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第15話 勇気

 小さく軋む階段をのぼる。昔は二人でのぼっても軋むことはなかった。家も自分たちも、確実に年月を積み重ねていることを実感する。


 部屋の前でためらいをみせる真紘まひろを中へ促すと、真紘は静かに扉をくぐった。

 後ろ手でドアを閉める。とくに変わったところのない自室に生まれるぎこちなさに、陽向ひなたは苦い気持ちになった。

 なんでこんなことしてるんだろ、俺たちは。


「好きなとこ座って」

 部屋に入ったきり突っ立っている真紘に声をかける。今更、はじめて部屋にあげるみたいな声かけをしているなんて。

「ああ。悪い」

 そう言って真紘はその場に腰を下ろした。これまでなら迷いなく陽向のベッドに直行していたのに、いま真紘が腰を下ろしたのは、ベッドから離れた位置だった。


 陽向は勉強机の椅子に座った。荷物を片付ける音と時計の針のわずかな音、衣連れ。それらが大きく感じてしまうほど、緊張していた。

 たぶんこの緊張は一般的なカップルが味わう緊張感とはちがうから。

 あえて勝手な思考をして、少しでも自分が置かれている現実の方が厳しいんだと思いたくなる。


 陽向は小さく息を吐いた。

 そんなのはただの逃げだ。

 わかってる。


 思考で逃げて、行動でも逃げて。

 あの夜に陽向がした告白は、ただの逃げだった。本当は諦めるための気持ちの整理なんかじゃなく、気持ちを言い捨てて、真紘の葛藤から逃げるためのものだった。

 こわかったのかもしれない。

 好きって、ただ綺麗で甘い、そんなものだけで構成されているわけではないと知った瞬間だったから。


 告白を受け入れられず逃げた原因がこわさだとしたら、陽向は自分で思っているよりもずっと「これまでの幼なじみの二人」から逸脱するのを恐れているということだった。でなければ、旅行の日に真紘の告白を受け入れて恋人同士になれたはずなのだ。


 ——やっぱり柳木くんが黙って他の人と遊んでたってのが心のフックになってる?

 八木はそう捉えたけれど、フックになっているとしたら、自分を弄った真紘の手の方だと思った。あの陽向の体を弄る行為は、真紘の葛藤そのものだったから。あの手を受け入れるということは、「これまでの幼なじみの二人」から変わることを受け入れるということ。綺麗で甘いばかりじゃない、二人になるということだ。


 意識が背中の真紘にいく。

 実るはずのない片思いのときは感じなかった、人生の岐路みたいな切迫感のようなものが胸をしめつける。将来の夢に関する進路ですらこんなにも悩まなかった。なにも考えずに真紘と密着できる電車が嬉しいなんて考えていた自分は、いったいどこにいったんだろう。


 世のカップルも、こんな切迫感と選択を経験して、それでも一緒にいようと決めたんだろうか。真紘は自分が気持ちを伝えることで起こりうる関係の変化をちゃんとわかっていた。陽向よりもずっと現実を知っていた。


 逃げたのは、陽向に勇気が足りなかったからだ。現実と、現実を知っている幼なじみと向き合う勇気が。

 けれど陽向はもう、「叶うはずのない片思い」から覚めた。


 陽向はくるりと椅子をまわし真紘を振り返った。

 椅子が小さく鳴き、真紘が陽向を仰ぎ見る。


 陽向には、陽向なりの気持ちの返し方があるはずだ。真紘の葛藤をなかったことにせず受け止められる方法が。

 俺なりにちゃんと向き合って、気持ちを伝えたあとのことは、その時考えたらいいから。


 どう伝えたらいいのかなんて、この期に及んでもなにも整理できていない。ただ逃げずに真紘と話をする。それだけを決めて、今日真紘に声をかけた。


 陽向はまっすぐに真紘をみつめた。伝え方の順序はわからない。でも、まず一番に伝えたいことがあった。


「告白から、逃げててごめん」

 真紘が息をのんだ。

 ずん、と後ろめたさが胸にたまる。これが陽向が見ないようにしていたものの重みなのかもしれない。人の気持ちや葛藤、覚悟の重みだ。

 陽向はきゅっとこぶしを結んだ。もう、目を反らしたくない。


「真紘が冗談であんなこと言ったなんて、そんなことは思ってない。でも、真紘の口から俺のことが好き……なんて、一生聞くことはないって本気で思ってたんだ」

「あれは……」

 真紘は押し黙り、適切な表現を探すように慎重に言葉をつづけた。

「陽向に対して最低なことをしておいて、今度は「好きだ」とかさ。あの日のこと、陽向を傷つけたことを、なかったことにしてくれとか許してくれって言ってるようなもんだって、卑怯だってわかってる。でも、言わなかったら、また俺は間違うって思った」


