努力は必ず報われるなんて、嘘だ。
欲にまみれたクズ共は下卑た笑みを浮かべ、善良な人々が泣いている。苦しんでいる。
この世は、こんなにも不条理で残酷だったのか。
僕がバカだった。
優しいだけでは、誰も守れない。
守るために、甘い考えはもう捨てよう。
僕の大切なものを傷つける奴らは、絶対にゆるさない——。
両親と一緒にお祖父さまの屋敷へ来たのに、なぜか僕だけ、部屋に残れと言われてしまった。
(怒られるようなことはしてないと思うんだけど……)
不安になり、思わず唾を飲み込む。
「良いか、アルサス……。欲は己を滅ぼすということを、決して忘れてはならんぞ」
「はい、お祖父さま」
僕が返事をすると、ベッドに横たわるお祖父さまは、弱々しく頷いた。
「私はもう……長くない。お前が成長する姿をもっと見ていたかったが、こればかりはどうしようもないな。……今日呼んだのは、お前に渡しておきたいものがあったからだ」
お祖父さまは枕の下から短剣を取り出して、僕に手渡す。
(思ったよりも少し重いな……)
鞘を持ち、ゆっくりと短剣を抜くと、漆黒の宝石がギラリと輝いた。全体が青緑色なので、青銅の剣だろう。そして刃に文字のようなものがあるが読めない、ということは模様なのだろうか。随分と古いもののようだ。
「それは、我がオーウェンベルグ伯爵家の家宝で、名は『ヴァレーシア』という」
「家宝、ですか? 初めて聞いたのですが……」
「あぁ。この短剣を受け継ぐものにしか、知らされないことだからな。もちろん、お前の父も知らぬことだ。絶対に、他の者に知られてはならんぞ」
「は、はい……」
「これからは、お前が守ってほしい。そして必ず、血の繋がった子孫に剣を託すこと。……良いな」
「はい。お任せください、お祖父さま」
お祖父さまの屋敷を出て、馬車に乗り込んだのと同時に、雨が降り出した。馬車の窓に映る自分の顔を見ると、眉間に皺が寄っている。
(なんでお祖父さまは、父上ではなく僕に、家宝を渡したんだろう……)
成人したばかりの十五歳の僕よりも、父上が受け継いだ方が良かったのではないだろうか。
聞きたいことはたくさんあるけれど、体調が悪く、呼吸をするのも苦しそうにしているお祖父さまに、あれ以上は何も言えなかった。
短剣は上着の内ポケットに入れている。僕は両親に気づかれないように、服の上から短剣を、そっと押さえた。
(今は、父上と母上がいるから、剣を出すわけにはいかないよな……)
「アルサス」
父上の声がして、ハッとした。
「そういえば、部屋に残るように言われていたが、何を話したんだ?」
「えっ⁉︎ ええと……。貴族としての心構えなどを……(本当は、違うけど)」
「あぁ、長い話を聞かされたのか。それは災難だったな。——他には何か言ってなかったか? 例えば、相続のことなどは……」
短剣が脳裏に浮かんで、心臓の鼓動が早くなる。
手のひらには、じわりと汗が滲んだ。
(でもお祖父さまが、父上は家宝のことを知らないって、言っていたよな)
「い、いいえ。そのようなことは、聞いておりません」
「そうか……」
父上は、がっくりと肩を落とし、ため息をついた。
その隣ではなぜか母上も、ため息をついている。
「どうかなさったのですか?」
「まぁ、そろそろアルサスも、領地のことを学ばなければならない年頃だが……」
「はい。学園を卒業したので、父上の元で学びたいと思っておりますが……」
「そうだなぁ。うーん……」
父上は顔を顰めて目を瞑る。そんなに言いにくいことなのだろうか。
「父上?」
「まぁお前も知っておいた方がいいな……。実は——金がない」
「え?」
「金がないんだよ。去年は作物の育ちが悪くて税収もかなり少なかったし、今年も麦の成長が遅いと聞いているし……。それに、この間の大雨で、中心部の橋が流されただろう? その修繕費が、思っていたよりも高くてな。とにかく、金がないんだよ」
父上の隣で、母上も大きく頷いている。冗談で言っているのではなく、本当に困っているのだろう。
「そうなのですね……」
「これ以上は借金をすることもできないし、遺産が入ってくるのを待つしかない状態だ」
「そんな……。お祖父さまには、まだまだ元気でいてほしいです」
「私もそう思っているが、領地がな……。世の中には、綺麗事では済まされないこともあるんだよ。遺産が入ってくれば橋もすぐに直せるだろうし、領民が払えなかった分の、税の肩代わりもできる。それを考えると、できるだけ早く遺産を貰いたいと思ってしまうんだ」
「それはそうかもしれませんが——」
ガタン!
