雪兎と哀華が旧都を訪れて既に二週間が過ぎた。
とは言っても初日と二日目に騒動が起こった以外には何事も無く、ヴィマラの世話と肉親探しと平行して二人は子供達への指導を熱心に続けている。
学生時代に教育関連の職に就いてみたいと考えていた雪兎にとって、この日常は多忙であるも不思議と充実感があり、疲労した精神に休息を、穴だらけになった心に癒しをもたらしていた。
許されるのならもっと長くここに留まっていたいと考える程に。
しかし現実はそこまで甘くは無く、ある日通信用ナノマシンに届いた召集命令が、雪兎を甘い幻想から引き戻した。
「やっぱり来たか。 まぁ思ったよりも遅かったよ本当に」
命令が届いたその日の晩、雪兎は子供らから預けられた課題の採点を終えると、手元のコンソールを開き、最も気心の知れた仲間にコンタクトを試みる。
同じく命令を受け取っていたカルマの力を借り、体内のナノマシンから発せられた信号を増幅し、目的の相手に直接声を送る。
すると程無く、耳鳴りのするような静寂を破って馳夫の軽い声が頭の中に鳴り響いた。
「よぉ久しいなスカタン、愛しのお嬢様との性活はいかがお過ごしかな?」
「……わざわざ答えてやる義理は無いね」
「ああそうかい、まったくこれだから人の心が分からない朴念仁って奴は」
「うるせえ! まだ何も言ってないだろうが!」
回線が開いて早々、何時もの様に他愛も無い文句のぶつけ合いを始める2人。
思わず馬鹿じゃないのとカルマが辛辣に呟くも、2人は聞こえぬ振りをして不毛な罵りあいを続行する。
だが今回のじゃれ合いは意外と長くは続かず、珍しく馳夫の方から侘びを入れて来た。
「しかし久々に連絡が付いたのに、いきなり仕事の話になっちまってわりぃな」
「別に気にしてないさ。 何週間も職場を空ける羽目になって逆にこっちが申し訳ない位だからね。 それより今はそんなことどうだって良いだろう?わざわざ僕まで召集されるという事は結構な厄介事があったってことだろうから」
思いがけない詫び入れに意外に思うも何気なく流しつつ、本命の話を促す雪兎。
すると馳男は面倒くさげに肩を鳴らしながら、最近起こった碌でもない出来事を愚痴愚痴と語り始めた。
「そうだ、中東周辺で屯していた畜生共が一斉に極東に向かって動き出したんだと。おかげで東南アジア一帯が一気にパニックになっちまったよ。 まぁ、ドローン基地がまとめて落とされた時からこうなる事は覚悟していたんだが。厄介なことに今回の騒動はこれだけじゃあ収まらんのさ」
かいつまんでしか情報を知らされていなかった雪兎に単々と説明してやりながら、馳夫は新たにデータを送ってくる。
すると、モニターに浮かび上がった地図の表面を無数の赤い点が滑らかに流れ、ある一点へと次第に収束していく。
「中東の異変に呼応して他の地域の害獣共も一斉に大規模な渡りを開始、襲来地点は台湾島と特定。アイアンハート・セキュリティ社に所属する戦闘員は台湾支部で待機し、命令が下り次第、先鋒を務める東南アジア軍事連合の戦列に加われだそうだ。 既に旧支那沿岸部から大量の生体反応をキャッチしているらしい。おまけにお前が呉の地下で発見した生体プラントも複数確認出来た。 やっこさん殺る気まんまんのようだぜ。まったく嘆かわしいことにな」
画面上を流れていく大量の資料に細かく目を通しながらも、他人事のように余裕を見せながら語る馳夫。
しかしそんな馳夫の態度とは裏腹に、雪兎はどこか不安気な表情を浮かべながら呟いた。
「台湾か、随分と距離があるな……」
「何だ?何か心残りなことでもあるのか?」
「いや、あの赤い血を流す化け物共がまた現れるんじゃないかと心配になったんだ。現にリアルタイムでそいつらのお仲間が旧都の空を飛んでるからね。 それを考えるとどうしても気後れしてしまうのさ」
「お前の気持ちは分からんでもない。 俺だって例のサザエ野郎みてぇな奴が間近に潜伏しているかも知れないと考えたら夜も寝られなくなる」