 真紘は陽向から目をそらさない。まっすぐに見てくる。ズルいところはなにもない。誤魔化しのない気持ちが陽向にむかってくる。


「俺の告白が陽向にとって負担になることはわかりきってた。俺の我を通してさらに拒絶されることだって、覚悟してたよ」

 それでも伝えることを選んだんだと、真紘のまっすぐな目が語っている。真紘は流れに身を任せるという選択をしなかった。

 もう間違いたくない。陽向もそう、強く思った。


「八木さんに聞かれたことがあってね。真紘の告白を断れないのはなんでって。断らないのはなんでって」

 突然、真紘の表情に焦りが広がった。

「っ、俺のせいだ。俺が陽向に恐怖心を植え付けた。だからきっとなんかが陽向の心にブロックをかけて——」

「ストップ!」

 陽向はもどかしい思いで手を前に突き出し、真紘の言葉を遮った。


 俺を傷つけたことで、真紘自身がうんと傷ついてる。

 泣きたいときに笑うのは、けっこう難しい。それが相手を想ってするときでも。


「ちがうよ真紘。真紘こそ自己完結してるじゃん。……らしくないよ」

 少し、声が震えてしまった。それがさざなみのように真紘にも伝わる。驚きに見開かれた目に涙の気配がある。


「俺が告白を断れなかったのは、今度こそ真紘との関係が切れちゃうって思ったから。取り返しがつかなくなるって、なんかそんな予感があったんだと思う。最近の俺たちみたいにぎこちない幼なじみが、進路が分かれてそのまま離れたらどうなると思う?」

 なんの隔たりもなく必要に迫られて空いた距離なら、顔を合わせれば、馴染んだ距離感に戻れるだろう。けれど、隔たりがある自分たちでは確信をもてない。


 真紘もきっと想像している。俺たちにとって一番避けたい未来を。

 相手が生きてさえいればいいことも、相手が生きて目の前にいると薄れる。いま陽向たちの脳裏にあるのは、自分たちなりの迎えたくない未来だ。


「それでも俺がしたことは消えない。陽向は心身ともに俺に傷つけられたんだぞ。男だって、勝手に体を弄られたらこわいしきつい。そんなことを俺はお前にしたんだ。関係が切れるのは自業自得だ」

「真紘は俺を買いかぶりすぎだと思う。ああいうことされたのが真紘だったから、俺が無条件に傷つかなかったと思うの? 真紘だったからなにもこわくなかったって? 忘れたくても、忘れられないよ。こわかったよ。真紘のことちゃんと信用できなくなったよ。でもさ、それは告白を断れなかった理由とは違うよ」

「……違う?」


 眉をひそめる真紘を見て、ああそうか、と陽向は思った。真紘は『断れない』のと『受け入れられない』を混同している。


「真紘。俺が真紘の告白を受け入れられなかったのは、俺自身の個人的な問題だよ。あの夜のことがそれに気づくきっかけになったんだ」

「あれをそんな美化すんなよ!」

 真紘が噛みつくように声を荒げた。


 陽向はキッと真紘をにらむ。

 今が深夜だということはわかっている。けれど、迷惑だとか常識だとか、そんなことに配慮している場合ではなかった。絶対間違えない、ここだというタイミング、ここだという直観。

 陽向は負けじと声を張る。


「そんなんじゃない! ただ気づいたっていう事実の話をしてるんだ。真紘はさ、俺がこんなこと言うのは全部俺が自分の心を守ろうとして、傷をなかったことにしようとしてるからだって思ってるでしょ。でも、俺の気持ち、考え、葛藤が全部真紘にわかるわけない。俺もわからなかった!」


