三年生に上がって、峰は担任から外れた。内心とてもショックだったが、それでも異動などではないだけよかったと言い聞かせるしかなかった。
不幸中の幸いか、峰は進路指導の担当にもなったのでそれを理由に話をしに行くことはできた。なので、毎朝の社会科準備室通いは継続していた。
「結局四年制にしたんだな」
「やっぱり余分かな、短大の方の学部か悩んだんだけど」
「いや、もし理由がないならとりあえず四年の方がいい。短大は色々しんどいぞ」
あの出来事から半年以上も経てば、かなり心も緩んできた。クラスメイトとも自然に話せるようになってきたし、峰に対しても堅さが取れてきた気がする。峰自身は相変わらずだが。
「じゃあ前の進路面談で聞いた通り、AO入試で行くってことでいいな」
「うん、それで大丈夫。頑張るね」
「ああ。でももう金森も大学受験か、早いもんだよ」
それを聞き、胸の奥がずきりと痛んだ。卒業、ということは。
「……卒業したくないな」
千尋の呟きに、峰が苦笑した。
「いや進路の話した瞬間にそれはどうなんだよお前」
「だって、先生に会えなくなる」
「そんなの毎年どの卒業生も一緒だって」
それは、分かっている。分かっているからこそ、苦しいのに。
この男を、離したくないのに。
「ねえ、先生」
だからこそ、暴走を起こした。
「僕、先生とずっと居たい。僕、先生が好きなんだよ」
するりと、出た。力んでなんていない、本当に溢れ出しただけかのような言い方になってしまった。
ハッとして峰を見ると、彼はいつものように千尋を見ていた。そこには、変化など一切なかった。
「……お前さ、それは」
「ごめん、でも本当に」
「あのな」
遮るような言い方に、泣きそうになる。それに気付いているだろうに、峰は続けた。
「俺は先生、お前は生徒。それは分かってるか」
この男は、すべて気付いている。その上で、誤魔化そうなんてしていない。そうだ、だからこそ……千尋は、信じることができていた。
「はい」
「先生と生徒がそうなるのは?」
「……駄目なこと」
自分で言っていて、泣きそうになる。それでも、耐えた。ここで泣くような人間に、峰はきっと同情なんてしない。
「分かってるなら、いい」
そう言って、峰はため息を吐いた。しかし、ふと気付く。
「あの、男同士だからって理由じゃないの?」
「今の時代そんなのでギャンギャン言ってみろ、叩かれるのは俺の方だろ」
「じゃあ、僕にもチャンスはあるの?」
呆れられるかもしれない、と思っても止められなかった。実際峰は先ほど以上の大きなため息を吐き出す。
「……せめて大人になってからまた来い。バイトの時と同じだ、条件揃えてないやつは門前払いするしかないだろ」
それはあくまで、優しさなのだと分かった。突き放しはしない、それが彼の優しさ。それにすがる自分は、愚かなのかもしれない。それでも。
「分かった。大人になって、また先生のところに行くから。だからその時は、その時で考えてくれる?」
時間が経てば忘れるだろう、と思われていたとしても。決して引けなかった。
この男を、自分だけのものにするためなら……どれだけでも、掛けられる。
「分かった」
確かに峰は、そう言った。
冬がそろそろ終わる。桜の蕾は、まだ硬いままだ。
卒業式を終え、社会科準備室へ向かう。あの約束を交わした日以来、峰は変わらず千尋と接していた。何事かもなかったかのように、自然に。
「先生っ」
扉を開くと、礼服姿の峰が窓の外を眺めているのが見えた。千尋に気付くと、こちらを向く。
「おー、どうした」
「あの、先生にお願いがあって」
千尋は手に持っていた卒業アルバムを開き、近くの机に広げた。峰はそのページを覗き込むと、「寄せ書き?」と呟いた。
「……先生とのことは、この高校での大事な思い出だから。その、書いてほしくて」
「分かった、ペン取ってくるから待ってろ。あと俺からも」
峰は自身の机の引き出しから、小包を取り出した。それを受け取ると、目で開けるように促される。慌てて開くと、中から銀色のペンが出てきた。手触りと重みからして、どう考えても高級品だ。
「蓋のところ、見てみろ」
言われるがまま見てみると、刻印が刻まれているのが分かった。目を銀色のボディに白字なので見えにくいものの、目を凝らして読んでいく。
「……CHIHIROって書いてある」
「卒業祝いだ。今後、持ってるペンですら格式を見られることがあるからな」
「そっか……ありがとう、先生。一生大事にする」
震える声で呟く千尋に、峰は「大袈裟なんだよ」と返す。そして一緒に、卒業アルバムを差し出してきた。
「書いた」
「早っ! 見てもいい?」
返事を聞く前に、視線を向かわせる。何度も黒板越しに見てきた彼の文字を読んで、息を呑んだ。
『大学卒業後、待ってる』
「先生……」
「とりあえず学生を終えろ、ってことだ」
峰の声は、いつもと変わらない。自分はこんなにも、感情が昂っているというのに。
そうだ、彼は。どこまでも、誠実なのだ。
「うん……僕、頑張るよ」
「頑張るのは結構だが、もうお前時間やばいんじゃないか。引っ越し今日の夕方なんだろ」
「あ、うん。その……先生っ。本当に、ありがとう!」
「おう、じゃあ次は四年後な」
実際に時計はもう危険区域を差していた。なので、足早に社会科準備室を出る。泣きそうだったのに、心臓が熱い。それはきっと……信じているからだ。
『振り込み、確認しました』