病室の中で一人、ぐっすりと雪兎が眠っている。
柔らかく清潔な布団と毛布の合間に包まれ、先日までの地獄などまるで無かったかのように幸せそうな表情をし、暖かな闇の中で昏々と眠り続けている。
哀華と再会して先送りにしていた感情を発散したのも束の間、今度は先送りにしていた疲れがどっと身体の底から吹き出したせいか、雪兎の意識はその直後に途切れ、徹底した洗浄や薬品投与といった措置をされた後、そのまま病室に叩き込まれる羽目に陥っていた。
誰も動く者がいなくなった部屋の中で唯一、外から入り込んだ風を浴びて微かに揺れるレースカーテン。
そこから漏れた光が真っ白い床を這うと、薄暗かった病室内がパッと映える。
まるで雪兎がやり遂げた仕事を讃えるかのように、それらの光を受けた椅子やベッド等の家具が淡い光沢を帯びて瞬く。
そんな折り、病室の外から微かに床を踏みしめる音が聞こえてくる。
抜き足差し足ゆっくりと、ただ静かにしなければならない環境だからという理由にしては、あまりに慎重すぎて逆に怪しすぎる挙動。
それは、深い眠りに就いていた雪兎を咄嗟に跳ね起きさせるには十分過ぎる不審さであった。
名残惜しい眠気をたちまちに振り払い、雪兎はベッドの側に備えられていた対獣PDWを構える。
別にその場から一切動けない訳ではないが、殴った相手が物理的に爆散してしまう程の力を得てしまった現在の雪兎にとって、皮肉にも発砲という行為こそが、相手の命を最も考慮したてかげんであった。
だが、安全装置を外してトリガーに指をかけた瞬間、病室の扉が無遠慮に蹴飛ばされ、さっさと殺気を収めるよう先方からクレームが入る。
「おいコラこんなトコで物騒なモン構えるんじゃねえ、鬱陶しくガチンガチン言わせやがって。 壁から医療機器まで問答無用に吹っ飛ばしてまた無駄な借金でも抱えたいのか」
今までほぼ無音だった廊下に響き渡る馳夫の苦言。
それに応えるように雪兎がドアのロックを外してやると、馳夫はうんざりしたような表情で病室内に入り込み、見舞い品として持ってきた大きな菓子袋をそのまま雪兎に向かって乱雑に投げ渡した。
「ほら、地獄からの生還祝いだ。 他の食えなくなった連中の分までたんと食っとけ」
「へへっ、サンキュー。 ここ最近は菓子なんて食ってる暇なかったからな」
手元に飛んできた大きなビニール袋を嬉しげに漁りつつ、年相応の朗らかな笑みを浮かべて礼を言う雪兎。
そして袋の中から引っ張り出した大きなチョコバーをさっそく開封すると、遠慮無くそのまま齧り付き始める。
そこには幾つもの死線を越えた恐るべき生体兵器としての姿は欠片すら感じさせず、ただ普通の青年が暢気に好物を貪る呆れるほど平和な光景があるだけだった。
「おいおいもう少し落ち着いて食えよ汚ぇな、ガキかよお前は」
「甘いものや脂っこいものを求めるのは動物の本能だよ馳夫君」
チョコの匂いと甘さに酔わされたように上機嫌に鼻歌を歌いながら、雪兎は銃を置いてあった場所に戻すと、そのままリモコンに触れてリクライニングを動かし、楽な姿勢を取りながらの応対の準備を整える。
「まぁお互い死ぬような思いをしてようやく戻ってきたんだ。 しばらくのんびりしてもバチは当たらないさ。 もし文句をつけにくる奴がいたらそいつに僕らと同じ分量の仕事を押し付けてやろう」
チョコバーを包んでいたビニールを丸めてゴミ箱に投げ込み、口の周りの汚れをしっかりと拭いながら雪兎は笑う。
だが、馳夫の調子がどこかよそよそしいことに気が付くと、浮かべていた笑みを即座に消して問うた。
