『カルネアデスの舟板という言葉を知っていますか?』
月明かりに照らされた薄暗い部屋の中に、カルマの無機質な声が広がる。
仕事道具の整備用工具と、生活に最低限必要な物だけで構成された、飾り気の無い雪兎の自室。
その中で、部屋の主は重苦しい沈黙を守り続けていた。
ベッドの上で膝を抱き、表情を窺わせぬよう顔を伏せ、そのまま動かずジッとし続けている。
その限りなく情けない様を見つめながら、カルマは一旦は止めた言葉を再び紡ぐ。
『緊急避難の考え方の代表例として出される哲学の問題の一つです。 それに照らせば、今回の行動に何ら落ち度がなかったことは過去の事例を鑑みても明らかです』
「……ッ」
『結果的に貴方の下した結論は正しかった。 貴方は人類を救ったのです。 これは誇るべきことではあるも、決して悔やむようなことでは無いのです。……だから、ちゃんとご飯を食べてください。 歯磨きをして、お風呂に入って、布団に包まって寝て下さい。 こんな自己満足を続けていても、犠牲者は決して帰って来ないのですよ?』
彼女なりの励ましが込められた、徹底した理詰めの説得。
しかしいくら道理が通ろうとも、それで割り切れないことが存在することをカルマは理解出来なかった。
『ユーザー、どうして何も言ってくれないんですか? やはり私は、貴方に取ってただの都合の良い備品に過ぎないのですか? 本心もまともにぶつけられない、ただの玩具でしか無いのですか?』
既に数日を経たにも関わらず立ち直れないことに苛立ちを隠せず、カルマは不機嫌に顔を歪ませる。
人間と機械の価値観の違いより生じた感情の齟齬。
それは、二人の関係に僅かずつ軋轢を生み出していた。
『いい加減何か言ったらどうです?』
一向に改善しない態度に遂に業を煮やしたのか、カルマは思わず暴言を吐き付ける。
『今さら悲劇のヒーローを気取っても、誰も同情してくれはしませんよ。 戦う気が無い兵士以上に無駄な存在など、この世界には無いのですから』
何としてでも気を引こうと、容赦無い口撃を続けるカルマ。
だが、何者かが家の中に入ってくる気配を感じ取ると、更なる暴言を吐こうとした口を閉じた。
『………』
その足音から誰が来たかを察すると、カルマは勝手にしてと言わんばかりにソッポを向き、何も言い残すことなく壁の中に溶けて消えていく。
騒々しいチビッ子が失せたことにより暫しの間、静寂が室内を包む。
そしてドアが軋むような音を立てて静かに開いたかと思うと、優しげな声色が雪兎の鼓膜を撫でた。
「ふふっ、本当に小さい頃から変わらないわね。 悲しいことがあるとすぐにこうやって閉じこもって……」
過去に浸りつつ紡がれた穏やかな声。
それに惹かれ、雪兎は視線を声の主へと向けると、そこには微笑を浮かべて佇む哀華の姿があった。
凛とした雰囲気を絶えず醸し出し、それでいて人間らしい温もりも共に滲ませる乙女。
彼女は濡羽色の髪を優雅に揺らすと、黙って蹲り続ける雪兎の前に静々と座り込む。
「大丈夫よ、私は誰かの差し金でここに来た訳じゃない。 貴方が心配だったから、自分の意志でここに来たの」
眼球だけを器用に動かし、睨むように哀華を見る雪兎。
その冷たい視線を察したのか、哀華は微笑みを絶やさぬよう心掛けながら答える。
「私はおば様のように皆を導いていくことも出来ないし、馳男君のように貴方の背中を守りながら戦うことも出来ない。 だから……、せめて貴方の支えになりたいの」
他意一つ無い、誠意を込めた願い。
それを口にしながら、哀華は静かに雪兎へと近寄っていく。
「貴方の気が鎮まるのなら、私は貴方の何だって受け入れる。 例えこの身体を引き裂かれても、辱められても、私は後悔なんてしない。 だからお願い、何も言わなくて良いから側に居させて?」
蹲った雪兎の前で膝立ちとなり、意志の光宿らぬ真紅の瞳を見つめながら哀華はそっと顔を寄せる。
