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第13話 真実

 真紘まひろの存在で体に力が入ったり、自由奔放な家族との言葉の応酬で、陽向ひなたはぐったりしていた。


 せめて温泉くらい堪能して帰らないと割に合わない。そう自分を慰めたけれど、陽向が極上の湯に身を震わせたのとほとんど同時に、真紘と真紘の父が脱衣所の戸を開けやってきた。


 自分に向けられた真紘の視線に気づいてからは、もうだめだった。

 陽向は裸の真紘を視界に入れないようにして、大浴場をあとにした。


 今頃母たちは『白銀の湯』に浸かっているだろうし、陽向の部屋はもぬけの殻なはずだ。


 せめて、せめて、部屋でつかの間の時間を満喫しよう。

 そう気持ちを切り替えた。


 なのに今、入野いりの家の部屋には陽向と真紘がいる。


 陽向が部屋に戻って二十分くらい経った頃、部屋のインターホンが鳴った。てっきり父が戻ってきたのだと思い、確認もせず戸を開けると、浴衣に身を包んだ真紘が立っていた。


「……なに。部屋違うけど」

「あ、いや……ここ、俺の部屋でもあるっつーかさ」

 どう見ても入野家にあてがわれた部屋だ。鍵で部屋に入れたのだから部屋番号も間違えていないし、陽向の荷物だってある。


 ……あれ?

 なんか、よく考えたら、荷物が足りない。


「実は、さ。うちの親とか、奈緒子なおこさんたちが部屋割変えたっつーか……仕組まれてたっつーか……」

「どういうこと?」

 明らかにチェックイン時とは荷物の量が違う室内を見渡し、めまいがしそうだった。

「たぶん、気利かせてくれたんだと思う」


 つまり、気を利かせて、陽向と真紘の二人きりにした、と。

 部屋を出る間際に姉が言った「父さんグッジョブ」というのは、もしかして陽向を邪険にしただけではなくて、このためでもあった? ほけほけと笑って一緒に大浴場に向かった父もグル?


「待ってよ。いつから知ってたの」

「風呂行く前に真由まゆちゃんからメッセージ来て、今から荷物持ってそっち行く、一晩陽向と一緒にしてあげるからいい加減なんとかしろ、って」

「なにそれ……」


 心配をかけているのはわかっている。けれど、これは逆効果だ。家族が考えているようないつもの延長線上の喧嘩ではない。以前までの二人とは、明らかにかたちが変わってしまったのだから。


「あの日のこと、本当に悪かったと思ってる」

 突然、真紘が膝をついて頭を下げた。

「言い訳にしかならねぇのはわかってる。あんなこと……陽向を傷つけるようなこと、するつもりじゃなかった。あんな一方的な暴力をお前に振るうなんて、したかったわけじゃねぇんだ」


 あんなこと。何度もふとした瞬間に思い出したあの夜のこと。真紘は苦しそうに呻きながら、陽向の身体を弄まさぐり、陽向を汚したくなかったと言って泣いた。


  悲しくて、辛くて、ここが想いの断ち切りどころだと思って、真紘に告白した。

 終わらせるために告白した。

 安心して、明日からの俺は真紘のことを好きじゃないから、という言い方で。


「俺は真紘のことをなんでも知ってるんだって思ってた。俺の知ってる真紘は優しくて格好よくて。いつか真紘に彼女ができたとき、そんな真紘に好かれる女の子は幸せに違いないって」

「……陽向は、俺を買いかぶり過ぎだ。そんないい奴じゃないし、誘われたら誰とでもやる男だ。陽向も傷つけた。だせぇ男だよ」

 そろそろと顔を上げた真紘はしなびて、頼りなくて。こんなにも情けない顔をしている幼なじみは初めてだった。


「最初は、いつなの」

「……高一」

 そんなに前から。

 そうとは知らず、真紘も童貞だと思い込んでいた自分が本当に馬鹿らしい。そもそも体の関係をもつということは、恋人がいるから成り立つという持論が間違っていた。


「三年の先輩に誘われるがままだった。年頃ってこともあったし、ただの興味本位。もっと感動すんのかなって思ってたけどなんの感慨も湧かなかった。陽向からしたら最低だろ?]

