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36.誘拐3

連れ帰られた侯爵家は普段と変わりなかった。

どうやらキースが誤魔化してくれたようだ。……今回のことが知れたら『お家でお勉強!』

コースまっしぐらだ。そこを考えて、キースも黙ってくれていたのだろう。

馬車の中には替えの制服も用意されており、兄の周到さを痛感した。

ただ、隠されているということは、当たり前だが俺も平常心で物事に当たらねばならない。

何かと気を遣うのはちょっと難しそうだったので、勉強で疲れたという理由を盾に、俺は早々と自室に戻った。

ここは安心できる場所だ。......けれど、胸のざわつきが収まらない。

ベッドの上に横たわってみるが、瞼を閉じれば、暗い部屋と暴漢たちの顔が浮かぶ。


「……くそ」


自分で口にしても意味のない罵声が漏れる。

俺からすれば理不尽なディマスの八つ当たりでしかない。

思い返すたびに、怒りとも恐怖ともつかない感情が押し寄せてきて、眠るどころかじっとしているのも苦しかった。

布団を蹴り、ベッドから降りる。

足が冷たい床に触れるが、そんなことはどうでもよかった。

キースはどうしているだろうか……馬車の中では必要最低限な会話だったし、俺が部屋に戻ったことでろくに話せていない。

何時も見る、キースのあの穏やかな笑顔が頭に浮かぶ。

レジナルドに救われたのは間違いなく感謝している。

それでも、心の奥底では、キースに助けられたかった……?

――そんな感情がちらりと顔を覗かせる。

結構曖昧なままの俺だ……こんな考え、よくないよな……。

自分の中の矛盾にもやもやとした気持ちがあふれる。

浮かんだ笑顔を打ち消すように、無理やり息を吸い込んだ。の、に──……。

それでも、やっぱり浮かぶのはキースの顔だ。

まずいなぁ、俺……だいぶん、まずい……。

ああ、いや。顔を見れば、この胸のざわつきが少しは収まるかもしれない――。

そんな思いが背中を押し、扉を開けて廊下に出た。



夜更けの廊下は静まり返っている。見回りの時間から少し外れてることもあり、人の姿はない。一歩一歩、足音を忍ばせながら歩いていくと、向こうから誰かがこちらに向かってくるのが見えた。


「……兄様?」


俺がぽつりと呟くと、灯りが揺れる。それが近づくにつれ、その顔がはっきりと見える。

やはりキースだ──彼も俺と同じく夜着のまま、足音を殺して歩いてきていた。


「リアム……眠れないのかい?」


兄の声は相変わらず穏やかだった。

優しく微笑んでいるけれど、その瞳の奥には、普段見せることのない鋭い光が宿っている気がする。


「……兄様もですか……?」


俺がそう言うと、キースはふっと笑った。


「ああ。君のことが心配でね。……様子を見に行こうと思っていたところだよ」


キースの足が俺の前で止まる。

ここで素直に、僕もです、と答えれば可愛げがあるものの、どうにも俺はそう答えきれなかった。けれどキースは気にした様子もない。


「少し話でもしないか?僕の部屋で」


俺の前で首を傾げる。

誘いを断る理由はないどころか――何せ俺もキースの傍にいたかったのだから。


「はい……」


小さく頷くと、キースは俺の肩にそっと手を置いた。

その手は温かかった。けれど、何かが違う。普段のキースの温もりとは違う……そんな気がした。



キースの部屋はいつも通りきちんと整えられていた。

どこか落ち着く香りが漂い、暖炉の火が静かに揺れている。


「座って」


そう言われて、俺はためらいがちにソファに腰を下ろす。普段ならキースはその隣に座るところだが、そうはせず、暖炉の前に立ちしばらく火を見つめていた。


「……今日は怖い思いをしたね」


背を向けたまま、キースが口を開く。


「僕がもっと早く動けていれば……君にそんな思いをさせることもなかったのに」


その声には、かすかな悔しさが滲んでいるように感じられた。


「……いえ、兄様のせいじゃありません。それに、兄様だってすぐに来てくれて……」

「レジナルド殿下のほうが早かったけれどね」


俺が言い終える前に、キースが言葉をかぶせた。

キースは、今度はゆっくりと振り返り、俺に歩み寄ってきた。そして、膝をついて俺と目線を合わせる。


「リアム、僕は君を守りたい。君がどんな状況でも安心して笑えるように、僕が支えになりたいと思っている……」


その言葉は真剣だった。瞳に揺らぎはない。

けれど――なぜだろう。その優しさの裏に、何かを隠しているような気がしてならない。


「僕のこと……情けないと思うかい?」


突然の問いかけに、息を呑む。馬鹿な。確かに俺を助けたのはレジナルドだが、それはただ速さの問題だっただけで、あの時間差ならキースだって十分に間に合ったはずだ。

キースはキースで少しの時間差をひどく気にしているのかもしれない。それが俺に違和感となって伝わっている……?


「そんなことないです……!」


俺は頭を振って否定した。


「優しいね、リアムは。……僕は君を誰よりも大切に想っているよ」


キースの手がそっと僕の髪に触れて、撫でる。しばらくの沈黙の後、兄様は静かに立ち上がり、俺へと手を差し伸べた。


「おいで、今日はここで眠るといい」


手を取りつつ俺は立ち上がった。


「兄様……」

「大丈夫。僕は君を守るよ。君が安心して眠れるように」


その言葉を聞き、俺は頷く。キースの導きのまま、ベッドに入った。キースはベッドの傍らに座り俺の手を握る。じんわりとした温かさが心を落ち着けていくようで、段々と瞼が重くなる。

キースは俺が眠る直前、そっと、俺の額に口付けた。


キース……?


意識が遠のく中で、最後に見えた兄様の表情は――優しい笑みを浮かべながらも、どこか苦しげだった。



「……本当に使えない……」

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