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五十九、誓香、躰に灯る契りの証

夜が深まるほどに、香は甘さを増していく。

月が雲の間にかすみ、香室の灯籠が静かに揺れた。


煌星は、香材を火にかけながら、ゆっくりと息を整える。

香包の中に忍ばせたのは、“春雪桃”を基調にした自作の誘導香――名を「誓香せいこう」という。

春のように柔らかく、それでいて、熱を孕む香。

肌に触れぬはずの香が、やがて心を、躰を焦がすものとなる。


誘導香には幾つかの系があるが、これは“発情”を一足先に促す微香式。

媚香のような直接的なものではない。ただ、香に包まれていることそのものが、触れられたくなる気配を帯びる。

香に敏い者ならなおのこと、触れられた箇所が、熱を持ちやすくなるよう仕立てた。


そして今夜――それを焚く理由は、ただひとつだった。


(僕は、あなたを望んでいる。香でも、命令でもなく、“僕の意志”で)


煌星は、ひとつ深く息を吐くと、衣紐を解いた。

薄絹の調香着から私室用の上衣へ着替え、裾をまとめずに流したまま腰帯だけで止める。


白い布の下に、熱を帯びた肌が透ける。

香が染み込んだ髪が、肩先を撫で、鎖骨にすべり落ちた。


わずかな熱気が空気を揺らす中、部屋の戸が静かに叩かれた。


「……煌星」


景翊の声が、戸越しに落ちる。

すでに香に包まれた部屋の空気が、ふたりを引き寄せていた。


「入って」


声に応え、景翊が戸を開ける。


そして、足を踏み入れた瞬間――

彼の視線が、静かに揺れた。


「これは……香か?」

「そう……“誓香”。僕が調香した、番のための香」


煌星はそのまま立ち上がり、景翊の方へ歩を進める。

薄布が膝から滑り落ち、細い足首がちらりと見えた。

その姿は、まるで一枚の絵のように儚く、けれどどこか艶やかで。


景翊が言葉を飲み込む気配が、部屋に満ちる香よりも熱かった。


「どうして、今夜……?」

「僕が、選びたかったから」


小さく笑う煌星の声は、決して掠れていなかった。

確かに強く、熱を帯びていた。


「番になることを。あなたのそばにいることを。……僕の意志で、選びたかった」


ゆっくりと歩み寄り、景翊の胸元に手を置く。

鼓動の早さが、布越しにも伝わった。


「強引に抱かれるのは、怖かった。香で支配されるのも、嫌だった。……でも、違う。今の僕は、香に守られてる。あなたと一緒に、香を選べる。だから……“この香”を、あなたの前で焚いた」


煌星は、そう言って、静かに景翊の手を取り、自分の首筋へ導いた。

すでに熱を帯びていた肌が、その指に触れる。


「誓香は……今の僕があなたを欲しいって、伝えるための香。そしてあなたが、“僕を選ぶ”なら……ここに、印を刻んでほしい」


景翊の喉が、かすかに動いた。


「……噛む、ぞ。本当に……いいのか」

「うん」


煌星の頷きは、誰よりも穏やかで、誰よりも確かだった。


次の瞬間、景翊の唇が頸へと落ちた。

歯が沈み、肌の奥へと刻まれていく。

香と熱と共に、肉の奥で脈打つような疼きが煌星を包んだ。


「――ぁ、っ……」


短く、声が漏れる。

そこに宿ったのは快楽ではない。

けれど、悦びの源――“この人と、躰を通わせていい”という確信。


その確信が、身体の奥に火を灯した。


膝がわずかに崩れる。

景翊が抱き留め、強くも優しく、抱き締める。


香がふたりの間を満たす。


肌が重なるたび、熱が交わるたび、香がふたりの息の中に染み込んでいく。


「……煌星。もう、止まれない」

「うん……止まらなくて、いい」


景翊の手が、ゆっくりと布の上から煌星の腰へ。

熱を帯びた手が肌をなぞるだけで、過敏に反応し、呼吸が深くなる。


唇が頸から肩、鎖骨、そして胸元へと降りていく。

歯と舌が淡く跡を残し、そのひとつひとつが、煌星の火を大きくしていく。


「……あ、っ……ふ、」


細く、切れるような吐息。

耳元にかかるその声が、景翊の理性をかすかに揺らす。

だが彼は、ただひたすらに“選ばれたこと”に応えるように、優しく、熱く、煌星を包んだ。


身体を交わすのは初めてではない。

けれどその夜は、特別だった。

肌と肌が重なり、香がそれを記憶するように焚き続ける。

心臓が打ち、吐息が絡み、夜がふたりの契りを抱いていった――。



夜が明ける頃、室内にはまだほのかに香が残っていた。


景翊は眠る煌星の額にそっと触れ、その香を吸い込む。

熱の余韻と、やさしい桃の香りが、胸の奥を満たす。


「……ありがとう。選んでくれて。俺の全部は、もう君の香りに、染まってる」


ふたりの肌に残る熱と香が、“番の誓い”そのものだった。


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