足元から大きな音が聞こえて、馬車が大きく揺れた。
「うわっ⁉︎」
身体が宙に浮き、側頭部に強い衝撃を受けると、視界は真っ暗になった——。
「うぅ……」
目を開けると、泥濘んだ地面に寝転がっているのが分かった。服も、ぐっしょりと濡れていて、気持ち悪い。
「なんで、こんなところに……?」
上半身を起こして、辺りを見まわす。
すぐ横には、崖がある。
反対側には何かの残骸が散らばっている。
明かりは見えない。
そして、とても静かだ——。
状況が理解できなくて、ため息をつきながら視線を上げた。すると、星が浮かぶ濃紺の空が、わずかに白み始めている。
「……あれ?」
不意に思い出した。お祖父様の屋敷へ行っていたはずだ。その後は屋敷を出て、馬車に乗ると雨が降り出した。
まだ夕食も食べていないような時間だったのに、どうして空が白み始めているのだろうか。どう考えても今は、朝だ。
「そうだ。馬車が揺れて頭を打って……。その後は、どうなったんだ? 父上と母上は?」
立ちあがろうとした瞬間、全身に激痛が走った。でも今は、そんなことは気にしていられない。長い時間、気を失っていたはずなのに、近くに誰もいないことの方が気になる。
僕は両脚に力を入れて、なんとか立ち上がった。
「えっ……?」
すぐそばには、潰れた馬車と下敷きになっている馬。その先には、黒っぽい服装の男性がうつ伏せで倒れている。おそらく御者だ。
ゆっくりと左へ顔を向けた。
母上がこちらを向いて倒れている。その近くには、仰向けになっている父上の姿があった。
全員が、動いていない。何の音もしない。
(まさか……)
右脚を引きずりながら母上のそばまで行き、跪いた。
美しい顔は傷だらけになり、目はうっすらと開いているが、瞬きはしなかった。
「母、上……? 母上!」
肩を揺さぶっても、ぴくりともしない。
「そんな……。嘘だ……!」
ガクンと力が抜けて、横に倒れた。早く父上や御者の様子も確かめなくては。と頭ではわかっていても、身体が思うように動かない。
起き上がれそうにないので、そのまま這って、父上のそばまで行くと、横腹に太い木材が刺さっているのが見えた。そして仰向けになっている父上の胸の位置は、上下していない。
もう声をかけなくても分かる。父上は、息をしていないのだ。
「うっ、うぅっ……。父上……!」
近くにある父上の手を握ると、人間の手とは思えないほど、冷たくなっていた。
父上と母上が死んでしまったなんて、信じたくない。
妹になんて言えばいいんだろう。
まだ甘えたい年頃の妹が、どれだけ悲しむか。
これから、どうしたらいいんだろう。
色々な思いが脳裏を巡って、目眩がした。
「うわあぁあああ……!」
「ご遺体は、お屋敷の方へ運んでもよろしいでしょうか」
「あぁ、頼む……」
世が明けた頃に通りかかった行商人が、領地の警備隊を呼んでくれた。
父上と母上と御者は、冷たい板の上に寝かされているのに、自分だけが温かい毛布を羽織っていることに、罪悪感を感じる。
(僕だけが生き残って、申し訳ない……。でも、僕まで死んでしまったら、リーリエはどうなっていたんだろう。もしかしたら神様が、リーリエを守るために、僕を生かしたのかもしれないな)
「……これからは僕が、あの子を守らないと」
幼い妹のこと。屋敷のこと。領地のこと。考えなければならないことが山積みだ。悲しむ時間もないのがつらい。
「アルサス様。見ていただきたいものが……」
警備隊の隊長、ローレンツに呼ばれて行くと、馬車の残骸の横に、隊員たちが集まっている。
「こちらです」
そう言って見せられたのは、車輪の軸の部分だ。
「これが……?」
「ここを見てください。車輪の軸が折れて、馬車が制御不能になったようですが、折れた部分がやけに綺麗なのが、少し気になるのです」
「たしかに、自然に折れたにしては、綺麗すぎるな」
「はい。もしかすると、これは不幸な事故ではなく——誰かが故意に、
「え……?」
「もちろん調査は進めますが、軸に切れ目が入っているだけなので、犯人に繋がる証拠を見つけるのは困難でしょう。——アルサス様……。これからは、アルサス様が領主となられます。まだ若い貴方を、利用しようとする輩も少なからず出てくるはず。簡単に他人を信用してはなりませんよ」
ローレンツ隊長が、僕の目をじっと見つめる。心配してくれているのだろう。
「……わかった。気をつけるよ……」