「……なんで彼女作んなかったの」

 陽向が問うと、真紘は「それは……」となにかを思い出すように遠くを見ながら力なく笑った。


「陽向さ、俺が告白に呼び出されて、教室戻ったら真っ先にどうだったって訊いてきただろ?」

 真紘が決めた相手ならと思う一方で、自分の好きな人が告白を受けたという状況はやっぱりショックだった。


「俺が断ったって言うと、毎回あからさまに安心した顔すんだよ陽向。そのときは俺にだけ彼女ができるのが嫌なんだろうなって思ってた」

 陽向は目を丸くした。それは自分でも気づいていなかったことだった。

「安心した顔のあとで、陽向いっつも寂しそうな顔してさ。だからなんか彼女つくんのはいいやって思ってた。陽向に彼女ができたあとでいいやって」


 たぶんそれは、今回は断っても次は断らないかもしれないとか、真紘とどうこうなれるわけじゃないのに喜んだって仕方ないとか、おそらくそういうことを考えていたからだと思う。


「嫌われたくなかった、陽向に。いつも陽向は俺を特別眩しいもんでも見るみたいにみてくれてたから」

 だから、言えなかったんだ。

 そう真紘の目が物語っている。


「俺も陽向のこと、知った気でいただけだったのかもな。……好きでいてくれたことにも気づかなかった」


 あの夜からひと月ほど経って思う。

 一生真紘に気づかせることのない想いだから。陽向の中でのみ完結する想いだから。そうやって自分のことを棚に上げて、陽向は真紘だけを責めたのだと。


「ごめん。もう忘れてほしい」

 陽向が真紘に持っていた気持ちは、あの夜、自分から終わりにしたのだ。真紘がうしろめたく思う必要はない。


「俺に好きだったなんて言われて、きもかったよね。なんていうか勢い。真紘と一緒でしょ? 深く考えないでよ。これからも真紘は大事な幼なじみ。家族にも心配かけてるし、もう今日で仲直りにしようよ」


 きりきりと胸が痛む。

 でも、この場が収まればいい。


「自己完結すんなっていつも言ってるだろ」

「……だって普通に引くでしょ。あんなこと言われたら」

「俺が一回でもきもいとか引いたとか言ったか?」

 少し焦れたような怒っているような声で問われる。


「嫌だったらしねぇよ、あんなこと」


 消え入りそうなほど小さなこえだった。

 戸を隔てた廊下で子供の明るくて無邪気な声が走り去っていく。


「言えばよかったんだ。いっとき気まずくなったとしても、今よりは陽向を傷つけずにすんだかもしれない」

 真紘は深く息を吐いた。どこか、心に決めようとしているかのような慎重さがあった。


「なんで女を抱きながら陽向の顔がちらつくんだろうって不思議だった。でもわかったんだ。俺に笑いかける陽向とか、不満げに口を突き出す陽向とか、俺の隣で眠る陽向とか、他にもいっぱい全部かわいいって思ってるなって。それに気づいたら、ああそりゃしょうがねぇわって思った」

 視線を絡めとられる。真紘の目にはわずかに狼狽える陽向が映っている。


「絶対陽向を困らせる。陽向は幼なじみだぞって。陽向が俺から離れて行って、幼なじみの関係すら続けられなくなったらどうしようって」

「でも……」と言って、真紘は陽向へ向かって右腕をのばした。陽向まで届かないそれは、空中で陽向の頬の輪郭に手を添えるように止まった。


 膝をついている真紘と、そんな真紘を見下ろすかたちになっている陽向。

 これが今の二人にできてしまった心の距離だ。なのに。

「でも、なに」

 ほんの少し、声に動揺がにじんだ。

「ごめんな、陽向。俺が、ちゃんと勇気を出せばよかったんだ」


 勇気——。

 それがなにを指すのか、わかりかけている自分が嫌だった。


 ——あのね、入野くん。諦めようって思ってる時点で、自分と同じものを相手にも返してもらえたらいいなって思ってるんだよ。ただ想ってるだけでよかったら、そもそも諦めようなんて考えにはならない。


 ふと思い出した八木の言葉。どうして今思い出すのだろう。


「……なにが、言いたいの」

 聞きたい。

 聞きたくない。

 でも、後悔は今この時にはわからない。

 未来にしか、答えはない……。


「——好きだ。俺は、陽向が好きだよ」


 真紘の勇気は、あの夜に終わらせた返ってくるはずのない気持ちの片割れだった。

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