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第14話 見つめる心

 ——好きだ。俺は、陽向ひなたが好きだよ。


 あの夜に終わらせた恋の片割れが、そこにある。

 なにか、言葉を紡がなくては。喉の粘膜が張り付いたり剝がれたりを繰り返す。ようやく声にできたと思えば、それは呆れるくらい素直な確認だった。


「……真紘まひろが、俺のこと……好き?」

「そうだよ。いつからとか、そんなんわかんねぇ。でも初めて女を抱いたときにはもう好きだったんだと思う。ずっとこれが陽向ならって。何回も何回も陽向を重ねてた」


 あの夜の真紘も、苦しそうに言っていた。ぼろぼろに傷ついて、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、涙は見えないのに泣きじゃくったみたいな顔で、助けを乞うみたいに思いを吐き出していた。


「陽向を傷つけといて言うことじゃねぇのはわかってる。本当にごめん。でも、陽向のことが誰よりも大事で好きだって気持ちは嘘じゃねぇよ」

 あの夜を葛藤しながら、真紘は真摯な想いをまっすぐに陽向にぶつける。

「もう俺のこと……ちょっとも好きじゃねぇか?」


 ——っ。

 きっと、陽向の本心は叫ぶ言葉をわかっていた。


 けれど実際は、信じがたい気持ちを前に恐れをなしたように頭を左右に振っただけだった。一歩後ずさった陽向を見て、真紘は表情に影を落とした。

 胸がえぐれるように痛い。最近はこんな感覚を覚えることの連続だ。陽向は、そう思った。


   ◇


 夏休みも終わりがみえてきた。

毎年恒例の入野家いりのけ柳木家やなぎけ揃っての家族旅行から、一週間と少しが経った。

 つまり、真紘に告白されてから同じくらいの時間が流れたことになる。


 旅行の際、お互いの家族による強引な計らいで、陽向と真紘は久しぶりに話した。“仲直り”をお膳立てされ、これまでどおりの二人に戻るよう期待されたけれど、残念ながら元通りとはなかなかいかない。


 陽向はまだ、真紘を避けている。


 とはいえ、以前とはちがって顔を合わせれば、ぎこちなくだが挨拶を交わす程度のことはするようになった。

 真紘の告白から逃げ、抜け道を見つけては迂回し、問題を先送りにしているような有様なのが、今の陽向だった。


「入野くん、おはよう。ちょっと久しぶりだね」

 これ帰省のお土産、と八木やぎから地元の銘菓らしきものを手渡される。

「柳木くんにはさっき渡したから、これは入野くんの分。よかったら食べて」

「あ……。ありがとうございます」


 八木と顔を合わすのは二週間ぶりくらいだった。

 陽向と真紘が家族旅行で休みを取ったあと、八木は入れ替わるように一週間ほど休みをとっていた。


 実のところ、八木ともあの日から少しギクシャクしている。

 八木はあれからずっと申し訳なさそうにしているし、陽向は陽向であの日のことを持ち出されるのが嫌で避けてしまっている。

 真摯に語る一面もあれば、羽のように軽い一面もある人だ。真紘も真紘で思うところがあるのか、あの日以降八木と一緒にいるところはあまり見ない。


「あのさ、柳木くんとは……」

 陽向は反射で八木の顔を見た。

「や、その……。ごめん」

 しまった。あからさまに嫌悪感が表情に出てしまったかもしれない。


「ほら、前に入野くんたち旅行いくって言ってたでしょう? だからというか、なんというか……タイミングがタイミングだし、大丈夫だったかなというか。普段の生活で顔を合わさないはできても、旅行先となると難しかったんじゃないかな……みたいな」


 八木には近々家族旅行がある、と話していたんだったと思い出す。あからさまに仲がこじれた二人を目にしたら、気になるのもしかたない。陽向自身がいくら話題を避けたくても、相手の気持ちが強ければいつかは話題と向き合うときが来てしまう。

 それでも陽向はどう答えようか迷って、結局苦笑するにとどめた。


「そっか」

 八木に少しの落胆がにじむ。もしかしたら責任を感じているのかもしれない。


 陽向は申し訳なく思った。あの日喫煙所から聞こえてきた八木と真紘の会話は、結局のところ陽向と真紘の話だ。たとえ八木が真紘に発破をかけたからだと認識していたとしても、それはそれ、これはこれ、だ。


 余計な肩の荷はおろしてもらいたいけれど、あの日のことにあまり触れたくない陽向は、どう会話の糸口をみつけたらいいのか悩んだ。


 旅行中、ホテルであったこと話してみようかな……。


 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。


 でもそれは、八木の罪悪感につけ込むことになるだろうか。

 しばらく考え、陽向は意を決して八木を見た。


「八木さん、あとで部屋に上がったら、話したいことがあります」

 他に聞かれたくない話は、客室清掃に入ってからする方が賢明だ。


 八木は、なにを言われるのかと構えたような固い表情でうなづいた。




「それで入野くん。話っていうのは——」

〈清掃待ち〉の部屋に入るやいなや、作業のため手を動かすよりも先に、八木は切り出した。表情が張り詰めている。


 陽向は言葉に詰まった。躊躇いや気恥ずかしさ、後ろめたさみたいなものが胃のあたりにきゅっと収縮している。緊張に似た不快に急きたてられて、考えがまとまらないうちに陽向は口を開いた。


