夜が明ける少し前――空の端がわずかに白む頃、煌星は調香筆を置いた。
膝の上に広げられた古びた香図。
そこに記されていたのは、かつて彼と梁逸文が共に試作した、未完の調香式――「真香」の断片だった。
火脈を辿るように流れる香路、熱によって変化する香材の重なり、そして……最後の“想い”を封じる配合。
(あの時……この香が完成していたら、何か変わっていたんだろうか)
ふと、微かな甘い匂いが鼻を掠める。
机の端に置かれた香囊が、ほのかに揺れていた。
中には、彼が一度も焚かなかった“その香”の一片――逸文との過去を封じた香料が、今も眠っている。
煌星はその香囊をゆっくりと閉じ、袂にしまった。
(……香で始まったことは、香で終わらせる)
立ち上がると、黒茶の外衣を羽織り、髪を高く結い上げる。
調香師としての衣ではなく、**“香を武器に立つ者”**としての姿だった。
※
「お待たせいたしました、煌星殿」
西門に控えていた錦麟衛の副官が、静かに一礼する。
副官の隣には、既に出立の支度を終えた景翊の姿があった。
「――俺も行く」
「うん。分かってた」
景翊の声は落ち着いていた。
けれど、その視線の奥にあるもの――それが、ただの護衛ではないことを、煌星は知っている。
馬に乗る二人を追うように、錦麟衛の騎が音を立てず並ぶ。
都の喧噪は遠ざかり、やがて東風が香を運ぶ草原へと出た。
旧香倉庫跡――そこは、十数年前に廃棄された調香師育成所のひとつだった。
石造りの倉に蔓が這い、扉には簡易の封印符が下げられている。
だが、香の気配は消えていなかった。
「これは……誘導香。出迎えるつもり、なんでしょうか」
副官が眉を寄せる。
香は焚き方によって“招き”にも“罠”にもなる。
そして、これは――明らかに、煌星を待っていた香だった。
「僕ひとりで入るよ。あの人は……僕に用がある」
「煌星――!」
景翊が声を上げかけたが、煌星は軽く手を挙げて制した。
「何かあったら、すぐ逃げるから。……信じて」
ほんのわずか、その言葉に込められた柔らかな熱。
景翊は沈黙のまま頷き、刀の柄に手を添えた。
※
香倉の中は、ほの暗かった。
けれど視界は歪んでいく――いや、香によって、感覚が変容していく。
冷たいようで甘い、甘いようで鋭い香。
それは、煌星の記憶に深く刻まれている“彼”の香だった。
「……来たんだね」
声がした。
奥の台座の上に、仮面をつけた男が座していた。
面には花の文様が刻まれ、声は変調されている。けれど、香が告げている。
――間違いない、梁逸文だ。
「ここに来るのは、君しかいないと思っていたよ」
「……何がしたいの? 逃げるつもりなら、もう間に合わない」
「逃げる? とんでもない。僕は“香を解き放ち”に来たんだよ。君なら分かると思ってた」
逸文の周囲に焚かれている香――それは、“真香”の改変型。
二人で創ろうとした香を、彼は“支配の香”として完成させていた。
「僕の香は、真実を暴く。心の奥にある欲望も、快楽も、罪も――すべてを」
言葉と共に、濃い香が立ち昇る。
それは、嗅覚だけでなく脳を揺さぶる。
記憶を曖昧にし、情動を呼び起こす、毒にも近い香だった。
煌星の視界が揺らぐ。
「やめろ……っ」
身体が熱を持ち、呼吸が浅くなる。
かつて“快楽香”として使われた香式の改良版――
逸文は、煌星の身体に染みついた“香の記憶”を逆手に取っていた。
「君の中には、まだ僕との香が残ってる。僕の香に、君は勝てない」
逸文が手を伸ばす。
だが――
「……残ってなんか、ない」
煌星は懐から小さな香包を取り出し、火をくべた。
淡い花香と共に立ちのぼるのは――
「これは……“春雪桃”?」
「違う。“春雪桃”を基にした、再構成香――“共鳴香”」
その香は、“快楽”を誘う香ではない。
“記憶”ではなく、“今ここにいる自分”を軸とする香。
番である景翊といたからこそ創り上げることが出来た、“支配されない香”だった。
“煌星。香りは自由なの。覚えておいてね”
いつだっただろうか。
母がまだ元気だったとき、香を焚きながら微笑みつつ言ったこと。
それを煌星は思い出していた。
逸文の香が、少しずつ崩れていく。
「香が……流れを変えて……っ」
「君の香は、閉じた世界でしか効かない。でも、僕の香は――番いと共にある」
逸文は香の余韻の中で意識を失い、床に倒れた。
仮面を外すと、そこには、かつてと変わらぬ穏やかな顔。
香に溺れる前の、優しい調香師の顔が眠っていた。
煌星はしばし黙ってその顔を見つめ、そっと香布で仮面を覆った。
景翊が静かに後ろに立ち、煌星の肩に手を添える。
「終わったか?」
「……うん」
「なら、帰ろう。お前の香は、まだ終わっていない」
煌星は微かに笑い、頷いた。
※
帰路。
香囊の中で、逸文との香の残り火がかすかに香る。
だが、それは過去の香。
今の彼には、“番”とともにある香がある。
(……僕は、香を信じる。君と出会って、もう一度、そう思えたから)
東の空が、ようやく朝を迎えようとしていた。