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第34話 南征戦略  

 残る敵は、荊州の劉表、揚州の孫権、益州の劉璋、張魯、涼州の馬騰、韓遂、交州の士燮。

 連合軍を組まれるとやっかいだが、単独で八州に対抗できるような勢力は残存していない。

 新野の劉備は、虫のようなものである。


 曹操の次の狙いは荊州、揚州。

 北馬南船という言葉がある。中国の交通手段を端的に言い表したもので、北は陸路で馬、南は水路で船ということである。

 南征すれば当然、水戦が起こる。


 曹操は玄武池をつくり、水軍の訓練をした。

 この池は鄴城内の玄武苑にあったが、現在は干上がってしまっている。

 城内の池では、操船訓練程度しかできなかったであろう。

 南の大河での戦闘を想定した訓練であれば、黄河で行うべきだが、記録は残っていない。


 運命の赤壁の戦い……。

 孫権軍側の記録は多いが、曹操軍側のものは驚くほど少ない。

 参戦した参謀、武将が誰かすらわからない。

 負けた戦いの記録を、魏は残したくなかったのであろう。

 曹操から見た赤壁を描きたければ、推測するしかない。


 曹操の水戦戦略は単純で、軍船の数で圧倒するというものだった。

 脳裡には、大河を埋め尽くす味方の船があり、少数の怯える敵船がある。

 戦術としては稚拙だが、戦略としてはまちがっていない。大軍に兵法なしと言われる。多対少の戦いに持ち込めれば、戦術など必要ないのである。

 だが、その作戦を成立させるには、大軍で南征しなければならない。


 水軍八十万と号した。

 実際はそこまで多かったはずはない。

 大軍が遠征するだけで、厖大な戦費が必要になる。

 新規に大量の軍船を用意するとなれば、費用はさらにかさむ。

 八十万人分の食糧を遠隔地へ輸送し、長期間食わせつづけるのは不可能。

 華北の大戦の傷はまだ癒えておらず、民は疲弊し、人口は減少している。五十万でも相当にむずかしい。

 実数は……?


 曹操は少数精鋭主義であった。

 有効に指揮できるのは五万が限界だと思っている。

 だが八州を得て、天下統一が視野に入り、戦略を変えたのであろう。

 圧倒的大軍を南へ連れていき、十倍以上の軍事力を見せつけて、荊州、揚州を降伏させる。

 戦わずして勝つ。

 曹操はそんな方針と希望的観測を抱いていた。

 実際、張昭などの揚州の重臣たちは、降伏を主張し、孫権を悩ませた。主戦派は魯粛と周瑜だけだったのである。

 曹操なら、調略の手を伸ばすくらいのことは、絶対にやっていたにちがいない。

 こちらは皇帝の軍である。従えば、悪いようにはしない。命も地位も保証する……。

 劉表も孫権も降伏するという見通しがあったとしても、おかしくはない。


 なにはともあれ、南征は大事業である。

 曹操は重臣たちと会議をくり返した。

 荀彧、荀攸、程昱、賈詡の四人の参謀とは、特に入念に打ち合わせた。


「丞相、せめて一年、先延ばしにできませんか。戦争が終わったばかりで、軍も民も疲れ切っています」と荀彧は言った。

「天下平定は私の悲願である。一日でも早く、平穏な世をつくりたい」

「では兵力は十五万で」

「少ない。八十万の動員はできんのか。八州から集めるのだぞ」

「領地に負荷をかけすぎると、必ず反乱が起こります。予算もありません」

「なんとかせよ」

「では三十万ではいかがでしょうか」

「五十万」

「く……三十五万で……」

「五十万と言っておろう。駆け引きをするつもりはないぞ、荀彧」

「無理です。絶対に予算と兵糧が足りなくなります」

「袁家の宝を売れ」

 袁氏との死闘に勝利し、鄴城の倉庫には財宝が積みあがっている。

「わかりました」

「よし。動員、戦費、兵站は荀彧が担当せよ」

「承知しました」

 荀彧は厖大な予算額と事務量、民衆の負担を想って、心中暗澹となった。

 曹操は五十万の圧力で敵を降伏させ、天下統一を果たせるなら安いものだと思っている。


「目標は荊州ですね」

 そう言ったのは、荀攸だった。

「荊州?」

「はい」

「劉表は敵ではなかろう。相手になるとすれば、孫権だ」

「揚州ですか……」

「両方だ。荊州を占領し、そのまま揚州を攻める」

「まずは荊州軍を降伏させ、その地を慰撫することが肝要です。荊州には劉備もいます。甘く見てはなりません」

「劉備?」

「もし劉表が軍の指揮を彼に任せたら、容易ならぬことになるでしょう」

 曹操は劉備の顔を思い浮かべた。

 あやつが五万ほども兵を持ったら、どんな戦いをするだろうか。顔良を討ち取った関羽もいる……。

 しかし、劉備はいつも逃げ腰だ。負けるはずはない。

「では荀攸、荊州戦を担当し、戦勝後、占領政策を実施せよ。そなたは揚州まで行かなくてもよい」

「お任せください」

 荀攸は幾分か気が楽になった。長江を越えて、揚州を攻略するのはかなりの難題だと思っている。それを考えなくて済むのはありがたかった。

「占領後、荊州統治軍の食糧は、現地調達してください」と荀彧が冷ややかに言った。

 荀攸は、もっともだと思いながらも、気鬱になった。

 やはり楽な仕事ではない。


「船はどれほど用意するおつもりですか」と程昱がたずねた。

「大量にだ」

「長江での戦をお考えでしょうか?」

「あたりまえだ。孫権は長江を防衛線とするであろう。水軍戦術の優越しか、彼には有利な点がない」

 曹操は孫権を降伏させるつもりだった。そのためには、勝てる状態をつくらねばならない。多くの船を揃えるのは、当然のこと。万が一戦闘になったら、叩きつぶす。

「船の生産に時間がかかります」

 程昱は額に汗を浮かべていた。荊州、揚州征服は長期間かけて行うべきだと考えている。じっくりと占領地を広げていく方がよい。あと五年かけるつもりでいれば、天下の大半は熟柿のように自然と丞相の手に落ちる。


「軍船は、荊州軍のものを接収すればよろしいのです」

 賈詡が言った。なにを悩んでいるのだと言いたげな顔をしていた。

「長江に面しているのは、揚州だけではありません。荊州にも水軍があります。劉表に勝てば、おのずとその船が手に入ります」

 曹操は軍議を始めてから、終始渋面をつくっていたが、初めて顔を明るくした。

「賈詡、そなたの言うとおりだ」

「劉表、孫権は、袁紹ほど強大でしょうか。堅実に戦えば、普通に勝てるのではないですか? 皆様方が苦悩している理由がわかりません。いまこそ総力を挙げて丞相を補佐し、天下を統一するときではありませんか」

 曹操は賈詡を見つめて言った。

「南征の軍師は、そなたとする」 

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