 真紘のことなんですけど。

 そう前置きすると、八木の表情から少しこわばりが抜けた。

「えっとその……旅行で真紘に告白……をされました」


「…………えっ」

 たっぷり三拍は数えてから、八木の驚きが廊下まで響いた。


「ちょっ、声が大きいです!」

 従業員が集まる待機所よりはマシという理由で客室にしたけれど、ドアを半開きにして清掃している以上、この声量で会話が続いてしまうのはさすがに困る。


「えっ! あ、ごめん。だってそんな……いやそっか。柳木くんが……」

 八木は慌てて声を抑える。けれど声音や表情は高揚を隠しきれていない。


「八木さんは知ってましたか。その、真紘が俺を好き……だって」

「いやいや知らない。彼女つくんないで遊び歩いてたのは知ってたんだけど」

 八木は眉を下げる。


「入野くんはそのこと知らなそうだし、柳木くんは隠したがってた。それを俺は面白がってあんなことに……。あの、このタイミングじゃないのはわかってるんだけど、本当にごめん。謝ったら負担になるっていうのもわかってる。でも、謝らせて」

「いえ、そのこと自体は八木さんは悪くないので。それは真紘だってそうだと思います。あの日は、たんなるきっかけにすぎなかったというか。完全に俺と真紘の話というか。いつかはああいう日が来ていたんだって、今は思うので」


 嫌な記憶だし、避けて通れるなら通りたかったけれど、通ったから見えた真紘の気持ちや葛藤があったのはたしかだ。

「入野くんがそういうなら……。だけど、」

「八木さんが気にしてしまう人なのはもう知ってますよ。ほんとに、気に病まないでほしくて」

 陽向は意識して微笑みかけた。八木は居心地悪そうに視線を下げて、複雑そうにする。すんなりと納得できないのかもしれない。


「むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方です。あの日から今日まで、避けるような態度をとっててすみませんでした。どうしても、あの日のその後のことを聞かれるんじゃないかと思って構えてしまって」

 八木ならきっと声をかけてくるんじゃないかと思った。驚くような一面があっても、親身に陽向の話を聞いてくれた八木も知っているから。


「それこそ気にしないで。柳木くんも同じような感じだったし、俺が種をまいちゃったようなもんだから。二人の問題って、君たちが考えるのもわかるしね」

「じゃあお互い、もうこれで謝りっこなしってことにしませんか?」

 陽向が提案すると、諦めたように八木はうなづいた。

「わかった。ありがとう」


 これ以上の謝り合いは意味がない。陽向も八木も肩の荷がおりたように苦笑し、それが合図のように清掃をはじめた。


「……真紘とも、こんなふうに和解できたらいいのに」

「え?」

 ちいさなぼやきが、バスルームで作業する八木の耳に届いたらしい。


「あ……いえ。その、真紘とまだ仲直りというか、今までどおりとはいってなくて」

 洗面台の鏡越しに八木を見る。

 八木はほんの少しだけ作業の手を止めて考えるそぶりをみせ、また手を動かした。


「もうあんまり入野くんたちの仲をどうこうしたくないけど、いっこだけいい?」

「え? はい」

「これまでどおりっていうのは、もう無理なんじゃないかな」

 なんてことないように、軽い口調で八木は言った。

「少なくとも柳木くんは君に告白をして踏み出した。これまでの日常に、ある一点の色を足せば、もう同じ景色には戻らない。流れに身を任せるでも、区切りをつけるでもいい。でも、どちらにしても決めないと後でしんどくなるよ」

 それはどこか遠くをみつめるような響きだった。


 区切りとは、どの程度区切ることを言っているのだろう。ただ告白を断ることなのか、関係そのものなのか。区切らなくても、区切っても、戻れないのは同じ……。


「実は俺も、旅行よりも前——あの日の夜に気持ちは伝えたんです。でもそれはいろいろあって本当に自分の気持ちを終わらせようって決めて。それこそもう区切りをつけようって」

 八木のおかげで抱いた勇気は、想像よりもずっと苦しいかたちで出力してしまった。


「そうしたら、旅行の日に柳木くんに告白された?」

 陽向はこくりと頷き、遅れて「はい」と返事した。

「全然区切れてないわけか」

 真紘から告白されたとわざわざ伝えた意味を、八木は正確に察したようだった。


「……あいまいにしたまま今日まできてしまって」

「その理由を聞いてもいい? 入野くんが本気で区切りたいなら、柳木くんの告白を断ればいいだけだよ。どうしてそれができないのかな?」

「それは……」

 答えあぐねる。


「じゃあ断れないのはいったん置いといて、柳木くんの気持ちを受け入れられないのは、なんで? やっぱり柳木くんが黙って他の人と遊んでたってのが心のフックになってる?」

