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<チカ>

 ――寝てた。


 あわてて体を起こして、まだ真っ暗なのとすぐ隣で寝ているアキトさんが身じろぎもしなかったのとに、ほっとして、少しがっかりもした。でもすぐに、がっかりを打ち消す。

 違う。アキトさんが寝てるうちに出ていくつもりなんだから、ここで目を覚まされたらこまる。

 そもそも、眠るつもりなんてなかったのに。


 最後の日、アキトさんは一応絵が仕上がったと少しやつれたかおでこもっていた部屋から出てきた。

 その前はほぼ丸一日、ほんの少し何か食べるのに顔を見せたくらいで、ひきこもりさながらにこもっていた。

 そのまま気を失うように眠りに落ちて、目を覚ました時には最後の夜になっていた。


 最後、と思っているのは俺だけかもしれないけど。


 この先どうするのか、もしかしたらアキトさんは話すつもりだったのかもしれないけど、その話題を避けてベッドになだれ込んで、というところまでは予定通りだった。

 少しでも主導権をにぎって、体力を温存して、アキトさんが眠ったら出ていこうと思っていた。

 夜明けとともに山に行く、というのが習慣づいているらしいから、それよりも先に家を出て、歩けるだけ歩いてバスに乗って。

 一番近いバス乗り場にいなかったら、どこに行ったかなんてわからないだろうからあきらめるだろう。

 店に高埜タカノさんから問い合わせくらいは来るかもしれないけど、応えなければいいだけだし、この機会に、晴喜ハルキさんとももう縁を切ってもいいかも知れない。

 たまたま拾ってもらえて、ずいぶんと甘えてしまったから。


 ――怒るかな。


 怒ってくれたらいいなと、思ってしまって身勝手さに苦笑がこぼれる。

 ついこの間、この近辺の人にあいさつをして行こうと思ったところなのに、また繰り返している。


 ゆっくりと息をはいて、体を起こそうとしてぎくりとする。


 今まで、先につぶれるのは俺の方で、起きたら色々とアキトさんがきれいにしてくれた後だった。

 うっすらと、一緒にお風呂に入ったような記憶があったり、全く覚えてなかったり、とにかく気付いた時にはあれこれの処理は終わっていた。

 ナカに残っている感触に、ゴムを忘れたのもそのままなのも、めずらしい。

 それだけ、アキトさんも疲れていたんだろうか。それとも、もういいと思ったんだろうか。

 もう、最後だから。


 ――まさか。


 もう契約が終わったからといって、そんな風に投げ出す人じゃないだろう。何も言わずに出ていこうとしている後ろめたさと、それでいいのかという迷いとで考えが後ろ向きになっている。

 とにかく、時間がないことだけは確かだ。

 今の時間も夜明けもアキトさんがいつ起きるかもはっきりとしないけど、それだけは確かだ。

 どれだけ歩くかわからないから、ある程度の始末はつけておく必要がある。

 お腹を壊すのも困るけど、うっかり、おもらしでもしたようになったら、公共機関を乗りつぐのにものすごく困る。

 そろりと体を起こして、なるべくベッドを揺らさないように抜け出ようとして――


「どこいくの?」


 するりとのばされた腕が、腰のあたりをしっかりと抱きとめる。軽く引き戻されて、息が止まった。


「…トイレ、行くだけだから。寝てていいよ」


 かすれ気味の声を、ゆっくりと抑えて、まだどこか寝ぼけたような声のアキトさんを、しっかりと起こさずにやりすごせないかといのる。


「トイレ…? あー…そっか…ごめん、ナカに出しちゃってそのままだね。おふろ入る?」

「いいよ、自分でやるから、寝てて」

「…どこにもいかない?」


 ――え。


 腕が外されて、アキトさんが体を起こす気配がした。

 まだ真っ暗で、なんとなく輪郭はわかるようなわからないようなくらいで、表情なんて全く見えない。

 のばされた手が、俺の手をにぎりしめる。いつもよりも、少し冷たい気がした。


「僕の…戸籍に載ってる名前は、ナツカアキヒトです。前…生まれたときは違う苗字だったんだけど、大学の時に…遠縁の人の養子になって、今はナカツカ。長いにたばねる、で、秋夏秋冬の秋に人間の人。…君の名前を、教えてください」


 何を言われているのかが、よくわからない。わからないまま、身動きも取れない。

 アキトさんは一度、にぎった手に力を込めて、あわてたようにゆるめた。それでも、離してはくれない。

 ただ、待つような間をおいて、俺が応えないと思ったのか、先に口を開いた。


「お金を払ってつなぎとめるんじゃなくて、この先もずっと、一緒にいてほしい。えっと…結婚は、まだこの国ではできないから、でも…僕と、家族になってください。…親兄弟と仲良くないのに、って僕も思うけど、でも、ずっとずっと一緒に暮らしていくなら、やっぱり家族だと思うから…」

「本気で、言ってる?」

「本気だよ! 本気で、ほんとはもっとかっこよく言いたかったけど、…どう言ったらいいのか、わからなくて」


 のどが熱い。泣きそうで、声が出ない。でも、どうにかこらえる。


「…佐久間サクマ一愛イチカ

「どんな字?」

「…漢数字の一に、…恋愛の愛」

「きれいな名前だね」


 やさしい声に、また、のどが強い熱を持つ。

 手を離されて、強く、抱きしめられた。力強いのに、まるでつぶさないかと恐れるように、ふんわりとやさしく。


「いちか」


 耳元でつぶやくように呼ばれた名前に、びくりとする。


「お風呂、行こうか。そのままにしちゃってごめんね」


 当たり前のように抱きかかえられて、いつものように体を預ける。


 ――ああ。


 このままここにいられたらいいのに、と、思ってしまう。だけど、と、ブレーキがかかる。

 いつか飽きられるんじゃないかと、いらないと言われるんじゃないかと、勝手におびえてしまう。

 いつか、俺が全部壊してしまうんじゃないかと。

 勝手に怖がって、ダメになってしまうんじゃないか。


 ――だから、その前に。


 図案を練る段階になれば、アキトさんは、長い時間俺がいなくても気づかないだろう。

 今まで通りなら半月ほどは先になってしまうけど、その時には。

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