聖都ノルグは、北方地区の中心都市だと聞いていた。だけど、馬車の窓から見える街並みは"中心"と呼ぶには素朴すぎて、言葉を選ばず言えば貧相だった。
舗装もされていない地道の上を、ガタガタと揺れながらゆっくり進んでいく。
通りに面した家々は低く、くすんだ灰色の壁と藁葺きの屋根が目立つ。漆喰の剥がれたままの教会、割れた窓ガラスを木切れで塞いでいる商店。
通り過ぎる露店には干した野菜やわずかな毛織物が並んでいて、その隣では子どもが寒さに頬を赤くしながら、焚き火に手をかざしている。
道を歩く人々の顔には疲れが滲んでいた。
どこを見ても、豊かだった聖都ルミナスとは正反対の風景だ。
「……なんだか、寂しい街だね」
思わずつぶやくと、正面に座るティアリナがゆっくりとまぶたを伏せる。
「そうね。ルミナスが終わらない春の街だとするなら、ノルグは終わらない冬の街」
少しの沈黙が流れる。あたしは冷えてきた手をこすり合わせた。そしてもう一度、窓の外に視線を向ける。
「冬の街、か。確かに、ルミナスよりずいぶん寒い。歩いてる人の服も、あたしが持ってきたのより、ずっと厚い……」
「大丈夫よ、修道院では寒冷地用のシスター服が支給されるわ。私服が必要になったら、買いに出ましょう。ノルグは毛織物業が盛んだから、ルミナスには売っていない、温かくて可愛い服がいっぱいあるの」
ティアリナは明るく微笑む。
「あとは、そうね……羊の乳から作るチーズが名産なのよ。長期保存できて栄養価も高いから、貧しい人たちにとっては貴重な食料なの」
「へえ……チーズかぁ」
「修道院での食事にも自家製のチーズがよく出るわ。あなたはもしかしたら、チーズ作りを手伝うことにもなるかもね」
「それはちょっと、楽しみかな」
「それならよかったわ」
目的地であるクリスタ修道院は、街をさらに北上した丘の上にあるという。寒さもきっと、街より厳しいのだろう。
シスターでないあたしには、きつい雑用が与えられるのかもしれない。だとしても、あたしは自分の意思でここまで来たのだから、何だって明るく楽しくこなす気概でいる。
いつかの夜を思い出した。セラディスに、ノルグへ行きたいと打ち明けた夕食の席。
『私は反対です』
カトラリーを置いたセラディスは、俯いたまま言った。
『どうして?』
『聖都ノルグは寒さの厳しい場所です。それに……貧しい人が多く、治安もルミナスほど良くはありません』
『でも、ティアリナが一緒だし、あたしが行くのは修道院だよ?』
ノルグの街を遊び歩くわけではないのだ。
セラディスはゆるゆると顔を上げ、戸惑うような目であたしを見た。
『そこがよくわかりません。どうして修道院に? シスターになりたいわけではないのでしょう?』
『それは、そうだけど……あたしはセラディスの妻として――』
『私はあなたに、アレオン教徒になってほしいとは思っていません』
『え?』
『私がアレオン教徒だからといって、あなたにまでアレオン教徒になることを強要したいわけではないのです。二十五歳になるまでという教義は、私自身が守らねばならないため一緒に守ってもらっていますが……それ以外は、あなたの好きにしていいのです。食前や就寝前の祈りだって……私はあなたに強いたくなくて、あなたの前では心の中で行うにとどめていたのに……』
そうだったのか、とあたしは軽く衝撃を受けた。
あたしはずっと、セラディスに遠慮させていたんだ。
『ありがとう、セラディス。あたしのことを想ってくれて』
そう返事をしながら心の中では、感謝とは違う罪悪感めいたものがじゅくじゅくと膿を育てていた。
『でもね、あたし……あなたのことを愛してるから、あなたが大切にしているものを知りたいんだ。これは強いられているわけじゃない、あたしの意思だよ』
『知るだけなら私が教えます。そうすれば、ルミナスでだって――』