「たしかに、そのことはショックでしたけど……でも、今となってはそれも仕方なかったって思うので。べつに真紘は俺を傷つけたかったわけじゃない。それはもうわかってます」

 なのに陽向は、真紘からの気持ちをあの場で受け入れることができなかった。想いを返してもらえたら幸せに違いないと思っていたことが、目の前に差し出された瞬間だったのに。


「とすればやっぱり、柳木くんと話してみるしかないねぇ。流れに身を任せるでもいいとは言ったけど、入野くんもそうすべきって本当は思ってるんじゃないかな」

 八木はどこまでもわかっているみたいだ。いや、たぶんこの人は、もう逃げないことを決めている人なのかもしれない。


 続けて八木は言う。

「その上で、べつに和解しても和解しなくてもいいし、もっと言うなら和解できなくてもいい」

「できなくても……」

「和解が無理なら、区切りもつけやすくなるかもしれないしね。でもね、もし和解したいが一番の気持ちとして強いなら、そこに答えがあるような気がするよ。たぶん、入野くんはもうわかってる」

 そう言っていたずらっぽく微笑むと、八木はリネンを抱えて部屋を出ていった。


 陽向は洗面台の鏡にうつる自分の姿をみた。鏡の中の自分が陽向の心だったとしたら、きっと答えを知っている。




 バイトが終わってタイムカードを切ったあと、陽向は下駄箱にいた真紘に声をかけた。

「真紘。一緒に帰ろ」

「あ、あぁ」


 二人は夜の繁華街を抜けて、駅に向かう。発車間際の電車に滑り込み、ドア付近で人の圧に息を詰める。電車がカーブで揺れる度、顔が少し近づいた。けれどお互いが前で背負っているリュックが、二人を隔てている。


 自宅が近くなるにつれ、車内は人がまばらになった。二人でシートに横並びに座る。空いているから、わざわざぴったりと身を寄せる必要はない。

 くろい車窓をぼんやり眺めながら、それでも陽向は自分の横に座る幼なじみに意識が引き寄せられていることを感じていた。


 下駄箱で声をかけたとき、真紘はかなり驚いていた。陽向から声がかかるなんて想像もしていなかったみたいに。そうさせているのは陽向だ。


「……た、陽向? 着いたぞ」

 思考に割り入ってきた声で、とっさに電車の中から反対ホームの駅名標を見る。自宅最寄りの駅に着いていた。発車ベルが鳴り、二人で急いで降りた。


 湿り気を帯びる、零時を回った夜道をとぼとぼと自宅まで歩く。

 陽向はまだ、なにも話せていない。


 視界の端に真紘がいる。不思議と居心地の悪さや気まずさは感じなかった。一緒に帰ろうと誘っておきながら一言もしゃべらない陽向を横にして、真紘はどう感じているだろう?


 なんとはなしに夜空に目をやった。星という概念を忘れそうになるくらい空は黒い。子どもの頃はもっと星が綺麗に見えていた気がするのに。


 この道を真紘と歩くのは久しぶりだな。


 陽向は足元に視線を下げた。

 歩道にある側溝の溝蓋の端が、劣化で少し欠けていた。そういえば、昔ここに足を引っかけて転んだことがあったと思い出す。


 べしゃん、と前に倒れて、陽向より少し前を歩いていた真紘が振り返って起こしてくれるまで、陽向は動けなかった。

 起き上がり膝を擦りむいていることに気づいて初めて、痛みにうめいた。


 ぐずり始めた陽向を、真紘は背中におぶって家まで歩いてくれた。当然今より体ができていない頃のことだから、随分とよろよろしながら。


 膝を擦りむいた痛みでぐずっていた陽向は、真紘がどれだけ頑張って自宅まで歩いてくれたのかわからなかった。母が真紘に「疲れたでしょう? ありがとうねぇ」と声をかけているのを聞いて、俺のために頑張ってくれたんだと気づいた。真紘はなんて優しいんだろうと思って、嬉しさからその背中に抱き着いた。


 過去に気をとられているうちに、家の前まで辿り着いていた。

 陽向は真紘を振り返った。少しだけ、緊張した。

「……ちょっと寄ってく?」


 カラカラと引き戸があいた。

「あらあら。やっと帰ってきたのねぇ。二人ともおかえり」

 陽向たちの帰宅に気づいたのか、声を弾ませた母が出迎えた。

 その理由がわからないほど、もう子供でもない。


「真紘、うち寄ってくから」

 驚きで固まっている真紘をちらりと見て拗ねるように言うと、母は「あらまぁ」といっそう嬉しそうにした。




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