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<アキト>

「…?」


 ソファーに座っていた。目の前には、空になったコップ。

 何拍も置いてからようやく、水を飲みに部屋を出たんだったと思い出す。どうにも、頭がぼんやりとしている。


「…あれ」


 そこでふと、家の中に人の気配が感じられないことに気付く。部屋がいやにがらんとして感じられる。

 どうしてだろう、たった一人で居るのと、誰かがいるのでこんなに感じが違うなんて。

 いや、「誰か」なのか、チカ君だからなのか。


 テーブルの片隅に置かれた携帯端末に手を伸ばす。多分、チカ君がどこかに放置したのを置いておいてくれたそれ。

 ちゃんと電源も入って、今の日時が表示される。


「よかった…」


 小さな画面に浮かび上がる日付は、チカ君との契約が終わるまで残り五日だった。

 うっかり、知らない間に最終日を通り過ぎて、出て行ってしまったのかと思ってしまった。

 そこまではいってなかったようで、深い息を吐く。冷汗が気持ち悪い。


 でもそれなら、どこに行ったんだろう。


 ソファーの片隅にはいつものパンダが座ってるけど、何も持っていない。うっかりと当たって落とした、ということもなさそうだった。

 それとも僕の勘違いで、この部屋にいないだけでどこかにいるんだろうか。

 ぼんやりしすぎたせいか少しふらつきながら立ち上がって、一番端の僕の部屋から、順番に覗いていく。

 最後に、チカ君が来てからは一緒に寝ているモデル用の寝室にたどり着いても、やっぱり姿はなかった。

 もしかして、呆れ返って出て行った、なんてことは。

 このところ描くことにかかりきりで、どうにかチカ君のいるベッドに潜り込んでも、寝ぼけたようなチカ君の声を一言でも聞けたらいいくらいで。

 ごはんも、僕が一緒に食べようと言ったのに、すっぽかすことも増えてしまった。

 その甲斐かいあって、絵はあと三日もあれば見られる程度には仕上がりそうだけど。


「まさか…でも…どうしよう…」


 ぐるぐると部屋の中を歩き回って、不意にクローゼットが目にまった。

 基本的に、チカ君はそこに私物を仕舞い込んでいる、はずだ。


 だから――もしも、そこが空になっていれば。


 ごめんなさい、と声に出して、そっと扉を開く。

 何の抵抗もなく開いた扉の奥には、ハンガーにかけられた服が数枚と、高校生くらいが使ってそうなナイロンのスポーツバッグが一つきり。

 バッグはそこそこ中身が詰まっていそうで、きっと、そこにチカ君の私物のほぼ全てが収まっているのだろう。

 ハンガーにかかっているのは、どれも、見覚えのある服だった。

 僕が、チカ君に渡した服。部屋着や寝間着にと、渡した服。それが、狭いクローゼットの中できっぱりとバッグから追い出されていた。

 チカ君がこのバッグをつかんで出て行ってしまえば、後には、僕があげてチカ君のものになったと思っていた服と、僕が残される。

 そっと、音も立てないように静かに扉を閉めて、足音を殺すようにしてダイニングのソファーに戻った。腰を落とす。

 もう二度と、立ち上がれないような気がした。


「アキトさん?」

「!」


 どのくらいったのか、いつの間にかチカ君の顔がすぐ前にあった。不思議そうに覗き込んでいる。

 声が出ない。でも、手は伸びていた。


「え? ちょっ、わっ、あぶなっ!」


 乱暴に抱き寄せたせいで、僕も少し押し潰されるようになった。

 それでも、チカ君の体温に泣きそうになる。ちゃんと、ここにいる。


「…アキトさん? どうかした? 眠い?」


 何か言おうとするのに、言葉にならない。きっと、チカ君を困らせているだろうと思うのに。

 ややあって、チカ君は、優しく抱き返して、頭もでてくれた。


「今からご飯にするけど、アキトさんも一緒に食べる?」

「うん」

「…ほら、じゃあ放して。用意できない」

「…うん」


 あやすように注意されて、チカ君を解放しようとするのに体が動かない。もうちょっとこのままで居たい気がする。