 俺たちはお互いのことをなんでも知っている。その重い込みが甘かったのだ。


「聞いて真紘。俺は幼なじみの関係が変わることになんの勇気も覚悟もなかった。だからあの夜、投げ捨てるように真紘に好きだった、もう忘れてくれ、明日からはこれまで通りの幼なじみだから、なんて言えたんだ。それまでの俺は、ただ毎日一緒にいれて嬉しいな、幸せだなと思ってただけのお花畑の住人。俺の世間の知らなさとか臆病さが、たまたまあの夜のことで表面化しただけだったんだよ。あの場で告白を受け入れられなくて、真紘の気持ちに答えられなかったのは、俺に勇気も覚悟もなかったから。恋とか愛がどういうものか垣間見て、怖気づいたからだよ」


 これが陽向が告白を受け入れられず、逃げた理由だ。

 そして『断れなかった』のは、険悪なまま真紘との関係が切れることを避けたかったから。


 これらが真紘に寸分たがわずに伝わるかは定かではない。でも、余すところなく伝わらなくてもいい。大切なところだけ誤解なく伝われば、それで。


「なんで俺がこんなややこしく違いを説明してるかわかる?」

 陽向は問いかける。さっきまでのもどかしさが、自分でもびっくりするくらい凪いでいる。反対に真紘は、混線状態から絞り出すように言った。

「わかんねぇよ。俺はそれが、俺が陽向を傷つけたからだって思ってるから」


 陽向はそんな真紘にちがうよと小さく笑った。自分のせいだとがんじがらめになっている真紘に、どうしても知ってほしい答えがある。


 陽向は椅子から立ち上がり、真紘のそばに移動する。膝を近くに寄せて向かい合わせて座り、そして祈るように言った。

「真紘を嫌いになれないからだって、伝えたいからだよ」


「——っ」

 あってはならないことを目の当たりにしたような顔で、真紘は怯んだ。


「これが、俺の『断らない理由』。断りたくないから、断らなかった。でも、幼なじみと恋愛することにこわくなって逃げたから、余計に真紘を苦しめた」

「……」

「好きだよ。俺は、真紘が好き」

 色を失った真紘の頬に涙がつたう。

「もう俺のこと、ちょっとも好きじゃない?」


 かつて真紘に言わせてしまった言葉を、今度は陽向がすがるような気持ちで口にする。


「俺はっ……。どうしたら、陽向の信頼を取り戻せるのか、検討もつかねぇ。取り返しのつかないことをした。どんなに願ったって、陽向を傷つけた俺のままだ。……陽向に好かれる、資格がない」


 途方にくれて、ともすれば絶望と遜色ない。でも、真紘はまたしても思い違いをしている。


「ねぇ、その資格なら俺が発行してるけど」

 陽向は胸を張るように言った。


 は、と落とされた音は、声か、ただの吐息なのか。

「……そんな屁理屈の話じゃねぇよ」

「じゃあどんな屁理屈の話? 俺が真紘を責め立てたら、改めてスタートラインに立てるって思うわけ? そしたら俺と付き合ってくれるの?」


 真紘の顔がゆがんでも、引く気はなかった。

 伊達に長年姉と渡り合ってはいない。口はそこそこに鍛えられている。まさかこんなところで役立てられるとは思わなかったけれど。


「好きって、許されたいから言うものじゃないと思う。本当はどの感情よりも、優先させたい気持ちなんじゃないの? だからこそ、真紘はずっと苦しんだんじゃないの?」


 真紘は言った。

 ——あの日のこと、陽向を傷つけたことを、なかったことにしてくれとか許してくれって言ってるようなもんだって、卑怯だってわかってる。


 これは真紘が自分を責めている証拠で、自分を許せないから出てきた言葉だ。


「うまく……いかねぇよ、このままじゃ」

「それは幼なじみとして? それとも、恋人として?」

「それは……」


 目の前に自分と同じ想いが返ってきているのに、素直に手を伸ばせない。似ている、と陽向は思った。


 俺たちは似ている。根本にある感情も。


「べつに上手くいかなくてもいいんだってさ」

「……は?」

「もう俺たちは、元の俺たちに戻ることはできないんだって。だったら進むしかないんじゃない? このまま曖昧な関係を続けるって決めることも、進むことだけど……。俺はね、真紘。どうせだめになるなら、真紘と恋人になってからだめになりたい」


