「せん、ぱい・・・?」
「大丈夫かい?いや、大丈夫じゃないな、顔色が悪い・・・立てる?」
倒れる寸でで俺を受け止めてくれたのは、谷先輩だった。
心配そうに俺を覗き込んでいる。優しい。ああ、でも・・・。
「先輩、俺、行かないと。ここにいると・・・」
嗣にぃが来てしまう。今は会いたくないし、捕まりたくない。いつ出てくるかと気が気じゃなく、後ろにあるマンションの入り口を忙しなく振り返る俺に、先輩は訝しげではあったが、横断歩道を指差した。
「理由は後で聞かせてもらうよ。とにかく、俺に寄りかかって・・・あちらに渡ろう。歩けるかい?」
俺が頷くと、支えた手で俺の体勢を整えて、歩き出す。あちらに渡って・・・どうするか。タクシーを捕まえて実家に帰るか?母さんたちを心配させるのは嫌だが、実家に帰る以外だと思い当たる場所がない。ネカフェとか行こうか・・・どうしようか・・・。
歩きながら考える俺の横で、谷先輩はスマホを手に取っていた。
「おい、戻ってきてくれないか。ああ、もう煩いな・・・良いだろう?どうせ近くだろうが、まだ。下ろしてもらったのとは反対の歩道にいるから」
それだけ言うと、通話を切ったそれを反対側の肩にかけていたトートバッグへと放り込んだ。俺を気遣いつつ、青だった横断歩道を二人で渡る。
「春見。ひとまず俺の家においで」
「え?」
反対側の歩道へと着くと、車の停車しやすい場所に移動しつつ、谷先輩が俺へと言った。俺は先輩を見上げつつ首を傾げた。まさかそんな話になるとは思ってもみなかったのだ。
「あの、でも迷惑に・・・」
「このまま放置をする方が俺に心配をかけて迷惑というものだよ。先ほども言ったけれど・・・君、随分と顔色が悪い。そんな体調で飛び出してくるなんて・・・ああ、そうだ」
先輩は片手で、バッグの中を探るとペットボトルを取り出して、俺に差し出す。
「ちょっと温いけれど、スポーツドリンクだよ。口をつけてないから、まずは飲みなさい」
先輩の口調は言い聞かすようなものだった。俺は頭を一つ下げてからそれを受け取り、蓋を回す。一口、二口、と飲むと体に水分が染み渡っていくようだった。
そういえば昨夜から何も食べていなければ、水分も昼過ぎに少し摂った程度だ。そしてあの行為・・・。今は夏で、その中をーーマンションの中とは言えーーダッシュで飛び出してきた。体内は色々と足りないのかもしれない。夏にこんなことするもんじゃないな、と苦笑が漏れる。半分ほど飲んで、蓋を閉じる。
「すみません、あの、俺・・・・・・」
「話は後でにしよう。車が来たようだ」
先輩がそう言うと、俺たちの前に車が止まった。少し大きめのそれは赤い車だが、車種に疎い俺はそれが何なのかは詳しくわからなかった。ただ、
「お前、本当にふざけんなよ!いきなり車まわせだの戻ってこいだの!・・・ったく!とりあえず乗れよ」
そう言って開いたのは左側のウィンドウで、ハンドルがチラッと見えたので外車なのだけは分かった。運転手席に座る人は、先輩とは対照的に明るい髪色をしていてサングラスをかけており、顔はあまりわからなかった。俺が思わず頭を下げると、どーぞー、と声が返ってきて、ウィンドウが閉まる。
「ああ見えて俺の従兄弟だから、おかしな人間じゃないし大丈夫だよ。さぁ、乗って。誰かが気になるようだし」
そうだ、嗣にぃ・・・と思ってマンションの方を見ると、遠くに嗣にぃが見えた。ひぇ、と心の中で悲鳴をあげる。こちらに渡っておいて良かった。・・・長身なのでよく目立つその姿は、今見ても格好良いと思うけれど。とにかく、今は先輩に甘えよう。俺は言われるままに、車に乗り込んだ。
中はエアコンが効いており、ひんやりとして心地よい。先輩も乗ると、車が動き出す。
「で?どこにお連れしますかね?ヒ・メ・サ・マ!」
運転席から、揶揄るような声がした。先輩は運転席の後ろをガンっと蹴り上げる。普段は優しげな先輩しか知らなかったので、その様に少しばかり吃驚してしまった。なかなかに足癖が悪いのだなぁ、とちょっと面白い。
「お前、覚えているといいよ。明日とか明日とか明日とか。・・・とりあえず本家でいい。どうせお前も戻るんだろう?」
