春の宮苑には、穏やかな陽が差していた。
陽を受けて咲き誇る桃の花が、あたたかい香気を風に乗せている。
廊の端で、ひとりの少年が小さな手を差し出した。
「芳雪、ちゃんと握ってろよ。落ちたら、泣いても助けないからな」
声にふくれた調子が混じるのは、まだあどけない六歳の皇子――
彼の袖をぎゅっと握る三歳の子が、その言葉に小さく頷いた。
淡い桃色の上衣に包まれた細い身体と、ふんわりとした髪は、煌星の面影をそのまま映している。
名は
「……おにいちゃんといっしょ、いる」
その小さな声に、昊陽はわずかに顔を赤くしながらも、「……うん」と呟き、手を強く握った。
近くの東屋では、景翊と煌星がその様子を見守っていた。
春光が降り注ぐ庭を挟んで、ふたりの姿が並ぶのは、もう日常の一幕となっている。
「……我が子ながら、すごい執着心ね。昊陽ってば、あんな顔して“芳雪は僕の”なんて言うのよ」
声をかけたのは璃月。紅の髪を緩やかに結い上げ、皇后の衣を纏って現れた。
「姉上に似て暴君なんじゃ?」
「はぁ?」
煌星が微笑みながら言えば、璃月は肩をすくめて笑った。
「私、あんなだったかしら?昊陽ったらずぅっと芳雪をおっかけてるでしょ?景耀陛下が、まったく構ってくれないって拗ねてたわ」
景翊がわずかに目を伏せる。
ふたりの子どもが、まっすぐ手を取り合う姿――。
それは、かつて煌星を抱きしめる時に、景翊が願った未来そのものだった。
「……昊陽は見つけたんだ、唯一を。見つけたら離さないだろう?」
その声に、煌星が隣で目を瞬かせ、璃月を顔を見合わせた。
「「隔世遺伝」」
璃月と煌星の声が重なり、二人が笑い合う。
風がふと、三人の間を抜けた。
その香に、景翊は眉を上げる。
「これは……“春雪桃”に、薄香桂を足した香……?」
「うん。今朝、少し調香しておいたの。子どもたちに、穏やかな香が届くようにって」
「……本当に、お前は」
景翊は言葉を途切れさせ、ふと指先で煌星の髪の端に触れる。
「愛してるよ。何度でも言いたい。お前は、俺の誓香だ」
その言葉に、煌星の頬が淡く紅く染まる。
「……僕も。ずっと……ずっと、あなたの番です」
そう言って、景翊の手を取った。
彼らは、ただの“香を交わした番”ではない。
宮廷に認められ、国に名を刻まれた、正当な夫夫だった。
「ちょっとやだ、私の前でいちゃつかないでよ!」
璃月が声を上げた。
昊陽と芳雪の声が、廊の向こうから聞こえてくる。
「芳雪、こっち! 花がいっぱい咲いてる!」
「ん……、こうよう、はやい……」
「いいから!置いてくぞ!」
どたばたと駆ける二人に、璃月がやれやれと肩をすくめた。
「――まったく。あのふたりが番になる頃には、宮中どころか国中巻き込む騒ぎになってそうね」
「姉上の子だからなぁ……」
煌星が小さく笑って答えると、景翊も続けた。
「……俺は味方するけどな。昊陽の気持ちは、痛いほど分かるから」
「……ばか」
ふたりの笑い声が、春の光の中に溶けていく。
※
その夜、寝所に戻った煌星は、衣を解いて調香台の前に立っていた。
淡い香が、夜気に溶けてゆく。
そこへ、背後から景翊の腕が回される。
「……何を香らせてる?」
「芳雪が、眠りやすいように。“白桃茴香”に“杏華”を加えたの。あなたも、好きでしょ?」
「お前の香なら、何でも好きだ」
耳元で囁かれる声に、煌星はくすっと笑う。
過去に香で苦しんだこの人が、今こうして香の中で眠ることを、幸せだと思う。
「……僕、あなたと芳雪がいてくれれば、それだけでいい」
「それじゃ困る。俺は、お前の全部が欲しいから」
その言葉が、煌星の心を再び照らす。
春の夜、柔らかな香の中――
ふたりの夫夫は、静かに寄り添い、夜を迎える。
それは、香よりも深く、確かな絆の香――
そして、“春の番”としての、変わらぬ誓いだった。
【終】