家に帰ってからもしばらく呆然としていた神小に、いつの間にかテーブルに置かれていたスマホから開発者の声が聞こえてきた。
『まるで置物みたいだな小僧、他にやるべきことがないのか?』
「んなこと言われても、何をどうしろってんだよ……」
野亥の目には神小は怖れとして映っていた。
追いかければ彼女を追い詰めることになると、神小自身が理解していた。
『また≪催眠アプリ≫を使えばいいではないか。それで元通りだろう?』
「……元には戻らないよ。それに、簡単には使わせてくれない」
野亥は半狂乱になりながらも、神小からずっと目を逸らしていた。
≪催眠アプリ≫はかかってしまえば万能だが、かからなければ何の意味もない。
それこそ、無理やり抑えつけて目を開かせるくらいしなければ催眠にかけられないのだが……それはもはや強姦のようなものだ。
「まぁ、ゆかりさんが手伝ってくれたら、また催眠かけられると思うけど……」
別に神小のことを信じさせなくてもいい。
ただ窓の外などで視線を誘導させ、≪催眠アプリ≫を一目でも見せればそれで終わるのだから。
ふと、神小は自然に淡々と処理しようとしていたことに気付き、驚く。
自分はこういう人間だったのかと思いながらも、必死に首を振って否定する。
『ではどうするつもりだ? 時間が解決するとでも思っているなら、浅はかだと言わざるをえないぞ』
「あぁー、もうわかんない……寝るっ!」
そうして布団をかぶり、意識を暗闇の中に沈めようとする。
けれども悪い想像ばかりが頭の中を巡り、眠れそうになかった。
翌日……神小は顔色が悪いまま登校した。
睡眠不足だけではなく、どんな顔をして野亥と顔を合わせればいいか分からなかったからだ。
覚悟して教室の扉を開け……野亥の席に誰もいないことを確認すると、思わず安堵の息がもれてしまった。
「おはよ~っす!」
「ほわああぁっ!?」
そんな神小の背中を、ゆかりが背後から勢いよく叩いて挨拶した。
「神小くん、ちょっと……ちょっとだけいいっすか?」
そう言いながらも、ゆかりが強引に引っ張っていくので流されるがままに引っ張られていく。
階段の隅の方へと移動し、ようやくお互いに向き合うことができた。
「え~っと、あのあと野亥ちゃんの後を追いかけたんすけど……部屋に逃げ込まれちゃってぇ……いやっ! ほんと力足らずで申し訳ないっ!」
両手を合わせて謝るゆかりに、神小は首を横に振って応える。
「いやいやいや! ゆかりさんは何も悪くないって! そもそも元凶は俺なんだし……」
「それを言うなら、≪催眠アプリ≫が諸悪の根源じゃないっすか?」
「いや、違うよ。≪催眠アプリ≫を拾って誰に使うか、どう使うかを選択したのは俺なんだから、悪いのは俺だよ」
少なくとも最初の一歩は邪な目的をもって使ったのだ。
神小からすれば、許されざるべき一線を越えていると判断していた。
「まぁ誰が悪いかどかは置いといて……野亥ちゃん、しばらく休むみたいっすよ」
「だろうねー」
冷静に考えれば、ボタン一つでヒトを自由に操れる人間がいるのだ。
行きたくなくなるのも当然だと言えるだろう。
「なんにせよ、あたしはしばらく野亥ちゃんの家に通ってみるっす。何ができるかって言われると……ちょっと困るっすけど、アハハハ……」
「そんなことないって。一人じゃないって分かれば、野亥さんも少しは救われるだろうし」
"俺にはよく分からないけど、そういうもんでしょ?"という言葉は飲み込み、ゆかりに尋ねる。
「それでさ、俺にできることってないかな?」
それは贖罪や許しを請う為のものではない。
怯え震える野亥の為に何かしたいという、純粋な気持ちであった。
たとえそれで疎まれたとしても、彼女がまた日常に戻れるなら何でもする覚悟があった。
「そうっすねぇ~……ぶっちゃけちゃうと、神小くんができることってないんすよねぇ~……」
何かないかとゆかりはしばらく悩み、手をポンと叩いた。
「学園祭の準備、頑張ってください!」
「…………へ? が、学園祭に何の関係が!?」
「神小くんは知らないと思うっすけど、ああ見えて野亥ちゃん動物好きなんすよ!」
「えっと……動物目当てで来てもらうってこと?」
どう考えてもそんなもので来るような精神状態ではなかったことは、神小でも分かる。
「ちゃんと決着がついたあと、皆で楽しむ為っすよ。せっかくの学園祭なんだから、やっぱり皆……それに野亥ちゃんにも楽しい思い出にしてほしいじゃないっすか」
つまるところ、神小はこの問題で出来ることは何もないという宣告だった。
ほんのわずかでも助けになりたい……そう思っていただけに、少しだけ悲しそうな顔をしてしまう。
その顔を、ゆかりがイタズラっぽくつまんだ。
「まるで、あたしが失敗するみたいな顔してるっすね~?」
「そ、そんなまさか……っ!?」
「野亥ちゃんとの付き合いは、あたしの方が長いんすよ? ちょっとは信じてください。代わりに、学園祭の準備は信じてお任せするんで!」
ふくれっ面をしていた彼女が、真剣な眼差しで彼を見つめる。
「あたしも野亥ちゃんも、本当に楽しみにしてるんすよ? だから、ちゃんとしてください。できませんでしたって言ったら、恨むっすからね……?」
「う……は、はい……」
「はい、約束っす♪」
そう言って手をとられ、無理やり指切りをさせられる。
これでもう、ゆかりの言うことしかできなくなった。
自分の罪だというのに、何もできない無力感。
それでいて誰かに任せなければならない申し訳なさ。
そして誰かに信じられ、その期待に応えなければならないことの重責を、嫌というほど実感するのであった。