「お腹空いてない?」

「…すいてる」

「最近ご飯の時間合わないけど、ちゃんと食べてる?」

「ごめん」

「え?」

「ご飯、一緒に食べようって。僕が言ったのに」

「ああ…。気にしなくていいよ、それだけ集中してるんでしょ。多少時間がずれたって、とりあえず食べてればいいし、俺が口出すことじゃないし」


 柔らかな声音で、でも、線を引かれた気がした。

 つい、抱きしめた手に力がこもる。さっきから全然、チカ君の顔が見られない。

 チカ君はぽんぽんとたたくように僕の頭を撫でて、やっぱり優しく、言葉をつむぐ。


「お腹すいてるんでしょ? このままだと餓死するよ」

「…食べてるし。チカ君と一緒に」

「ん?」

「え?」


 何故か、チカ君の手が止まって、言葉も途絶とだえた。

 何か変なことを言っただろうか。呆れられたり、嫌われたりしただろうか。慌てて何か言葉を探すけど、全く捕まらない。

 そして不意に、ぐいと体を押しのけられた。ソファーにめり込む勢いで、チカ君から離される。

 そうして、真正面から目を合わされた。


「アキトさん、最後に何か食べたの、いつ?」

「え…? だから、チカ君と一緒に、ほら、赤いけどからくないスープ」

「ラタトゥイユ。赤いのトマト」


 機械的に返して、チカ君は僕を置き去りにした。きびきびと、キッチンへと向かう。

 ぽかんと見送ってしまって、慌てて立ち上がると「座ってて」と即座に声が飛んできた。反射的に、腰を落とす。

 ガス台の火をつける音がして、すぐにいいにおいが広がる。

 お腹空いてたんだった、と、急にしっかりと思い出すけど、対面式だからここからでも見えるチカ君の眉間みけんに、くっきりとしわきざまれているのが怖い。


「…チカ君…?」


 しばらく無言で、そのまま、スープカップを手にまっすぐに戻ってきた。

 顔は怖いままだけど、ほっとする。


「とりあえずこれ。あとは雑炊でいい?」

「え、うん、ありがとう。…えっと…?」

「飲んで」

「はい」


 厚手のカップに入ったスープは、くすんだミルク色をしていた。

 差し込まれているスプンですくうと、ぽってりとした手ごたえがある。

 前にも飲んだことがある。ジャガイモのポタージュスープだ。

 ひとさじ口にすると、気付けばカップは空になっていた。お腹がぽかぽかする。

 深々と、ため息の音がした。チカ君が、困ったように見下ろしている。眉はしかめられたままだ。


「…ごちそうさまでした」

「アキトさん。忘れて勘違いしてるんだったらいいんだけど、本当に、最後にご飯食べたのラタトゥイユのとき? あの部屋でパンとか食べてない?」

「パンって、消しゴムに使ってるやつ? さすがに食べないよ?」

「そうじゃなくって。あのさ。俺と食べたの、昨日の朝。で、今昼。丸一日以上何も食べてないってことになるんだけど」

「あー…。まあ、そういうこともあるよ」


 別に一日ぐらい、と思うけど、チカ君はもう一度深々とため息をいた。


「これだけ食べ物あるのに餓死とかしそうで怖いんだけど。集中力高すぎるのも問題あるんだ」


 少し待ってて、寝ててもいいよ起こすから、と背を向ける。

 僕のために何か作ってくれるんだろうとはわかっているのに、チカ君が離れていくことがさみしい。

 そんなことを思う自分に吃驚びっくりする。

 さびしい、って。

 一人でいることが、ずっとずっと、当たり前で楽だったのに。

 赤ん坊の頃でさえ、構われるより放って置かれる方が好きそうだったと言われた。

 そんな頃から可愛かわいげがなかった、という言葉と一緒に。


「チカ君」

「何? お腹すいた? 待てないなら、何か…よさそうな作り置きないなあ。冷凍食品あっためる?」

「ううん。待ってる」

「そう?」


 おいしそうな出汁だしのにおいをただよわせて、こちらをさぐるように視線を向けるチカ君に、笑って見せる。なんだか、泣きそうだ。どうしてだか。

 近くにいたパンダを、ぎゅっと抱きしめる。

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