「どうしたんだ? お前に何があったかは知らないけど、生きて還って来られたことに変わりは無いだろう?」
「いいや、残念な話だがそういう訳にはいかないのさ。 ババァと嬢ちゃんに俺が死んだと聞いていたらしいが、その言葉に偽りはないんだよ」
「……何を言ってるんだ? お前は今ここで人として生きているじゃないか!」
馳夫の言っていることが理解できず、雪兎は先ほどまでの気分を投げ捨てて語気を荒げて突っかかる。
だったらここにいるお前は何なんだと、牙を剥き出しにして正面から馳夫のツラを睨み付けて。
しかし、それにも馳夫はただ力無く首を横に振って応えるばかりだった。
「正直な話、俺は今の自分という存在自体を信じられない。 否、許容出来ない。 輪廻転生とやらが本当あるのかは知らないが、少なくとも死んだ人間は生き返らない。 どれだけ会いたいと願っても、何を生け贄に捧げてもそれが叶うことは決してないのが道理だ」
雪兎の顔から自らの掌、そして懐に隠していたナイフへと視線をゆっくりと移す馳夫。
やがて彼は何を思ったのか、突然ナイフの柄を握ると己の首筋を全力で掻き切った。
「なっ……何をやって……!!!」
馳夫が何の躊躇も無く自殺を敢行したことにショックを受け、雪兎は思わずナイフを引き剥がそうと膝立ちになるが、
その傷口から勢いよく迸ったものを見て絶句し、そのままベッドの上にへたり込む。
「馳夫……、何だよその血の色は……」
雪兎の目の前で吹き出したのは、水と油のように綺麗に分かれた二色の血液。
この星で地道に進化してきた生き物が等しく流す赤い血と、この星に住まう全ての生物の敵たる害獣の緑の血が、綺麗に清掃されていた白い壁にペンキのような汚い染みを浮かした。
「聞いたはずだ、俺の身体は肉片一つ残らず滅されたはずだと。 つまりここにいる俺はただの九頭馳夫じゃないんだよ」
「嘘だ……そんなこと……」
傍観者にすらなれなかった立場にも関わらず、まるで自分のことの様に打ちひしがれがっくりと項垂れる雪兎を、当事者である馳夫は呆れ半分感謝半分の複雑な心境で眺めながら、静かに言葉を続ける。
「あの時、首領に沖縄に潜んでいた賊共の謀反を知らせた後、俺が潜んでいた海域に大量のプラズマ爆雷が撃ち込まれ、俺自身の肉体を構成していた物質は残らず消滅した。 だが、俺の意識や記憶を封入した電気信号は神経接続を通じて、大破したスキュリウスに残存していた人工神経系へ勝手に転移し、結果的に俺という存在の完全なる消滅を防いでくれたのさ。 自分で言って難だが、まさしく奇跡としかいいようがなかった」
自ら切断した傷口を再び接合し、激しく吹き出していた血を抑え込みながら、馳夫は今一度自分という存在を確かめるようにじっと手を見る。
その大きな手は馳夫の身体に害獣と似た血が通うようになっても何ら変わること無く、馳夫がただの人だった頃と同じ形状や色彩を保ち続けていた。
「最も、意識が残ったとはいえ、そのまま放置されていればいずれ消滅することに変わりは無い。 そんな窮地に陥った俺を気まぐれで拾い上げたのが、魚介類嫌いの偏屈者が嘯いた与太話に出て来る化け物そっくりの神話級害獣だった」
「……神話級害獣だって? ちょっと待ってくれよ、アイツらが僕たちを生かして返す訳がない。 それはお前だってよく分かっているはずだろ?」
「そうだそのはずだ。 だがそいつはこの世に居続ける為の肉体と、勝手に成長したスキュリウスの制御権をわざわざ押し付けて解き放ちやがった。 いやぁ本当に都合が良すぎてババ引いた連中が馬鹿みたいな話だよ」
