抱かせないくらい自然な動作。手慣れ過ぎていた。


 古き良き遊技場の中で、真紘はいとも簡単に景品を撃ち落とした。

 きっと棚に並ぶ景品みたいに、真紘はいろんな女の人をころころと落としてきたのだろう。親指の腹に突き立てた人差し指の爪が、思いのほか強く皮膚を刺激した。


 真紘は優しく笑って「はいどうぞ」と姉に景品を手渡した。

 あんなふうに何人の女の人に笑いかけたのだろう。


 姉も射的に挑戦するらしい。真紘は姉の後ろから覆いかぶさるようにして体を密着させ、銃の構え方をレクチャーしている。

 そうやって何人に優しくした?

 触れた?

 抱きしめた?


 ――抱いた?


「……っ」

 がりっ、と下唇の裏を噛んだ嫌な音のあと、口の中に血の味が広がった。





 それから一行は石段を上がりきったところにある神社に詣り、旅館に戻った。

 宿泊する旅館では、食事は部屋食ではなくダイニングで食べることになっていた。

 名物のうどんを始め、海の幸、山の幸をふんだんに使った豪勢な夕食。陽向はそれらを、ただ機械的に胃に詰めていった。


 夕食を終え、大人たちは大浴場の黄金の湯と白銀の湯を堪能しようと盛り上がっている。

 軽く酒が入っているせいか、いつもより陽気な声がぽんぽんと飛び交う。

「じゃあ、あとでねぇ」と陽向の母が言い、柳木家と別れ、陽向は入野家にあてがわれた部屋に入った。


「あー、ほんと美味しかったわー」

 姉が畳の上に寝転がる。

「ほんとうねぇ」

 母も寝転がる。

「そうだなぁ、本当に美味しかった」

 父はほけほけと笑っている。

 いや、あんたら今からお風呂入りに行くんでしょ!


 陽向の家族はそれぞれタイプの違う自由人ばかりだ。

「そんなすぐ寝転んだらブタになるんじゃない」

 陽向は畳に寝転がる自由奔放なツワモノどもに冷たい視線を投げかける。

「陽向ぁ? デリカシーない奴はぁ、さっさと風呂行って身から魂まで浄化されてこい!」

 陽向の冷たい視線もなんのその、姉は足のつま先でドアを指し、早く行ってこいと顎をしゃくった。弟ながら、姉の将来を心配した。態度が悪すぎる。絶対モテない。


「姉ちゃんたちこそ転がってないでお風呂行きなよ。あとでね~っておばさんたちと言ってたじゃん」

「満腹でしんどいの。今入ったら全部吐いちゃうもーん」

「そうよぅ、だから、母さんたちはもう少しあとで行くからぁ」

「じゃあ陽向、父さんと先に行こうか」

 父が朗らかに笑いながら言う。

 このツワモノどもになんとか言った方がいいよ、と父に視線を投げかけるも、父は気にもならないらしい。

「……そうだね」

 陽向は諦めた。


「父さんグッジョブー」と、畳に転がったまま姉が言うので、腹が立って思い切り戸を閉めてやった。

 なにがグッジョブだ。どうせ、口うるさい奴を追い出してくれてありがとう、という意味だろう。


 気分を害しながら大浴場を目指す陽向のとなりで、父は楽しみだなとただただ上機嫌だった。

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