 すべての物事が空想のように必ずしもハッピーエンドへ向かうわけではない。でも、後悔はあとでいいはずだ。


「うまくいかなかったら、だめだったねーって笑おうよ。一緒に」


 陽向も真紘も、恐怖心や自責を取り除いて考えてみると、願いはすごくシンプルだ。自分たちで、自分たちの気持ちをややこしくしてしまっている。


「ねぇ真紘。俺たちはすごい確率でお互いを好きになった。……そうだよね?」


 真紘の表情が揺らいだ。それが陽向には、助けを求めているみたいに見えた。


「真紘、俺は真紘が好きだよ」


 陽向はありったけの気持ちを込めて言った。


「真紘は本当はどうしたいの? 俺のこと傷つけたからだめだって自分を責めてるけど、それで傷ついてる自分のことはどうだっていいの?」

「お、れは……」

 真紘はあえぐように何度も何度も繰り返した。


 陽向と真紘には、生まれる前からのたくさんの『たまたま』があり、あの日とその夜の出来事があり、今日がある。二人に傷を生んだあの日とその夜が、陽向と真紘を新たな形で結び付けようとしている。自分さえ自分を許せれば、それは叶う。


「真紘」

 大好きな幼なじみの名前を呼ぶ。

 やがて真紘は観念したかのように口を開いた。


「俺は……陽向の、恋人になりたい」


 語尾がわずかに震え、真紘の瞳につるっと光が入った。


「俺は、陽向が好きだ。……お前が俺を許せなかろうが、告白を断られようが、俺はずっと……もう、ずっと、陽向が好きだ!」


 なりふり構わない堰を切った思いを真正面から受け止めると、胸を鷲掴みにされたみたいに苦しかった。

 顔をくしゃくしゃにしてこぶしを強く握りこんでいる真紘を、陽向はこれ以上ないくらい見つめた。


 不思議だった。嬉しさよりも、胸を占めているのが切なさだなんて。それと同じくらい、言葉にできない胸をくすぐる感覚。


 陽向はそっと握りこまれたこぶしに触れた。真紘は驚いて、うわ言みたいに「陽向」と呟いた。

 腰が浮いて、身を乗り出して、また腰をおろす。

 まるで陽向に触れたいのを理性で抑え込んでいるかのようだった。

 陽向はもう、それで十分だと思った。


「へへ……真紘と、両思いだ」


 噛み締めるように言えば、それが真実だと知らせるように、胸のうちが幸福感で満たされた。


 告白に呼び出される真紘の背中を何度も見送った過去。どうするつもりもなかった真紘への想い。


 真紘が彼氏だ。

 陽向だけのものだ。


 不格好な体制で、陽向はそっと真紘の肩へ額をくっつけた。あるべきかたちに収まったかのような安心感が胸に広がっていく。


 真紘の腕がこわごわと陽向の背に触れた。ほんの少しだけ抱き寄せられる。お互いの足が邪魔をして体すべてで密着しているわけではない。これが真紘のいまの精一杯なこともなんとなく理解している。


 陽向はちょっとずつ体の力を抜いた。この行為が少しでも真紘の自責や罪悪感を減らすことに繋がればいいと思う。


 陽向の肩口で、固い声がした。

「陽向を傷つけたこと、俺は一生忘れない。後悔しかしてない。戻れるなら戻って、陽向を傷つけんなって自分を殴りたい。でも、戻れねぇ」


 陽向は「ん」とうなづいた。過去はどう頑張っても変えられない。


「だから、うんと陽向を愛す。大事にする。傷つけない。優しくするし、甘やかす。そう誓う」

「……そんな罪滅ぼしみたいな愛され方、俺は嫌だよ」

 自分の本音を伝えれば伝えるほど、真紘は自分を許すための退路を断たれるのかもしれない。けれど、陽向もちゃんと気持ちを伝えなくてはならない。すれ違わないためにこういうことから逃げてはいけないと、示してくれたのは真紘だ。