死してなお非常識な濃度の猛毒をばら撒き続けた芋貝との戦闘が脳裏をよぎったのか、馳夫は余裕な口調を維持しながらも僅かに雰囲気を引き締める。
そして彼は暫しの沈黙の後、何時になく真面目な口調で雪兎に言い聞かせた。
「だがな、目に見える危機をこのまま放置する訳にもいかねぇ。 ここを抜かれれば後は太平洋まで一直線だ。後が無いんだよ。だから四の五の言ってないでお前もさっさと合流しろ。 お前の力を見込んだからこそ、お前を怖がっていた周りの国だって渋々出撃を許容してくれたんだ。期待を裏切るなよ」
「しかし……」
「安心しな、本土の留守はうちのババアと艦隊からの援軍が何とかしてくれる。 くだらんことで杞憂している暇があるのなら、目の前の事に全力で対処するべきだ」
留守を守る防衛部隊から艦隊より派兵される援軍の情報までも交え、言い訳を許さない理路整然とした説明を続ける馳夫。
そして最後に自分達より遥かに強大な力を持つ人物の名が場に出たことで、雪兎はようやく渋々ながらも頷いて見せた。
「……分かった、明日には準備を済ませてそちらに向かう」
「本来なら一秒でも早く来て貰いたいところだがな。まぁいい、その代わり着いたらキリキリ働いて貰うぜ」
「言われずともそのつもりだよ。それじゃ続きは現地で」
「あぁ、待ってるぜ」
ブリーフィング画面を閉じ、カメラ越しに軽く手を振った雪兎に対し、馳夫は健康的な歯をニヤッと見せつけながら憎たらしい笑みを投げ掛ける。
その瞬間、二人を繋ぎ止めていた電子の鎖が断ち切られ、雪兎の意識は仮初めの日常へと回帰した。
「ふぅ、何だか随分と急な話になっちゃったな」
『化け物どもの感覚からしてみれば長い足踏みだったとは思いますがね。 まぁ何はともあれ、ここからが本当の正念場です。気を引き締めていかないと』
「あぁ、言われずともそれは分かってるつもりだ。だから今は黙っていてくれ、頭が痛い……」
精神的疲労で僅かにぼんやりする頭を一度覚まそうと、雪兎はよろめきながら窓に近づく。
吐息で僅かに白んだ窓の向こうに見えるは、かつての摩天楼の面影など感じられない一面の暗黒。
自分達が敗北を喫すれば、本土全域でも近いうちに訪れるであろう未来。
「やれるだけのことはしっかりやり切らないとな、こうならない為にも」
呟きながら開け放った窓から流れ込む冷え切った夜風。
それが優しく頬を撫で、いずこへと流れ去っていくのを感じながら雪兎は星空を見上げた。
「……カルマ、ちょっと席を外して貰えるかい?」
『分かりました、では私はヴィマの様子を見てきますね』
「悪いな」
星を眺めつつ何を思ったのか、唐突にカルマに促す雪兎。
だが、カルマは命令の意図を問うことも反抗することなく壁の中に飛び込み、隣の部屋へ潜って行く。
何も音を発する物が無くなり、重苦しい沈黙が再び狭い部屋に満ちる。
その中で、雪兎は不安に満ちた心を無理矢理落ち着かせるように深呼吸をすると、ゆっくりとドアの方へと向き直りながら穏やかに呼び掛けた。
「隠れている必要なんてありませんよ。 心配ごとがあるのなら直接僕に言ってください。 我慢して胸の底に溜め込んでも無駄に苦しむだけなんですから」
自らを棚に上げ、何事も無く笑ってみせながら応答を待つ。
すると僅かに開いていたドアが力無く開放され、板目状の床の上を細長いシルエットが這う。
「また行ってしまうのね、雪兎」
「えぇ、でも仕方ありません。僕にしかやれないことなんですから」
「そうね、貴方は優秀だから酷使されるのも当然よね」
寂しげに呟きつつ雪兎に近づいて来るのは、一見いつもと変わらぬ微笑みを浮かべる哀華。 しかしその笑みはいつもよりどこかぎこちなく、雪兎が憂いの感情を察するには十分だった。
「不服ですか?」
「まさか、私なんかがわがまま言っちゃいけないわ。でもこれだけは言わせて。 あの晩、貴方の身体が滅茶苦茶になって帰ってきたあの日、私がどれだけ不安だったか分かってる?」
「うっ、それはその……」
