それなりに広く小綺麗な臨時の研究室の中で、白衣姿の偉丈夫が熱心にキーをタイプしている。
折角淹れたコーヒーが冷めるのも気にせず、時折小さく唸って手を止めては天を仰ぎ、ハッと閃いたように口角を吊り上げては急いで作業を再開する。
そういった作業を繰り返すうちに真っ暗なモニターの中には無数の複雑な計算式や命令文が積み上げられ、プログラムが実行される都度に部屋に設置されたスーパーコンピュータが不気味な唸りを上げた。
「これでようやく一息つけるか。 やれやれ一体何と殺りあったのかは知らないが、もう少し丁重に扱って貰いたいところだ。 この調子でがんがん壊して貰っちゃおちおち寝られやしない」
最後に走らせたプログラムが問題なく動作し続けている様を確認すると、新野は一つグッと伸びをし、暫し存在を忘れていたコーヒーにようやく口を付ける。
後は坊やが復帰してくれるのを待つだけだと、彼は受信したニュースを確認する合間に、何気なくカレンダーにも視線を向けた。
雪兎が旧都に帰還してもう1週間程経つが、まだ本調子じゃないのかと気を揉むばかり。
問題は山ほどあるというのに動ける人間ばかりが減っていく現実は、新野への負担を精神的にも、肉体的にも、そして立場的にも確実に増やしていく。
「今年は無事冬を越せるのかねぇ……」
列島ばかりで無くN.U.S.A.も何とか国難を乗り越えたと聞くが、大量消費された物資の量と得られた結果が釣り合わないことに変わりは無く、新野はらしくもなく悲観的になり、無意識に顔に手を当てた。
――その時、廊下から唐突に落ち着きのない足音が響いてきた。
時折何故かコケているのか、騒々しくバタンバタンと倒れるけたたましい音を交えるそれは、確実に研究室へと向かってくる。
「あの馬鹿者め毎度毎度落ち着きのない奴だな、まぁアイツらしいといえばそれまでだが」
何をやってるんだと苦笑いを浮かべつつも、新野は内心安堵しながら扉のロックを解除してやると、木が軋むような重い音を立てて軽い引き戸がノロノロと動いた。
「ようやくお目覚めかって……何だその醜態は、大の男が虫みたいに這い回っているんじゃねぇ」
「ち……違う……僕だって好きでこんなことやってる訳じゃない……」
新野が呆れたように視線を床に落とす中、扉の影からよろよろと現れた雪兎はまるで山賊にでも襲われたかのように全身ボロ雑巾同然の状態で部屋の中に転がり込むと、全身の関節を労りつつ黒革が張られたソファに何とか乗り上げた。
その頬には思い切りねじり上げられた痕が残っており、まだ真っ赤に腫れている。
「ただ、リンボから先に帰した人達にお見舞いされただけです……。 勝手なことして心配かけておいて弁明もお詫びもないのかと全身をメッキメキのバキボキに……」
「まぁお見舞いした方の気持ちも分からないではないがな。 お前さんは自己評価が低すぎるせいで人様の心がよく分かっちゃいない。 なぁお前さんもそう思うだろう? 木の人形の坊やよ」
雪兎の愚痴もそこそこに聞き流し、新野は肩を竦めて一度軽くため息を吐くと、スーパーコンピューターが設置されたスペースのそばに垂れ下がっていたカーテンの向こうへ声を張り上げる。
するとその影からゆっくりと小麦色の小さな手が伸び、新野の言葉を肯定するようにグッと親指を上げた。
『だね、雪兎兄ちゃんは色々と罪なお人だよ』
「グレイス!? お前どうやってここに……」
思わぬ返事に驚き、雪兎がカーテンを勢いよく開くと、そこには服をはだけた状態で機能を停止し無表情のまま座り込んだカルマと、彼女にグロウチウムケーブルを接続した状態で寄り添うグレイスの姿があった。
無遠慮に姿を晒されたことを不快に思ったのか、グレイスがわざとらしく咳き込んでみせると、雪兎は己の無礼を察して速やかにカーテンを閉じる。
『お願いされてた引率が終わった途端にちょうどよく現れたカラスの姉ちゃんと蛸の兄ちゃんに連れられてね。 まぁ何にせよ探す手間が省けてよかったよ。 もう少し新野さんとの邂逅が遅れていたら多分カルマも危なかった』
「……悪い、僕がついていながらこの有様で」
『謝る必要はないさ。 兄ちゃんがベストを尽くした上でこの被害なんだろう? それにどこの誰がどんな汚い手を使ってきたかってのも大体想像が付くからね。 人を超越した存在に成り上がったところで、その腐った性根だけは簡単に変わることが出来なかったようだ』
