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六十、春結の香、紅き衣に誓う

春、宮苑――。


花々がふくらみ、桃の香が風に乗る季節。

王宮の奥に設えられた特設の婚礼殿では、赤絹の幕が静かに揺れていた。

金糸で縁取られた飾り房、玉細工の吊り灯籠、花梨の木を使った祭壇。

どこを見ても、王家と蘇家の結びにふさわしい、優美で気品あるしつらえだった。


今日、ここにて――

蘇家嫡子・蘇煌星と、皇帝の双子の弟・景翊の、正式な婚姻式が執り行われる。


表向きは“王族の内婚”という形式だが、

朝廷においてはすでに番としての認定が済んでおり、

今日の式は、あくまで家族と近親のみによる、祝福の儀だった。


しかし、その場に漂う緊張と華やかさは、どの国家行事にも劣らなかった。



婚礼に先立ち、婚室にて――。


「もう、帯は結んだでしょう? 何度整えても、変わらないわよ」


璃月は、鏡の前で煌星の袖を軽く払った。


「だって……うまく結べてないと、崩れたときに恥ずかしいから」

「そういうこと言う人はね、大抵……崩す方じゃなくて、崩される方になるのよ?」

「っ、姉上……!」

「ふふ。まあ、きれいよ。今日のあなたは、今まででいちばん、いい香りがする」


璃月の声に、煌星は目を伏せて微笑んだ。


「ありがとう。璃月が──姉上がいたから、ここまで来られた」

「礼なんていらないわ。巻き込んだのはこちらよ?それに今日はあなたが主役。堂々としていなさい。……父上も来てるわ。あんな顔で化粧を見つめてたの、久しぶりに見たもの」


「……父上が?」


璃月は、微笑んだまま、そっと煌星の背を押した。


「行きなさい、煌星。きっと、大丈夫だから」



婚礼殿の正面には、紅絨毯が敷かれている。

その左右には王族と文官、蘇家の近縁者たちが並び、中央には――


皇帝・景耀、そして太傅・蘇天佑の姿があった。


天佑は、景耀に次ぐ位置に座していたが、その姿勢には僅かな硬さがあった。


(まさか……この手であの子を貴妃に仕立て、後宮に送ったとき――こんな日が来るとは思わなかった)


煌星が姿を現した瞬間、その硬さが、ふと、ほどけた。


煌星の衣は、薄紅と白金を重ねた中礼装。

刺繍には、蘇家の調香紋と桃花が施され、髪は銀と紅の紐で優しく結われていた。


景翊は、王族の金紅を基調とした正服。

その左袖には、調香師の印をあしらった、繊細な白梅の刺繍が添えられていた。


ふたりの衣が並ぶと、それはまるで、

香と血、陽と陰――調和の象徴のようだった。



礼楽が鳴り、交袍の儀が始まる。


ふたりはそれぞれ、衣の袖を互いに重ね、盃を受け取り、交わす。

朱杯に注がれるのは、蘇家の地酒――微かに甘く、桃花の香が漂う。


沈黙の中、景翊がふと顔を傾けた。


「……香が、違う、か?」

「分かる?」

「……春雪桃に、柑白と沈香をひと匙……それに、君の体温が入ってる」


煌星は、ふっと、声を出さずに笑った。


「あなたが好きな香りに仕立てておいたんだよ。気づいてくれて、うれしい」

「……お前というやつは、本当に……」


苦笑しながらも、景翊の声は深く、やさしく響いた。

香は、誰にも語られなかった“告白”だった。



礼が終わり、来賓が言葉を贈る番となる。

天佑はゆるやかに立ち上がり、壇上へと進んだ。


「一言、述べさせていただきます」


その声音は、いつも朝議で響く太傅のそれとは、少し違っていた。

どこか、父としての言葉を探しながら紡いでいるようだった。


「景翊殿下。……いや、もはや我が婿殿と呼ばせていただきたい」

「……ありがたく、頂戴いたします」

「私には、二人の子がございます。ひとりは娘、そしてもうひとりは――

かつて、娘の代わりに後宮へ送られた、あの子です」


一瞬、場が静まった。だが、天佑は続けた。


「私は、親としては欠けた者でした。だが、それでも今ここに、煌星があなたの隣に立つ姿を見て、父として、心から――誇らしく思っております」


煌星の目が、わずかに揺れる。

天佑は、その子をじっと見つめたまま、最後にひとつだけ言葉を贈った。


「煌星。おまえの香は、いつも静かだが……誰よりも、強い香だ。どうかこれからも、自らの香を信じて、生きていけ」

「……はい」


その声は、誰よりもまっすぐだった。



式の終わり、紅絨毯をゆっくりと並んで歩くふたりの衣が、やがて風に揺れる。

そのすそ先を、桃花の花弁が追いかけてくるように舞っていた。


景耀が立ち上がり、璃月とともに、ふたりを見送る。


「やっと“番らしくなった”な」

「ええ。とても、きれいな香がします」


璃月が目を細める。


「さて……次は宴ね。うるさい親戚も来てるし、多少騒がしくなっても仕方ないわ」


景耀が肩をすくめて笑った。

そうして、璃月の腰へと手を回す。


「璃月、そろそろ私も構って欲しいのだが?」


璃月は、目を瞬かせると、くすりと笑う。


「いいわよ、旦那様。あなた、私に夢中だものね?」


春の香が、苑に満ちる。

けれど、その香よりも温かいのは、ふたりが交わした手の熱だった。

言葉は少なくとも、香はもう必要なくとも――

その掌に、確かな約束が刻まれていた。


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