哀華にしては珍しい語調の強い問いに晒され、雪兎は今ごろになって己の無神経さを恥じる。
近しい者の身に災難が降りかかれば、訝しむより先に心配する方が人間的に自然なことのはずだと。
現に、まるで自分の事のように悲しんでくれた哀華を見つめながら、雪兎は申し訳なさげに表情を曇らせ、詫びを入れた。
「すみません、自分のことで手一杯になってしまって」
「大丈夫よ怒ってないから。でも一つだけ約束して、どんな酷い目に遭わされても必ず人として帰って来るって。私だけでなく、ヴィマや貴方を受け入れてくれる人達の為にも」
「哀華さん……」
鼓動を感じる程近くに寄り添われ、雪兎は照れ臭いものを感じながらもただ哀華の望むままに己も身を寄せる。
互いを強く想いながらも気安く次の一歩を踏み出せない二人にとって、これが精一杯の愛情表現。 周囲に知られれば嘲笑されるだろうが、そんな事は二人にとってどうでも良かった。
ただ確かな絆さえ感じ取れさえすれば、それだけでも良かったのである。
「えぇ勿論です。無責任に死ねない身になった以上、必ず帰ってきますとも」
哀華の想い、眼差し、体温、そして匂いを全身で深く感じながら雪兎は笑顔で返すと、無意識の内に開け放たれた窓の外へ視線を向けた。
外から流れ込んだ冷たい微風が雪兎の鋭敏な嗅覚を擽り、周辺の曖昧な情報をもたらす。冷たい、湿っている、清澄であり、そして何故か甘い。
「!!!」
その瞬間、雪兎は今まで細めていた目を見開き、憎々しげに牙を噛み締めた。
哀華の匂いとは別に雪兎が偶然察知したのは、バニラのように甘ったるい臭い。
それが鰐淵翁愛飲のタバコの放つ臭いである事を察するのに、さほど時間はかからなかった。
「あの耄碌爺が!」
何を目論んでいるのかなど知りたくもないが、首根っこを掴み上げて聞きたいことは山ほどあると、雪兎は一旦哀華から離れて窓枠に足を掛ける。
「ちょっと、一体どうしたの?」
「何でもありません、ちょっと気晴らしに外を彷徨いて来ますね」
困惑して不安げに問う哀華に対しはぐらかすように答えるやいなや、雪兎は窓枠を破壊しない程度の力で蹴って高く身を跳ね上げると、そのまま闇の中を疾走して行った。
枯葉が落ちるより静かに、音すらも置き去りにするような速さで。
「……相変わらず嘘が下手なのね」
その場に一人残された哀華は雪兎の雑すぎる嘘に思わず苦笑するも、すぐさま表情を引き締め、警備システムのセキュリティレベルを引き上げる。
雪兎が闇に消える直前、真剣な表情をしたカルマが自ら伴っていった事を見逃さず、ただの民間人に過ぎない自分には計り知れないような事態が起ころうとしていると理解し、素早く戸締まりを済ませた。
「とにかく、今私に出来ることをやっておかないと」
大袈裟過ぎるかもしれないが事が起きた後では遅すぎると、ガンロッカーから装備一式を持ち出し、招かれざる客に対する準備も万全に整える哀華。
後は雪兎の足手まといにならないよう、ヴィマラと共に安全地帯に篭ってひたすら無事を祈るだけ。
その為にもと、哀華は子供部屋で寝入っていたヴィマラを問答無用に担ぎ上げると、備え付けられていた小型シェルターに向かった。
「ごめんなさいヴィマ、すぐにまた横になれるからちょっとだけ堪えてね。 怖がらなくても大丈夫。生憎お兄ちゃんは今いないけど、代わりにお姉ちゃんが命を賭けて貴女を護るから」
眠たげに呻くヴィマラをあやすように語りかけ、パニックを起こさせないようにと哀華は献身的に努め続ける。
何の心配もいらないと、己の心に沸き上がる不安をひた隠しにして。
すると、ヴィマラはようやくその重かった口を開いた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないわ。これが私に課せられた役割だから」
「そう……、なら私も自分に課せられた使命を果たさなくちゃ」
「使命?」
ヴィマラの紡いだ言葉の意味を全く理解出来ず、思わず立ち止まる哀華。
その時、彼女は全く気が付いていなかった。