先輩は俺の肩に手を回して、自分に凭れ掛からせるようにしつつ話す。この人も、嗣にぃと同じで動きがスマートだ。申し訳ないな、と思いながらも疲れが出てきていて、それに従った。先輩の体温と、涼しい車内と、怠さとが重なり合って急激に睡魔が襲ってくる。
「へぇ、珍しいな。あ、じゃあ見ちゃう?オレの彼女、見ちゃう?!」
「いや、母屋には行かないよ。自分の離れに行く。やかましいからね、あそこは。この子をまずは休ませたいんだ」
「ああー・・・違いない。しかしソイツ大丈夫か?高遠のオっさんに見せたら?今、多分いると思うぜ?あーでも、オレの可愛い彼女を姫にも紹介したいのにさぁ」
「あ、高遠さんがいるのか。それなら話は早いな。お前、帰ったら離れに来てもらえるように言付けてくれないか?その彼女さんとやらには改めて挨拶をさせてもらうよ。なんでも凄い美少女なんだってね?兄さん達からひっきりなしに連絡は来ているよ」
「へーへ。了解しましたよっと。そうそうそう!もうメチャクチャ可愛いのよ!オレ、あんな可愛い子初めてみた・・・それが今やオレの彼女!凄くない?しあわせー!絶対に結婚する・・・!オレは本気だ・・・!」
「はいはい。前は見てくれたまえ。結婚する前に単位取得を頑張りなよ、お前は。ところで・・・・・・」
オモヤ?ハナレ?なんだっけ、それ。そうか彼女が可愛いのかいいなぁ・・・・・・先輩たちの話を聴きながら重くなって落ちていく意識の中、俺の夫も格好良いんですよ、なんて俺は思った。
※
「・・・・・・軽い脱水のようだから、そう心配はないよ。点滴をした方が早いかもしれないが・・・まあ、大丈夫だろう。それよりも痣の方が、私は気になるがねぇ」
「ああ、俺もそれはちょっと気になってたんですよね・・・」
近くで声がして目を開ける。目の前には見知らぬ天井があった。どうやら俺はベッドに寝かされているらしい。身体の上には厚手のタオルケットが掛けられていた。視線を動かすと、先輩と男性が何か喋っている。ぼんやりとそちらを見ていると、こちらを見遣った先輩と目が合った。
「ああ、気が付いたかい?気分はどうかな?」
俺が目覚めたことに気が付き、先輩がベッドへと座り、俺の額を撫でた。
大丈夫です、と答えると、それは良かった、と微笑んだ。先輩は大層な美人なので目の保養だなぁ、なんて寝ぼけた頭で思う。
「じゃあ姫鷹君。私は母屋に戻るよ。何かあればまた呼ぶといい。その子が食事を摂れなかった場合も呼んでくれ。点滴をするからね」
「ありがとうございます。すみませんでした」
「いやいや。どうせ虎道さんと人生ゲームをしているだけだったから良いんだよ。君、無理をしてはいけないよ。ちゃんと自分を労わってやりたまえ」
会話の感じからして、その人はお医者さんのようだ。俺にも気遣う声をかけてから、去っていった。先輩は軽く頭を下げた後、俺の方へと向き直る。
「春見、少し起きれそうかな?水分を摂ったほうがいい。どうも脱水をおこしているようだからね」
「あ、はい・・・その、色々とすみません・・・」
さりげなく先輩は俺の背中に手を回して、起き上がる補佐をしてくれた。本当に手際がいいなぁ・・・感心しながら手を借りて、俺は起き上がった。頭もはっきりとしてきており、体調も少しよくなっている。
先輩は手を伸ばすと、ベッドの横にあったサイドテーブルから、新しいスポーツドリンクのペットボトルを取り、蓋を開けてから俺に差し出してくれた。俺はそれを受け取りながら頭を下げる。
「気にしなくていいさ。さっきの人は高遠さんと言ってね。うちの主治医なんだ。食事が摂れるようなら大丈夫みたいだけど・・・まずは水分だね」
うちの主治医、って・・・いや、もう予想はついていたが、先輩もかなりの家の出身・・・。ここの部屋もそれなりに広いし、室内はこざっぱりとしてはいるものの決して安い室礼ではない。桐月で肥えた目がそう言っている・・・。
俺はスポーツドリンクに口をつけながら先輩を見る。いやぁ・・・先輩は本当に美人だ。俺の様子に先輩が可笑しそうに、ふふ、と笑った。
「本当に、春見はよく俺を見るよねぇ・・・どこかお気に召したかな?ところで春見・・・」
あああ・・・いつも俺は不躾なんだよなぁ・・・お顔が素敵です、とも言えないしな・・・。先輩はベッドへと座り直すと、笑みを消して俺の首元を指差した。