終始訝しむ雪兎の指摘にも、馳夫は全くその通りだとばかりに頷いて肯定し、己が経験した出来事がどれほど異常なのか強調して自らを蔑むように暫し豪快に笑うと、そのまま沈痛な面持ちで俯く。
「……正直な話、俺はこんな身体を今すぐにでも処分するべきだと思っている。 絶滅戦争を仕掛け合う仇敵相手に何の目論見も無く情けなんぞ掛けるはずがないし、そもそも今の俺の意識が以前の俺と完全同一であることを裏付ける証拠もない。 そんなものを人類の拠点深くに置いておくなんざ利敵行為以上の何物でもない」
淡々と、ただ合理的な思考から紡いだ懸念を一方的に雪兎に叩き付ける馳夫。
それらの行動から、雪兎は馳夫が尋ねてきた理由を察し思わず牙を剥き出しにする。
殺意や敵意では無く、ただ納得出来ない。
それだけの理由で雪兎は馳夫を睨み上げた。
「だから、僕にお前を殺せというのか」
「そうだ、何故ならそうするべきだからだ。 第一俺は既に死んだ人間だ。 立場も財産も権力も1生命体としての能力も何もかも恵んで貰っておいてたった一人だけ生き返るなんざ、こんな理不尽なことがあってはいけない。 だから、お前は今ここで俺を殺すんだ」
雪兎の半ば脅しのような詰問にも、馳夫は何ら堪えることなく持論を押し通そうとする。
組織の為、共同体の為、種の未来の為。 理路整然と有無を言わさず、馳夫はただ雪兎が根負けして己の身を引き裂く瞬間をただ待つ。
だが、どこまで馳夫が根拠や道理を示そうとも、雪兎の答えは揺らぐことはなかった。
「いやだね」
「雪兎! 俺は真面目に言っているんだぞ!」
「だったら尚のことだ。 僕からしてみても今のお前は以前と全く変わらないし、お前程度の存在が認められないというのなら、僕の存在は最早禁忌だ。 僕は僕自身の存在を否定しない為にも、絶対にお前を殺す訳にはいかない」
雪兎がそう言い切った瞬間、その両腕両脚が鋼色の甲殻に覆い尽くされ、雪兎自身が馳夫以上の異常な存在であることを否応が無く知らしめる。
「……っ」
「誰がどうだの、何をどうすれば良かっただの、結局その時にならなければ誰にも分からないんだ。 現に僕は、こんな身体になってしまっても真継雪兎という人間で有り続けているという事実は揺るがない。 だから、無理して急ぎすぎる必要なんて無いんだ」
まるで生乾きの紙粘土のように剥がれ落ちていく雪兎の手足の肉や皮を見て、今まで真顔だった馳夫の顔に迷いの色が出たのを見逃さず、雪兎はただ頭を下げて頼み込む。
「もしお前の言うとおりであったのなら迷わず僕が責任をもってその首を刎ねてやる。 でも、今はただ黙って堪えてくれ。 もう後悔なんてしたくないんだよ」
雪兎の脳裏に去来するのは、自分の目の前でグズグズの肉塊となり死んでいったヴィマラの末路。
あの時のような惨めな思いはもう二度とごめんだと、雪兎は必死になって頭をベッドに擦り付けて願った。
まだ生きていてくれと。
その願いが全て通じたのかは分からないが、馳夫は黙ってドアに手を掛けると後ろ目で雪兎を睨みながら告げる。
「その言葉違えるなよ。 この判断で大勢死なせる羽目になったらお前が死ぬまで祟ってやるからな」
「……あぁ、約束するよ。 万一その時が来たら必ず、誰かが殺される前に殺してやる」
恫喝にも近い語気で言い捨てる馳夫に対し、雪兎はただ笑って応える。
また、自分の手で身内を殺す羽目に遭わされないことをただ願って。