「俺が陽向を大事に思ったり、傷つけたくなかったり、優しくしたかったり、甘やかしたいのは、元からだよ」

 真紘は陽向をゆっくり自分から引き離した。

「俺がそうしたいからしてたんだ。これからもそれは変わらない。ごめん。伝え方が、悪かった」


 陽向ははっとした。

 そうだった。あの夜がなかったって、もともと真紘は陽向に優しくて甘かった。大事にされていた。傷つけられたなんて感じたこともなかった。

 電車で圧迫感から助けてくれたことも、怪我をして泣いているからおぶって連れて帰ってくれたことも、その他のことだって、たくさん。

 罪滅ぼしで、なんて言い方をしたことが申し訳なくなる。これまでの二人には戻れなくても、これまでの二人が嘘になったりはしない。


「ごめん」

「いや、陽向は俺の気持ちを軽くしようとしてくれてんだよな。それがわかってんのに俺は……くそ。だせぇな」

 真紘は弱弱しく笑って視線を落とした。

「そんなことない。俺の知ってる真紘はいつでもかっこいいよ」

 空いた距離を埋めようと、陽向は真紘の胸元に額を擦りつけるようにして甘えた。

「これからだって、真紘はかっこいいよ」


 ぐりぐりと、さらに額を押しつける。

「……ったくお前は」

 呆れたような、どこか気が抜けたような声が降ってきた。


 ちょっと甘えすぎた? 陽向が不安を覚え始めた頃、頭にふわっと真紘の手が乗った。優しく髪を梳かれる。


 ああ……。この感じは、本当に久しぶりだった。

 少し前の自分たちは、こういう触れ合いが当たり前だった。


 涙腺がゆるむ。

 失ったと思っていた。でも、そんなことはなかった。変化の中で、変わらないものだってあった。


「真紘、好きだよ」


 声が揺れた陽向に、真紘は狼狽えたように「そうだ」と言ってズボンのポケットに手を入れた。名残惜しさを感じながら、陽向は真紘から体を離す。

 そしておずおずと差し出された手のひらの上にあるものを見た瞬間、陽向の脳裏に過去の宝物みたいな記憶が広がった。


「これ……」

「陽向と話せたとき、渡すつもりだった」

 真紘の手には、ビニール袋に入れられた色とりどりの星粒があった。


「金平糖。これが俺を好きになってくれたきっかけになったんだよな」

「もしかして、ずっとポケットに入れて持ち歩いてたの?」


 いつ渡せるかもわからなかったのに。よく見ると、ビニール袋には細かくしわが入っていた。


「……溶けちゃうよ」

「溶けたら、また何度だって買ってくる」


 真紘の真剣な眼差しに射抜かれて、切なさと胸がくすぐられる感覚におそわれる。


 まただ。

 そう思った瞬間、腑に落ちた。


 この胸をくすぐる感覚は、愛おしさだ。


 なんでもスマートにこなす真紘が、今日がいつになるかわからない中、肌身離さず持ち歩いていた。その事実が胸にくる。


「なんで覚えてねぇんだろうな。でもたぶん、陽向を泣きやませたくて必死だったんだろうな。子供ながらにどうしたら陽向が笑ってくれるのかって考えてさ」

「うん、そうだったと思うよ。だってすごい嬉しかったもん。だからずっと大事にしてきたんだ」


 優しい記憶。誰にも触らせたくない大切なもの。こればっかりは誰にも変えることができない過去でよかったと思う。捻じ曲げようがない。


「ね、食べたい」

 淡い色づきの星粒が、こわごわと口元に差し出される。

 ころんと口の中に転がった星粒は、通り過ぎた思い出の分だけ懐かしくて、けれどその何倍も甘くてやさしい味がした。


 五才の俺、見てる? 叶わないと思い悩むその恋は、将来、曲がったりくねったり傷を負ったりして、実るよ。


 陽向も一粒、真紘の口元に差し出した。

 ほんのわずか、羽が肌をなでくらいのやわらかさで、指先が真紘の唇に触れた。

「あまい」

 真紘は破顔して、陽向を抱き寄せた。


 真紘の腕の中で思う。

 少しずつ手放して、諦めるから大人になるんじゃない。陽向は、懸命に自分を抱きしめる幼なじみとぶつかり合い、寄り添いながら大人になっていくんだと。

 変化は、決して相手を軽んじたり、裏切ったり、傷つけるために起こるものではないはずだ。


 陽向は陽向で、真紘は真紘だ。


 家族同然に仲の良かった幼なじみの上に、傷を覚え合った二人の上に、あたらしい関係を築いていく。


 たくさんの奇跡の上を、前を向いて歩いていく。一緒に。



(了)


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