あれ以来遙は徹底的に千尋を無視していた。彼女の動き方からするに、どう考えても意識して千尋を避けているようだった。とはいえ風呂や台所は使った痕跡さえ残さなければ使わせてくれていたし、そういう意味では「ただ暴力が減っただけ」と考えればかつてないほど快適だった。
「バイトしようと思うんです」
「それを担任に言うとか、なかなかの根性だな」
「いやその、うち禁止されてないからいいかなって」
あの三者面談から早くも二ヶ月が経過していて、そろそろ冬休みに入ろうとしていた。千尋は毎朝、社会科準備室に訪れている。峰自身はそれを拒みはしなかった。
「じゃあやっぱり卒業と同時に家を出るわけか」
「はい、チャンスだなって思って。今までは……その、一人暮らしなんて想像するだけで殴られてましたから」
「いいな、少しずつ前向きになってる」
峰の言葉は、心地よい。それは峰が恩人だから、という事実によるものだろう。ある意味の刷り込みなのだが、それでもこんな心地よさを感じたことのない身からすれば新鮮だった。
ふと、峰が思い出したように「そうだ」と口にした。
「家を出たいなら住み込みはどうだ」
「え、でも今時住み込みでいけるところなんて」
「もうすぐ冬休みだし、リゾートバイトとか。高校生が行けるかどうかは置いておいて、少しでも家を出られるならそれに越したことはないんじゃないか」
「……確かに」
峰の言葉はすべて正しい。少なくとも母よりは、正義に見える。だからこそ、簡単に飲み込んでしまう。
峰の手が、キーボードを叩く。手招きされ近寄ると、彼はパソコンの画面を指差した。
「ほら、案外あるぞ」
「本当だ……でも高校生は親の許可が無いと、って書いてありますけど」
「俺経由でお前の母親に言ってやる」
このように、学校として必ず遙と関わらないといけない時は峰が仲介してくれていた。遙も何故か、その場合は話を聞いてくれる。それ以外はまるでそのあたりを舞う埃か何かのように無視をしてくるのに。
「ありがとうございます」
「今からこのページ印刷してやるから、ここに決めたならまた休み時間にでも言いに来い。もうホームルーム始まるぞ」
「はい」
担任である峰は、朝と夕のホームルームを担当している。なのでこの後向かう教室は同じなのだが、それが千尋にとってはたまらなく幸せな時間だった。
自分は、クラスメイトの誰よりも峰といられる。そして、こうして毎朝準備室に通うことで他の誰かに自分のようなことをするのを防ぐことができる。自分だけ、彼を……独占できる。
「一応ここと、あと二件くらい似たようなところあったから印刷しておいた。条件とかは自分で確認しろ」
「ありがとうございます」
「あと授業中は見るなよ」
「はい」
何もかもが、嬉しい。遙のように暴力を伴った命令ではないのが、たまらなく心地よい。
峰と一緒に教室に行きたかったが、まだ準備があるということで先に教室へ向かわされることになった。仕方ないので従う。
「あ、金森くんおはようー!」
教室に入った途端、いきなり声をかけられてびくつく。それでも何とか「おはよ」と返した。まだ名前も覚えてない女子生徒はそのまま千尋に近づいてきた。
「あ、今日は先生一緒じゃないんだね」
「あ……そ、その、まだ準備あるみたいで」
千尋は今までの約11年間、クラスメイトを始め誰とも最低限以外の会話をしなかった。友人など作ろうものなら遙からの折檻があるし、何より馴染める気がしなかった。
しかし峰に「もう自由に人とコミュニケーションを取れる」と諭されてからは……コミュニケーションを取れるようになった自分を褒めてほしいがために、少しずつクラスメイト相手にまずは無視などすることをやめるようにした。すると物珍しがった数名が寄り付いてきている、という形だ。
もちろん悪い気はしないが……峰以外とは、あまり気が乗りはしなかった。それどころか、緊張の方が勝つ。
「そっか、そんじゃまだ時間あるかな。ねえねえちょっと聞きたいことあるんだけど」
「え、何……?」
「あのさ、マイが彼氏から他の男と喋ったら別れるーなんて言われてるらしくて! それって束縛じゃね? って言ってたんだけど、マイは愛だよーなんて言うからさぁ、今クラスのみんなに聞いて回ってんの。束縛だよね?」
女性の早口は、苦手だ。どうしても、遙を彷彿とさせられる。しかし、どうしても……引っかかるものがあった。
「ご、ごめん、僕ちょっと分からないかな」
「あーそう? 金森くんわかんないってさー」
最後は千尋ではなく、きっと仲間内の女子に向けられたのだろう。実際彼女はすぐさま千尋から離れて、いつもつるんでいるグループへと向かっていった。
(……束縛と、愛か)
自分が、峰を独占したいという気持ち。これが、愛だというのであれば。
(僕は……先生のことが好き、なのか)
誰にも渡したくない。自分だけのものでいてほしい。この、気持ちが愛であるのであれば。
(歪んでるのかもしれないけれど)
それでも、この気持ちそのものはきっと真実なのだ。