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第20話 宛城の戦い

 張繡は、叔父の張済の軍を引き継いで、荊州南陽郡を切り取った。宛城を本拠地として、生き延びようとしている。

 北に曹操、南に劉表がいて、自らは弱小である。所持する兵力は五千程度。

 これからいかにすべきか考えて、賈詡に相談したいと思った。


 張繡も賈詡も、涼州武威郡の出身である。

 董卓政権下の洛陽と長安で、ふたりは何度か顔を合わせていた。


 賈詡は董卓の死後、李傕に作戦を授けて、呂布を追い出し、長安を奪回させた。

 その後、長安で李傕や郭汜らの権力争いの仲裁をして、秩序の維持に努めた。

 賈詡は李傕の謀臣ではなく、後漢の官僚であるという立場で中立を保った。献帝の脱出後、行き場を失っている。

 張繡は、賈詡に南陽郡へ来ないかと誘った。ちょうどよいタイミングで、誘いに乗った。


「私はどうすべきだろうか」

「張繡様はなにをしたいのですか」

「私は勢力を維持したまま、生き延びたい」

「曹操は危険な拡張主義者で、劉表は現状維持を望んでいます。取り急ぎ劉表と同盟を結んでおくのがよいでしょう」

 賈詡の進言に従って、張繡は劉表と同盟を締結した。


 曹操も次の一手を悩んでいた。

 勢いがあって不気味な孫策。狂犬のような呂布。最大の敵、袁紹。

 彼らに打ち勝たなくてはならないが、足元に忽然と湧いた勢力がある。許都のある潁川郡の西隣、南陽郡の張繡。

「まずはこれを討とう」

 曹操は目下の方針を決めた。

 それほど大きな軍勢は必要ない。指揮しやすい三万ほどでよい。

 自ら率い、いつものとおり典韋を連れていくことにした。長男の曹昂と甥の曹安民を育成するため、ふたりにも兵の指揮をさせた。

 197年春、曹操は宛県に進出し、陣を敷いた。


 張繡はまた賈詡と相談した。

「曹操と戦うしかないのか」

「彼は強大で、戦っても敗れるだけです。降伏し、力を温存すべきです」

 張繡は愚かではない。賈詡の現状分析は正しい。すみやかに降伏した。


 曹操は宛県を占領した。

 ここにひとりの美女がいた。張済の未亡人、鄒氏である。彼女は夫の死後、張繡に庇護されていた。

 三十歳を超えていたが、童顔で、少女にしか見えない。そのくせとびきり肉感的であった。

 曹操は鄒氏を見かけて、その美貌の虜になった。彼は宛城に滞在し、彼女の肉体に溺れた。


 張繡は不愉快であった。

 早く曹操に帰ってもらいたいが、美女と戯れ、宛城に居座られている。

 賈詡が進言した。

「独立の意志があるなら、すぐに動いて、曹操の息の根を止めなさい」

 張繡にも曹操の隙が見える。千載一遇の機会が、いま目の前に転がっている。

「やってやる」


 城内には曹操の兵と張繡の兵が混在している。

 曹操が鄒氏とふたりきりになる夜が絶好のチャンスである。

 張繡は夜襲をかけることにした。配下の部隊に命令し、いっせいに曹操軍を襲わせた。


 張繡は自ら曹操の首を斬る覚悟だった。

 精鋭を率いて、曹操の居室へ向かう。

 だが、そこは典韋と親衛隊が守っていた。

 たちまち激戦になった。


「父上、敵襲です」

 寝所へ知らせに来たのは、曹昂だった。

 すでに異変に気づいて、曹操と鄒氏は衣服を着ている。

「昂、敵は張繡か」

「奇襲されました。劣勢です。父上は逃げてください」 

 曹昂は退路を切り開き、曹操を護衛しながら、城門までいざなった。

「私の馬を使ってください。まっしぐらに、東へ」

「鄒を……」

 曹操はよほど未練があったのだろう。

「女性を連れて逃げ延びることはできません」

 曹昂はきっぱりと言った。曹操は単騎で夜道を駆け出した。曹昂は味方を立て直すため、城内に戻った。


 典韋が敵を引きつけている。

 彼は両手で二本の戟を扱い、死体の山をつくった。

「やつを殺せ。しとめた者には、大金をやるぞ」

 張繡が声を張りあげるが、皆、典韋を怖れ、近づく者はいなかった。

「弓兵、大男を狙え」

 典韋は矢の雨を受けて、針鼠のようになり、立ったまま絶命した。

 張繡の兵はじりじりと近づき、彼が息をしていないか確かめたという。


 張繡は気味悪そうに典韋の死体の横を通り、奥にいたはずの曹操を捜した。寝室はすでに無人であった。

「兵を分ける。騎兵は東へ行き、曹操を追え。歩兵は城内の掃討をせよ。曹操軍はひとりも生かしておくな」


 賈詡は典韋の戦いの一部始終を見ていた。

「見事な侍がいたものだ。曹操は命拾いしたな」

 曹操をしとめそこなったと見て、次の策を考えている。和睦の道を検討。

 心証をよくするために、典韋を丁重に弔っておこう……。


 宛城の内外で、翌朝まで乱戦がつづいた。

 曹昂と曹安民は戦死した。鄒氏は行方不明になった。


 曹操は夜中に于禁率いる騎兵隊と出会い、彼らとともに許都へ帰還した。

 息子と甥、典韋は帰ってこない。

 宛で埋葬され、塚が築かれたという噂が流れてきた。


 丁夫人は泣いた。

 曹昂の生母はすでに亡くなっている劉夫人だが、丁夫人が実の息子のように大切に育てた。

 曹操がなぐさめても、彼女の悲しみはやまなかった。実家へ帰って、二度と戻ってこなかった。

 丁夫人は、曹操と鄒氏の不倫とその隙を突かれて夜襲されたことを漏れ聞いていた。どうしても曹操を許すことができなかったのである。


 痛い敗北を喫し、愛する息子、期待していた甥、怪力無双の忠臣を一度に喪い、愛人と別離したが、曹操には嘆きや愚痴を言える相手がいない。深く傷ついた心は、容易には癒えなかった。

 典韋の後任の親衛隊長に許褚を選び、彼に部屋の出入口を守らせながら、ひとり強い酒を飲んだ。 

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