「君、自分に痣やらが多くあるのは分かっているかい?首元もそうだが・・・失礼ながら、高遠さんの診察に付き添わせてもらったが、身体中にあるようだね?」
「あっ・・・」
ペットボトルを持つ手とは反対の手で、俺は喉元を覆う。そうだ、昨日の名残・・・派手に嗣にぃがつけた噛み痕とキスマーク。俺の身体には、それらが無数に散らばっている。首に、胴体に、背中に、手に、足に。噛み痕はよほど強く噛まれたのか、いくつかは青痣になりかけているのだ。
え、まて、これ、そういうのってバレるやつだろうか?!うわ、うわ、うわ・・・!じんわりと、額に変な汗が滲む。
「・・・そ、の・・・・・・あの・・・・・・」
「あまり踏み込むのも良くないとは思うのだけどね・・・暴行を受けたわけではないだろうね?」
「ぼうこう・・・・・・」
小さな声で繰り返しながら、昨日のことを思い出す。ああ、あれはどうなんだろうか・・・。殴られたり蹴られたりはしていない。じゃあ、暴行じゃないのかな?よくわからない。
「もっと確りと言えば、性的な暴行というか・・・」
実に言いにくそうではあったが、先輩はそれでも俺へとわかりやすく尋ねてくる。ちょ、ま、バレてますやん・・・。性的な暴行。ああ、そうだ、無理矢理ではあった。俺は嫌だと何度も言った。でも嗣にぃはやめてくれなかった。あの行為で快感がなかったわけではない、がーー・・・。
「・・・・・・どう、なんでしょう・・・?なんか、俺・・・よくわからなく、て・・・」
途端にぼろっと涙が溢れた。ええええええ、何でだよ。ちょっとちょっと涙さんよおおおおお・・・。みっともな・・・。俺は慌てて、首にあった手で涙を拭う。
「す、すみません。なんか、こう。俺、本当・・・」
「春見・・・・・・」
先輩は少し身体を移動させて、俺の背中を撫でた。じんわりと手のひらの温かさが背中に伝わってくるのに、涙がぼろぼろと溢れ出る。ひぇえ・・・本当に、どうした、俺。
「・・・君、逃げているような様子だったけれど、それも関係あったりするのか?」
こんなこと、どうやって説明したら良いのだろうか。そもそも相手は男だし、関係性は複雑極まりないしーー昨日にセフレ認定されたしな!くそが!ーー、なんか強姦もされたし・・・話しにくさ満点な案件すぎる。どうしていいか分からず、俺が俯くと先輩は大きく溜息を吐いた。
「・・・困ったな、最悪なパターンらしい。ところで、その相手はこの人で合っているのかな?」
先輩は俺の背を撫でながらも、俯く俺へとスマホを見せた。先輩の手の上で通知ランプを光らせているそれは、俺のもので『着信中:桐月久嗣』と表示されていた。現在進行形で、嗣にぃから電話がかかっている。
俺はそれを凝視するだけで、動けずに居た。先輩は、もう一つ溜息を吐く。
「成程。沈黙こそが答えと言ったところか。すまない、春見・・・勝手をさせて貰うよ」
先輩はそう言いながら俺の目の前からスマホを引かせると、画面の上で手を滑らせた。性能の良いスピーカーが『ゆうくん?!』と嗣にぃの声を響かせる。俺は咄嗟に、両手で耳を塞いで顔を思いっきり伏せた。ペットボトルが液体を溢しつつ転がっていくのが見えたが、気にしている余裕なんかなかった。
ぐっと身体を丸めて、耳を塞ぐ。
好き。嗣にぃが好きだ。俺は、凄く。今でも。でも、今は声を聞きたくない。
強く瞑った目からは、涙がとめどなく溢れた。
またあの声で「セフレ」なんて言われたら、今度こそ死ぬわ。俺。心が。色々と、無理すぎる。そうしている間も、先輩の手はゆっくりと背中を撫でていた。
何分かすると、とんとん、と背中を撫でていた手が柔らかく同じ場所を叩いた。
俺が少しだけ顔を上げると、先輩が微笑んでいる。その口が、春見、と俺の名を呼んでいるようだった。俺はぼやける視界をそのままに、顔を上げて、耳を塞いだ手を下ろす。ああ、ペットボトル・・・溢してしまったな、と今更気になった。
「・・・すみ、ません・・・こぼして・・・」
「大丈夫だよ。それよりも春見・・・話を聞かせてくれるかい?君に起こった事態は予測ができるが、正しいとは限らない。言いたくないところは無理をしないで良い。どうかな?」
ああ、優しいな、と思った。先輩の手は相変わらず俺の背中を撫でていて、もう一つの手が俺の頭を撫でた時、俺は先輩の腕に縋り付いていた。