申し訳なさげに表情を曇らせる雪兎を励ますように、グレイスは軽く首を振って気にしていないことをアピールする一方、視線を逸らした瞬間に限り無く不快そうに眉間に皺を寄せて毒を吐く。
活発な印象が強いグレイスにはあまり似つかわしくない陰湿な仕草。
それを目の当たりにした雪兎は膝をついてグレイスと目線を合わせると、真剣な表情をして問うた。
「お前、サンドマンのことを知っているのか?」
『へぇ、今はそう名乗ってるんだねアイツは。 偉くもない癖に偉ぶってた馬鹿共に媚売って、お情けでいただいたお砂場がお気に召したようで不愉快極まりないな』
過去に相当苦汁を舐めさせられたのか、グレイスは雪兎が辛うじて聞き取れるような小さな声で悪態をつくが、すぐさま我へと返り、下手くそな愛想笑いをして見せながら頷く。
『あぁ、よく知ってる。 ……でも今はカルマの復旧を済ませる方が先だね。 奴の悪行は三日三晩語りっぱなしでも語り尽くせないほどにあるから、また手が空いたときにでも教えてあげるよ』
「すまないな、何から何まで世話になってしまって。 こちらは奴に翻弄されっぱなしで何も出来ていないというのに……」
自らの顔に刻まれた深い傷に手を当て、自らの無力さを嘲笑うかのように乾いた笑いを零す雪兎。
だが、その様を見たグレイスは雪兎を咎めるように一際鋭い視線を向けた。
敵意こそ無いが強い抗議の念が混じった気配は、気落ちしていた雪兎に軽く発破を掛ける。
『それは謙遜を通り越して最早イヤミだよ雪兎兄ちゃん。 兄ちゃんは他人には出来ないことを十分にやってくれている。 この星に息づく全ての人類のみならず、奴等に長い間幽閉されていた俺にも間接的にね。 兄ちゃんは初めてリンボに迷い込んだ時、戦闘に直接関与しないデータを受け入れたことを覚えているかい?』
雪兎が興味を示してくれている隙にと、グレイスは新野から転送されたプログラムを受け入れて再起動プロセスを開始したカルマの様子を伺いながら問いかける。
その瞬間雪兎は思い出した。 自分に記録を託して滅した人工頭脳の遺志を。
「あの鯨の乗員名簿と、あの都市で編纂された年鑑のことか?」
『ご明察の通りだ。 俺とカルマは昔あの舟に結構お世話になったんだけど、ある日突然その舟が行方不明になってしまってね。 しつこく行方を捜していたんだけど結局見つからず捜索は打ち切り。 最終的には船長が気を違って舟を奪って敵前逃亡を謀ったと、証拠も無く断定されて船籍も乗組員のデータも抹消されてしまった』
今は影すら滅してしまった舟の在りし日の勇姿を思い起こし、グレイスは作業する傍らで寂しげに微笑みながらカルマの髪を梳くように指を滑らせる。
その絹のようにしなやかで柔らかい黄金色の頭髪は、グレイスの指が動く都度に複雑な光沢を放ち、星のように儚く煌いた。
『でも、兄ちゃんが持って帰ってきてくれたデータのおかげでようやく彼らの名誉を回復することが出来るんだ。 敗北主義の敵前逃亡者という不名誉極まりないレッテルを引き剥がすことが出来る。 これは全て兄ちゃんのおかげなんだよ』
グレイスがそう言い切った瞬間に作業が終わったのか、カルマとグレイスを繋いでいたグロウチウムケーブルの連結が解除されて数秒後、カルマの意識は久しぶりに地上へと帰還した。
だが、自分が知らぬ間にあられもない姿を晒されるという恥辱はたとえ機械であっても許し難いのか、カルマは起動して即液状化し壁の中に溶け込むと、ムスッと露骨に不機嫌な表情を見せ付けながら何処かへ姿を消していく。
目覚めの挨拶も直して貰ったお礼も言わず、何処かへ行ったカルマの塩対応が可笑しくて堪らなかったのか、グレイスは真っ白で健康的な歯を見せ付けて本物の子供のように笑うと、今度は自分の番だとばかりに胸を張った。
『だから手伝ってあげるよ、あのみっともないルサンチマンのクズをこの列島から蹴り出すのをね。 今なら出来るんだ、あの旧世代の闇そのものが虚空に消え去った今なら。 ……いや、正しくは今しかないんだから』
思ってもいなかった申し出に戸惑って目を丸くする雪兎の心中も気にせず、グレイスはただ自分を信じろとばかりに雪兎の手を小さな小麦色の両手で包むように握る。
そうして一言報わせてくれと囁くと、雪兎はグレイスの厚意を信じて黙って頷いた。