『それじゃ駄目なの。わかってよ。あたし、あなたに守られるだけの女でいたくないの』
セラディスは、傷ついたような顔で目を伏せた。そして長く黙ったあと、小さく息を吐き出して言った。
『どうしても行くというなら、好きにしてください。けれど、修道院での修行というのは、生半可な気持ちでは成し遂げられませんよ』
『わかってる。中途半端な思いじゃないよ。弱音は吐かない。ふざけたりもしない』
『……寂しいですが、あなたの帰りを待っています』
彼は最後まで、あたしの
あの時、あたしを見つめた深く青い瞳が脳裏を離れない。
馬車が停まった。空がずっと曇っているせいでわかりにくいが、日没の時間が間近だった。
ティアリナが先に降り、あたしも続く。外に出た瞬間、びゅうっと冷たい風に頬を打たれて、思わず身を竦める。
「ううっ、さぶっ」
ルミナスにあった一番厚いコートを着てきたのに、ノルグの冷風はその生地を容赦なく貫通した。
隣のティアリナは、ノルグでの修行時代に買ったという寒冷地用のコートに身を包んでいるけれど、それでもなお、寒そうだ。
肩を震わせながら修道院の建物を見上げる。淡い土色の石が積み上がってできた外壁。中央には鐘塔が、空に向かってすっくと伸びている。両脇にはそれよりもやや低めの塔が並び、入り口のアーチ型の観音扉の上には太陽の紋章がはめ込まれていた。
紋章以外に装飾らしい装飾はなく、ひたすらに真面目で質素な佇まいだ。けれども貧相ではなく、毅然とした雰囲気を感じる。
今日は帝国中からシスターが集まってくる日だからなのか、修道院の入り口は解放されていた。
その奥に続く中庭から、ひとりのシスターが駆けてくる。
「シスター・ティアリナ!」
聖都アウレリアの司祭館で出会ったノアだった。黒髪の三つ編みが揺れて、眼鏡の奥の黒い瞳がきらきらと輝く。
「お久しぶりです、ノアです。長旅、お疲れさまでした」
「ノア、ずいぶん髪が伸びたわね」
「ふふ。シスター・ティアリナにもうじき追いつきます」
ノアの視線が、ティアリナの隣に並ぶあたしに向けられる。
「マナシアさん、いらっしゃると聞いて驚きました。アウレリアぶりですね」
「うん。よろしくね、ノア」
憧れのティアリナを前にしているからなのか、ノアの表情はアウレリアで見た五割増しに明るい。
「他の街からいらっしゃる皆さまのお部屋は、ノルグのシスターたちで用意しました。お二人の部屋へご案内します」
広い修道院の中を歩いて連れて行かれたのは、東棟二階の一室だった。ノアが鍵を開けて木の扉を押すと、金属の蝶番がキィと音を立てる。
簡素だが、清潔感のある部屋だ。扉の正面の壁には窓がひとつ。奥には、左右対称に二台の木のベッドが並ぶ。ベッドの手前には、背中合わせに置かれた二組の机と椅子。さらにその手前に、小さな衣装棚。
扉を入って右側にはテーブルがあり、白い陶器の洗面器と水差しが置かれている。その上の壁には鏡が掛けてある。
「今夜の夕食は各自の部屋で、となっていますので、のちほど軽食をお持ちしますね。東棟の皆さまの入浴時間は、午後五時半から午後六時です」
入浴時間、短いな……。
「お二人とも今夜は、ゆっくり休まれてください。マナシアさんのお仕事は、明日私がご説明しますね」
「うん、ありがとう」
「それでは」
ノアはお辞儀をすると、すぐに去っていった。ノルグ在住のシスターということで、今日はホスト役として忙しいのだろう。
旅行鞄を置き、ベッドに腰を下ろしてひと息つく。文句を言うわけではなくただの感想だが、ルミナスの司祭館のベッドより座り心地はずいぶん硬かった。
「ねえ、ティアリナ。明日って、何時に起きればいいの?」
「そうね……四時かしら」
「よ、四時……!?」
あまりの早さに、声が裏返る。
ティアリナは小さく肩を揺らして笑った。