卒業して6年が経過した今でも、あの日峰に寄せ書きされた卒業アルバムを日常的に眺めている。それだけ、千尋にとって大切なものだった。
寄せ書き用の見開きページに書かれたメッセージは、峰のもの以外にも5人分ほどある。しかしどれもその場の空気で勝手に他のクラスメイトに書かれただけに等しく、今となっては誰とも関わりがないのもあって…千尋にとっては、何の価値も意味もない。
ただ、峰との思い出だけを大切にして6年間を生きてきた。
「先生……」
未だに、胃が震えている。嘔吐癖は幼少期から一切治っていない。
遙は千尋が嘔吐するたび、楽しそうにしていた。夫の不倫相手が吐いて苦しんでいるように見立てているのだということは、両親の離婚の事実を知ってすぐに気付いていた。
(未だに、なんだか夢を見ているみたいだ)
大学を卒業してすぐに、西沢高校に向かった。
すると峰はとうに異動していたと言うし、その異動先も「プライバシーなので」と頑なに教えてもらえなかった。その瞬間その場で嘔吐してしまい、答えてくれた事務員に蔑んだ目で見られたのは今でも忘れられない。まさかその事務員が峰に連絡をくれていたとは、思いもしなかったが。
……彼から言い出したはずなのに。それなのに、彼はあっさり消えてしまっていた。
(あの時、僕はもう終わったと思った)
どれだけ探そうとしても、個人情報に厳しいこの世の中では一筋縄ではいかなかった。過去のクラスメイトを辿れば突き止められるかも、と思ったものの…ほんのわずかしか関わりの無かった彼らの連絡先など知るわけもなかった。
一度、通学中の生徒に声をかけて聞き出そうとしたこともある。しかし運悪くその生徒が「知らない男性」というだけで警戒したのか大声を上げられてしまい、逃げる中でこの作戦は使えないと判断した。仮に再会した時に警察の世話になったことがある、など知られれば峰が何と言うか分からなかった。
(そうだ……僕は、ずっと期待していたんだ)
みっともないくらいに、まだ信じていた。いつか、会えると。
ずっと忘れられなかった。何かあれば面影を探して、道端や勤務先で似ている人を見つけるたび心臓が跳ねた。そして毎回、別人だという事実に泣きそうになっていた。
卒業アルバムと一緒にしまいこんでいた、あのプレゼントのボールペンも毎日眺めていた。もったいなくて使えなくて、それでもそばに感じていたかったから……髪も、あのボールペンと同じ銀色に染め続けた。勤務先にジュエリーショップを選んだのも、髪色自由のルールに惹かれたからだ。
そうして、ずっと信じていた。峰との、再会を。
(それがまさかうちの店で、なんて思いもしなかったけど)
約束を破られた、とずっと思っていた。ただ、峰自身が約束を忘れていたというわけではないということがあの日分かって……ほんの少し、安心した自分もいた。
何より、峰の方から千尋の居場所を突き止めてでも会いにきてくれたことが。本当に嬉しくて、心が熱くなった。未だにどうやったのかは分からないままだが、そんなことはどうでもいい。
そう、それよりも問題なのは。
(あれは、先生の恋人なのかな)
どう見ても、峰の部屋から出てきたところだった。
それにあんな風に堂々と腕を絡ませて…あれで恋人でないのであれば、逆に何だと言うのだろう。
もしあれが女性であれば、女性特有のスキンシップの豊富さからきていると無理やり思い込むのもできた。しかし、あれは男性だった。金髪の、いかにも不良とも言えるような……しかし、綺麗な男だった。
そして、あの腕には。
(じゃああのブレスレットは、最初から……)
自分にくれたピアスのことで浮かれていたせいで、同時に購入したブレスレットのことなど気にも留めていなかった。何なら、彼が自分で使うものだとばかり思っていた。
しかし峰はあの時、確かに「包装しろ」と言ってきた。その時点で、自分のものではないと明らかだったのに。完全に、浮かれていた。
だとすれば……あの日急いでいたのは。
「……っ!」
いても立ってもいられず、両耳のピアスをすべて引き抜く。そのまま、床に投げつけた。自分で選んだものも、峰にもらったものも、すべて合わせて10のピアスが床に散らばっていく。それなのに。
「……なんで……」
峰からもらったあの菱形だけが、輝いている。峰からの贈り物、という事実だけでこんなにも美しく見えてしまう。
会いに行ったのにいないし、いざ会えても他の男がそばにいる。そんな、裏切り者でしかないはずなのに。
それでも、どうしても。この6年間を、否定など出来やしない。
「先生、先生……」
どうしても、胸が痛い。涙腺が悲鳴をあげる。
ぼたぼたと涙が溢れていくのに、脳味噌が少しずつ溶けていく感触がする。理性が、考える力が、少しずつ削げていくのが分かる。
救いが、欲しい。それなのに、救いであるはずの峰に傷つけられている。
ならば、彼のこの傷を……もっと、実感したい。
(僕は、馬鹿だよ。先生)
そう自覚したのが、意識の最後だった。そのまま、手だけが伸びていく。弱々しい力で、千尋は新品のそれの袋を破った。