額と額が触れ合う程に近づいた二人の距離。
その時になって、漸く雪兎は重かった口を開いた。
「何故優しくするんです? どうして罪人だと罵らないんです?」
自らがやったことに対する罪悪感に心を縛られたまま、雪兎はゆっくりと顔を上げ、曇り一つ無い哀華の瞳を見る。
それに対して哀華は目を細めて応えると、自責の念で押し潰されそうになっている雪兎の頭を撫でようと手を伸ばした。
「貴方は誰もが忌避するような仕事をやり遂げた。 だから褒めるのは当たり前のこと、そうでしょう?」
叱責をねだるような呟きに構わず、優しい言葉と共に伸びる哀華の細腕。
だが、雪兎はそれを自らの意志で弱弱しく振り払った。
「違う、僕は貴方が考えるような立派な人間じゃない。 例え貴方が何と慰めようと、僕が罪人である事実に代わりは無い」
哀華の慰めの言葉を否定し、再び顔を伏せる雪兎。
その脳裏には、忘れがたいある人物の姿がよぎっていた。
身体検査と事情聴取を終え、解放された自分に向かい、絶叫しながら襲い掛かってきた女兵士の姿が。
故郷を焼き尽くした怨敵を屠ろうと、罰を受ける事も顧みず刃を振り翳した普通の人間の姿が雪兎の心を抉り、酷く膿ませていた。
「そう、僕が薄汚い人殺しであることには」
自らが犯した罪の重さに心を砕かれた雪兎にとって、哀華の優しい言葉と眼差しはあまりにも眩しく、恐ろしかった。
人殺しという悲しみに満ちた絶叫に打ちのめされた今、彼女の無償の愛と憐れみが何よりも怖かった。
その恐怖故か、雪兎の左手の爪が無意識のうちに右腕の肉に食い込み、雫を零させる。
紛れも無い人の証明たる、赤い血潮を。
「駄目よ、どんなに悲しくても自分を傷つけては駄目。 いくら痛みで気を紛らわせようと、それは逃げにしかならないの」
何の益にもならない自傷行為を目撃し哀華は血相を変えると、咄嗟に雪兎の左手首を掴んで自らの首へと押し付けた。
爪先にこびりついた雪兎の血液が、哀華の白く細い首筋を流れ落ち、かすかな彩りを添える。
「っ!?」
「どうしてもと言うのなら私を、傷付いても誰も困らない私を先に殺してからやりなさい。 殺ろうと思えばいつだって殺れるでしょ? 私はただのか弱い女に過ぎないんだから。 さぁ!四の五の言わず早く殺って見せなさい!」
これ以上絶対に傷付けさせまいと、確固たる意志の光を瞳に宿しながら、哀華は鬼気迫る面持ちで雪兎に強く促す。
自らの命を一切顧みず、強く、激しく。
その無謀ながらも限りなく一途な姿は、腐り始めていた雪兎の心に僅かながらの活力を齎した。
「……ずるいですよ、僕にそんな度胸がある訳無いじゃないですか。 だって僕は、根っからの卑怯者で臆病者なんですから」
乾き切った笑みを浮かべつつ雪兎は小さくも確かに言葉を紡ぐと、哀華の首から手を離し、虚ろだった瞳を閉じた。
三日三晩、飲まず食わず眠らずで悔い続けたためか、その身体は一刻も早い休息を求めて無意識のうちに床へ倒れこもうとする。
すると哀華は、浮かべていた険しい表情を一転し、雪兎の疲れ切った痩身を思い切り抱き留めた。
「そんな事は無いわ。 貴方はいい子、誰よりも勇敢で優しい子。 だから、自分を卑下する必要なんてないわ」
意識を放棄し、静かに寝息を立て始めた雪兎の頭を撫でながら、哀華は慈しむように囁く。
「今日はずっとそばに居てあげる。 貴方の悲しみが、少しでも早く薄れるように」
自分に寄りかかった身体をゆっくりと動かし、膝枕をする体勢になると、哀華は雪兎の頬を指でなぞりながら窓の外から注ぐ光に目を向ける。
防壁の中に月が沈み、更に深くなった闇の中。
そこには昼光色、蛍光色、電球色と様々な色合いを混ぜ合わせた光が輝いていた。
雪兎が自らの心を引き裂いてまで守り抜いた人々の営みの証が、小さくも確かに瞬いていた。