ヴィマラの身体を背負った瞬間から、その小さな肉体におぞましい変化が訪れていたことに。
だが、結果的にそれは哀華にとって救いであったのかも知れない。
ヴィマラの小さく愛らしい容貌が、醜悪極まり無い肉の塊になり果てる瞬間を、脳髄に刷り込まれずに済んだのだから。
「さよなら」
足元にヴィマラの顔を構成していた皮膚が湿った音を立てて流れ落ち、驚愕の余りに沈黙する哀華。
その隙にヴィマラだった怪物は哀華の肢体を有無を言わさず一呑みにすると、都市の外を目指して勢い良く潜行を開始する。
わざわざ自分から出ていく必要性など全くないが、これから嘆き悲しむであろう大切な人のことを考えるとヴィマラはそうせずにはいられなかった。
「これが私が産まれてきた意味なの、だから仕方が無い事なの。 でも、なんでかしらないけど、すっごいおなかすいたな」
脳裏に朗々と響く老人の呪いに突き動かされ、彼女は破滅への道を辿り始める。
殺意と食欲が混濁した狂気の中に正気を投げ出し、全てを己が半身に委ねて。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あの野郎、現れたと思えばちょろちょろみっともなく逃げ回りやがって……。 暇潰しにわざわざ煽りに来やがったのか!?」
微かな臭いと気配だけを頼りに、寝静まった街の中を駆けていく雪兎。
状況証拠から推測するに、まだ遠くには行っていないはずだと虱潰しに近辺を捜索するが影も形も無く、苛立ちを露わにする。
「畜生!いないはずは無いんだってのに!」
『大丈夫ですから落ち着いて下さい。相手はただの人なんです。小細工を弄しようが我々から逃げられるはずがありません。 今度は私が探知を担当します。ユーザーは位置を把握次第即刻捕縛を』
「すまん、頼めるか?」
『勿論です、私もヴィマに余計な事をしたと思わしき耄碌爺に聞きたいことがあるのですから』
2週間の間、ヴィマと寝食と遊びを共にしてきた故か、カルマは珍しく他人に対する不満を露わにすると率先して索敵を行おうとする。
だが、全身からセンサーを展開した途端、彼女は小さく呻くと同時に硬直した。
己の身を小さく丸めてボディを引っかいたり、雪兎の顔に忙しなく視線をやったりと明らかに挙動不審な行動を暫し繰り返すと、やがて譫言のように言葉を洩らす。
『あぁ、どうしてこんな……』
「おいどうした?一体何があった!?」
今まで見せたことも無いような表情を浮かべて消沈するカルマを目の当たりにし、動揺する雪兎だが、一瞬の間を置いて己も絶対に感じたくなかった気配を認識してしまい、顔を歪める。
「馬鹿な……」
呆然と立ち尽くし呻くのも束の間、雪兎は固く拳を握ると、何故だどうしてだと叫びながら強い気配を感じる方角へ全力疾走し始めた。
それと同時に、遙か遠くの格納庫で待機していたドラグリヲが雪兎の感情に呼応して自律起動し、屋根を吹き飛ばして天高く身を躍らせると、主達を収容するべく咆哮を上げながら飛来する。
開きっぱなしのコックピットに新野からの制止の通信が届くが、雪兎はそれを一切無視してカルマと共に機体に乗り込むと、外界と都市内を隔てる壁を飛び越え、身を貫く殺気の根源にたどり着く。
「ヴィマ……、何でだよ……」
眼下に広がる錆び付いた荒野を眺めながら、雪兎は悲しげに呟く。
今感じ取っている殺気がどうか気のせいであるようにと強く願うが、現実はただ非情であった。
雪兎の願いも虚しく、とうに枯れ果てた大地を引き裂いて、無垢なる殺意の源が月下に姿を晒し出す。
真っ暗だったドラグリヲのメインモニターを瞬く間に占有したのは、山と見紛う程に巨大な山椒魚染みた怪物。
胴に届く程に大きく裂けた口を持ち、常に脈動する赤錆色の皮膚を纏った醜悪極まり無い肉塊の獣。
それはゆっくりと星空を仰ぐと、地が震える程に低く大きな喚き声を上げ、己の存在を誇示した。
まるで今まで隠されてきた分まで存分に見てくれと、旧都に住まう命全てに強請るように。