視点を徐州へ転じよう。
194年、徐州の主は劉備である。彼と彼の家臣団について記しておこう。
劉備玄徳、34歳。
陶謙の遺言で、徐州牧となった好運な男。しかし、火事場に頭を突っ込んでしまったとも言える。
後に皇帝になるのが不思議なほど、能力が低く見える人である。剣の腕はからっきし。言葉足らずで、なにを考えているのかわからない。唯一の魅力は笑顔であろうか。不思議と愛嬌があり、しばらく一緒にいると、なぜかその魅力の虜になってしまうという特殊能力を有している。任侠組織劉備組の親分。
関羽雲長、年齢不詳。劉備より二、三年下と思われる。
暴力的な正義漢で、悪徳商人を殺して、故郷にいられなくなった。劉備組の腕っぷし担当。ついでに参謀役。
関羽が頭を使わねばならないのが、劉備組の弱点だが、親分はそれに気づいていない。当の関羽も自分の頭脳が明晰だと勘ちがいしており、救いがない。この点は、劉備が諸葛亮を得るまで解決されなかった。忠義心は人並みはずれて高い。一騎当千の豪傑。
張飛益徳、年齢不詳。関羽よりさらに年下。
関羽と並ぶ腕っぷし担当。コミュ症で照れ屋。明るい酒乱。酔うと急に口が回り出す。
意外と頭がよいのだが、あまり活用されることがない。劉備と関羽が大好きすぎて、実家を飛び出してしまった。忠誠心は規格外のレベル。劉備と関羽のためなら、命も捨てる。そんな覚悟ができている。一騎当千。関羽より強いかもしれない。
糜竺子仲、年齢不詳。劉備より年上。
徐州の億万長者、豪商。曹操と陶謙が戦っていたとき、徐州の救援に来た劉備と付き合い始めた。謎の魅力に惹かれて、「この人はなんだか大きいな……」と思うようになる。それが運の尽き。家財を傾け、弟の糜芳、妹の糜夫人とともに劉備の流浪についていくことになった。劉備組の財布担当。
孫乾公祐、年齢不詳。関羽と同い年くらいだろうか。
陶謙の推挙があって、劉備に仕えるようになった。度胸があり、口が回る。不思議と劉備の気持ちがわかるらしい。口下手な主にかわって、曹操、袁紹、劉表らと交渉し、居場所を確保した。外交担当。
簡雍憲和、年齢不詳。劉備と同い年くらいと思われる。
劉備と同郷。その大らかな性格が、多くの人に愛された。人の懐に飛び込んで、まずは親しくなるという独特の外交術を持っている。酒好き。にぎやかし担当。
さて、徐州牧になった劉備だが、彼に行政の才能はない。下邳城で一日中ぼんやりとしていた。
「兗州で曹操と呂布が争っているな……」
「兄者、うちも兵を増やしましょう」
「そうだなあ、適当にやっておいておくれ、関羽さん」
劉備には確たる方針がない。徐州の維持すら関心がないように見える。茫洋として、なんともわかりにくい親分である。
「張飛ちゃん、酒でも飲もう」
「酒! 昼間から飲んでいいの?」
「おれはもう飲んでいるぜ」
簡雍は行儀が悪い。床に横たわって、杯を干している。
麋竺、糜芳、孫乾もやってきて、酒盛りになった。いつもそんな感じの主従なのだ。
呂布が曹操に負け、劉備を頼って落ち延びてきた。
敗軍と言えども、軍師陳宮、良将の高順、張遼を従え、呂布の瞳は爛々と光っている。
すげえやつらが来やがったな、と劉備は思ったが、にこにこと笑顔で迎えた。
関羽と張飛は、呂布を睨みつけている。
劉備は小沛の守備を呂布に任せた。
徐州を取られるかもな、という予感があったが、口には出さない。
曹操に狙われているこんな州はくれてやってもいい、と思っている。
劉備の器は、同時代の誰よりも大きいのかもしれないが、はっきりとはわからない……。
195年、袁術が南から徐州に侵攻してきた。劉備は留守を張飛に任せて出陣した。
袁術軍と劉備軍の戦力は均衡しており、戦っても決着がつかず、対陣がつづいた。
袁術は外交で打開しようとし、呂布に兵糧二十万石を与えるかわりに、劉備を裏切るよう交渉した。
裏切りは呂布の得意技である。下邳を攻め、張飛を追い払い、糜夫人を捕らえた。
劉備は徐州に戻ってきて、呂布に頭を下げた。
「州牧の地位はお譲りする。妻を返してほしい」
「よいだろう。今度はあなたに小沛を守ってもらおう」
劉備主従は小沛城に入った。
劉備は徐州を治める重圧から解放され、悠々としていたが、張飛は怒り心頭だった。
「関羽兄貴、呂布に復讐を!」
「おう!」
関羽と張飛が徴兵を始めた。
これが呂布の気に障った。奇襲されて、劉備軍は四散してしまった。
劉備は曹操を頼ることにし、許都へ逃げた。198年のことである。
「わが主に領土的野心はないのです。ただ主従揃って安住の地を得たいのみ」と言ったのは、孫乾である。
劉備は後ろでにこにこしている。
「許でのんびり過ごされるとよい」
曹操にそう言われ、劉備は黙って頭を下げた。低頭するのにためらいはない。何度下げてもただである。
首都で、劉備は献帝に拝謁する機会を得た。
「流浪の身で、恥ずかしいばかりです」
「いや、そなたにはなんとなく気品を感じる……」
献帝が系譜を調べさせたところ、劉備は叔父に当たることがわかった。劉皇叔と呼ばれるようになった。
198年の春に、曹操は張繡を攻撃している。秋には、呂布を攻めることにした。
荀攸と郭嘉、曹仁、夏侯惇、許褚を連れ、劉備軍も従えて、徐州へ進軍。
今度は大虐殺を行わず、呂布の本拠地へ向かって直進し、下邳城を包囲した。
「守備は私に任せてください。殿は打って出て、到着したばかりの曹操軍に痛撃を加えてください」と陳宮は提案した。
呂布はいったんその作戦を了承したが、魏続や宋憲から、「陳宮は城を乗っ取る気です」と言われて不安になり、実施しなかった。
陳宮の策を使わず、高順や張遼よりも能力の劣る魏続らの言葉に耳を傾け、守勢に回った呂布は脆かった。
曹操軍の連日に渡る総攻撃を受けて、弱気になった。
「曹操には勝てない。彼の配下になって生き延びよう」
呂布は降伏した。
「おれを使ってくれ、曹操殿。役に立つぞ。袁紹と戦うときには、先鋒に立とう」
曹操は呂布を手下にしたいという誘惑にかられた。
このとき、無口な劉備が珍しく口を出した。
「司空も、丁原や董卓と同じ道を歩もうとするのですか」
「黙れ、でか耳野郎!」
呂布が吠えた。劉備の耳は人並みはずれて大きい。耳たぶが首の中ほどまで垂れ下がっている。
「やつの裏切りの歴史に終止符を! 殺せ」
曹操が決断し、呂布は絞首刑に処された。
呂布は三国志随一の武将であるとの評価もあるが、その一生を眺めると、彼の強さは個人的な武力であり、指揮官としての能力はさほどではないように見える。会戦で、鮮やかな勝利を得ていない。
陳宮、高順は死を望んで呂布に殉じ、張遼は曹操に仕えることになった。