春の足音が、まだ固い石畳の隙間からゆるりと香りを運んできた。
蘭台宮の正殿――その中央に、めずらしく灯籠が焚かれていた。
その火は眩しすぎず、淡い金と薄桃を混ぜたような光を揺らしている。
香宴。それは香の精霊に感謝を捧げ、調香の儀と共に心を和らげる古式の行事。
だが、今回ばかりはそれだけではない。
この宴は、正式なる“二つの宣言”でもあった。
ひとつは、皇帝景耀の双子の弟である景翊が、影武の任を解かれ、“皇弟”として正式に朝政へ加わったこと。
そしてもうひとつは、蘇家の嫡男であり、調香師として知られた蘇煌星が――
後宮を離れた今は、“皇弟”番候補として名誉と影響を保ったまま、“香の使い手”として宮廷に留まることが許されたという事実。
この香宴は、王族における“番の披露”としても異例であり、双子の皇弟たち――景耀と景翊、璃月と煌星――の結びつきが、香と血を通じて初めて明示された場でもあった。
ふたりの立場の確定は、すなわち「香を巡る混乱の終息」そのものであり、
同時に、“番”として選ばれた者たちの在り方を、国家が認めたという証でもあった。
その中央の高座に――ふたりが並び立っていた。
ひとりは璃月。
雪を思わせる白の正服に、薄紅をひとしずく落としたような差し色が入る。
流れる髪は玉のような飾りで束ねられ、凛とした気配の中にも、貴妃の気品が宿っていた。
そして、その隣に座すのは、今や“影”でも“代理”でもない――
蘇煌星、その人だった。
かつての柔らかな女装ではなく、今は墨を薄めたような礼装に身を包んでいる。
仕立ての良い絹布が細身の身体を引き立て、真珠を思わせる喉元が白く浮かぶ。
琥珀に近い髪は束ねられて肩口で揺れ、その眼差しは、いつになくまっすぐだった。
正反対の光を湛えながら、どこまでも調和する――麗しき双子、璃月と煌星。
並び立つその姿は、まるで宮中に祀られた神人形のようであった。
静かに立ちのぼる香煙が、ふたりの間に橋をかけるように揺れている。
「ねえ、緊張してる?」
璃月が、誰にも聞こえぬよう小さく問う。
煌星は微笑を浮かべたまま、ふと視線だけを向けた。
「してないって言ったら、嘘になるかも。でも……ここにいるのは、僕の意志だから」
「……そう」
璃月はそれ以上、何も言わなかった。
けれどその口元がわずかに和らいだことを、煌星は横目でとらえていた。
※
景耀の声が上がり、香宴の開始が告げられる。
まずは景翊が先に香を焚いた。
皇弟としての正式な着座と、今後の政治参与を告げる“香の儀”。
炎に投じられた香包は、研ぎ澄まされた沈香に、龍脳を重ねたもの。
王家の血を継ぐ者として、香をもって国に誓う――その象徴だった。
続いて、煌星が香を捧げる。
白い香包がほどかれた瞬間、ふんわりとした甘さに、微かな花香が混ざった。
「……これは、“春雪桃”……か?」
景耀が思わず言った声に、璃月が応える。
「蘇家に伝わる、春告げの香です。母上が好んでいたものを、我が弟が調香したものでございます」
「なるほど……」
景耀は小さく頷き、目を細めた。
桃花香に似た柔らかさの中に、ひと匙だけ違う温かさがある。
それは、誰かを癒すために作られたのではなく、**“誰かと並び立つため”**に創られた香だった。
香は風にのり、宮中を静かに包む。
歓談が始まり、貴族や文官たちが穏やかに言葉を交わし始めたその頃――
煌星のもとに、ひとりの文吏がそっと耳打ちに来た。
「失礼いたします。……都外に潜伏していた梁逸文という香商の所在が判明しました」
その名に、煌星は一瞬だけ、瞳を細めた。
「どこに……?」
「西郊の旧香倉庫跡にて潜伏中と見られます。すでに錦麟衛は手配済みにございます」
「……ありがとうございます」
礼を述べた後、ふと視線を感じて振り向くと、すぐ近くで景翊がこちらを見ていた。
その視線は何も問わず、ただ穏やかに、しかし確かに煌星を見ている。
(――知ってるんだ、あの人も)
煌星は、微かに笑みを返した。
(……僕が行かないといけない)
香宴は続く。
けれど、煌星の胸の奥には、静かに次の香が灯っていた。
それは、「すべての始まり」に対峙するための香。
かつて自分の技術を歪め、使われた者――梁逸文との再会。
“香”を愛したがゆえに、“香”で罪を犯した男。
……もう一度、香を信じるために。
仄かに煙る香の中、煌星の目に映る景翊の姿が、ふと重なった。
その視線の先には、確かに――己の未来があった。
だが、その未来に至るためには、
香の闇に身を潜めたまま逃げ続ける、最後の“調香師”を――捕らえねばならない。