春、宮苑――。
花々がふくらみ、桃の香が風に乗る季節。
王宮の奥に設えられた特設の婚礼殿では、赤絹の幕が静かに揺れていた。
金糸で縁取られた飾り房、玉細工の吊り灯籠、花梨の木を使った祭壇。
どこを見ても、王家と蘇家の結びにふさわしい、優美で気品あるしつらえだった。
今日、ここにて――
蘇家嫡子・蘇煌星と、皇帝の双子の弟・景翊の、正式な婚姻式が執り行われる。
表向きは“王族の内婚”という形式だが、
朝廷においてはすでに番としての認定が済んでおり、
今日の式は、あくまで家族と近親のみによる、祝福の儀だった。
しかし、その場に漂う緊張と華やかさは、どの国家行事にも劣らなかった。
※
婚礼に先立ち、婚室にて――。
「もう、帯は結んだでしょう? 何度整えても、変わらないわよ」
璃月は、鏡の前で煌星の袖を軽く払った。
「だって……うまく結べてないと、崩れたときに恥ずかしいから」
「そういうこと言う人はね、大抵……崩す方じゃなくて、崩される方になるのよ?」
「っ、姉上……!」
「ふふ。まあ、きれいよ。今日のあなたは、今まででいちばん、いい香りがする」
璃月の声に、煌星は目を伏せて微笑んだ。
「ありがとう。璃月が──姉上がいたから、ここまで来られた」
「礼なんていらないわ。巻き込んだのはこちらよ?それに今日はあなたが主役。堂々としていなさい。……父上も来てるわ。あんな顔で化粧を見つめてたの、久しぶりに見たもの」
「……父上が?」
璃月は、微笑んだまま、そっと煌星の背を押した。
「行きなさい、煌星。きっと、大丈夫だから」
婚礼殿の正面には、紅絨毯が敷かれている。
その左右には王族と文官、蘇家の近縁者たちが並び、中央には――
皇帝・景耀、そして太傅・蘇天佑の姿があった。
天佑は、景耀に次ぐ位置に座していたが、その姿勢には僅かな硬さがあった。
(まさか……この手であの子を貴妃に仕立て、後宮に送ったとき――こんな日が来るとは思わなかった)
煌星が姿を現した瞬間、その硬さが、ふと、ほどけた。
煌星の衣は、薄紅と白金を重ねた中礼装。
刺繍には、蘇家の調香紋と桃花が施され、髪は銀と紅の紐で優しく結われていた。
景翊は、王族の金紅を基調とした正服。
その左袖には、調香師の印をあしらった、繊細な白梅の刺繍が添えられていた。
ふたりの衣が並ぶと、それはまるで、
香と血、陽と陰――調和の象徴のようだった。
※
礼楽が鳴り、交袍の儀が始まる。
ふたりはそれぞれ、衣の袖を互いに重ね、盃を受け取り、交わす。
朱杯に注がれるのは、蘇家の地酒――微かに甘く、桃花の香が漂う。
沈黙の中、景翊がふと顔を傾けた。
「……香が、違う、か?」
「分かる?」
「……春雪桃に、柑白と沈香をひと匙……それに、君の体温が入ってる」
煌星は、ふっと、声を出さずに笑った。
「あなたが好きな香りに仕立てておいたんだよ。気づいてくれて、うれしい」
「……お前というやつは、本当に……」
苦笑しながらも、景翊の声は深く、やさしく響いた。
香は、誰にも語られなかった“告白”だった。
礼が終わり、来賓が言葉を贈る番となる。
天佑はゆるやかに立ち上がり、壇上へと進んだ。
「一言、述べさせていただきます」
その声音は、いつも朝議で響く太傅のそれとは、少し違っていた。
どこか、父としての言葉を探しながら紡いでいるようだった。
「景翊殿下。……いや、もはや我が婿殿と呼ばせていただきたい」
「……ありがたく、頂戴いたします」
「私には、二人の子がございます。ひとりは娘、そしてもうひとりは――
かつて、娘の代わりに後宮へ送られた、あの子です」
一瞬、場が静まった。だが、天佑は続けた。
「私は、親としては欠けた者でした。だが、それでも今ここに、煌星があなたの隣に立つ姿を見て、父として、心から――誇らしく思っております」
煌星の目が、わずかに揺れる。
天佑は、その子をじっと見つめたまま、最後にひとつだけ言葉を贈った。
「煌星。おまえの香は、いつも静かだが……誰よりも、強い香だ。どうかこれからも、自らの香を信じて、生きていけ」
「……はい」
その声は、誰よりもまっすぐだった。
※
式の終わり、紅絨毯をゆっくりと並んで歩くふたりの衣が、やがて風に揺れる。
そのすそ先を、桃花の花弁が追いかけてくるように舞っていた。
景耀が立ち上がり、璃月とともに、ふたりを見送る。
「やっと“番らしくなった”な」
「ええ。とても、きれいな香がします」
璃月が目を細める。
「さて……次は宴ね。うるさい親戚も来てるし、多少騒がしくなっても仕方ないわ」
景耀が肩をすくめて笑った。
そうして、璃月の腰へと手を回す。
「璃月、そろそろ私も構って欲しいのだが?」
璃月は、目を瞬かせると、くすりと笑う。
「いいわよ、旦那様。あなた、私に夢中だものね?」
春の香が、苑に満ちる。
けれど、その香よりも温かいのは、ふたりが交わした手の熱だった。
言葉は少なくとも、香はもう必要なくとも――
その掌に、確かな約束が刻まれていた。