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五十七、香宴、祝福と疑念の香

春の足音が、まだ固い石畳の隙間からゆるりと香りを運んできた。


蘭台宮の正殿――その中央に、めずらしく灯籠が焚かれていた。

その火は眩しすぎず、淡い金と薄桃を混ぜたような光を揺らしている。


香宴。それは香の精霊に感謝を捧げ、調香の儀と共に心を和らげる古式の行事。

だが、今回ばかりはそれだけではない。


この宴は、正式なる“二つの宣言”でもあった。


ひとつは、皇帝景耀の双子の弟である景翊が、影武の任を解かれ、“皇弟”として正式に朝政へ加わったこと。

そしてもうひとつは、蘇家の嫡男であり、調香師として知られた蘇煌星が――

後宮を離れた今は、“皇弟”番候補として名誉と影響を保ったまま、“香の使い手”として宮廷に留まることが許されたという事実。


この香宴は、王族における“番の披露”としても異例であり、双子の皇弟たち――景耀と景翊、璃月と煌星――の結びつきが、香と血を通じて初めて明示された場でもあった。


ふたりの立場の確定は、すなわち「香を巡る混乱の終息」そのものであり、

同時に、“番”として選ばれた者たちの在り方を、国家が認めたという証でもあった。


その中央の高座に――ふたりが並び立っていた。


ひとりは璃月。

雪を思わせる白の正服に、薄紅をひとしずく落としたような差し色が入る。

流れる髪は玉のような飾りで束ねられ、凛とした気配の中にも、貴妃の気品が宿っていた。


そして、その隣に座すのは、今や“影”でも“代理”でもない――

蘇煌星、その人だった。


かつての柔らかな女装ではなく、今は墨を薄めたような礼装に身を包んでいる。

仕立ての良い絹布が細身の身体を引き立て、真珠を思わせる喉元が白く浮かぶ。


琥珀に近い髪は束ねられて肩口で揺れ、その眼差しは、いつになくまっすぐだった。


正反対の光を湛えながら、どこまでも調和する――麗しき双子、璃月と煌星。

並び立つその姿は、まるで宮中に祀られた神人形のようであった。


静かに立ちのぼる香煙が、ふたりの間に橋をかけるように揺れている。


「ねえ、緊張してる?」


璃月が、誰にも聞こえぬよう小さく問う。

煌星は微笑を浮かべたまま、ふと視線だけを向けた。


「してないって言ったら、嘘になるかも。でも……ここにいるのは、僕の意志だから」


「……そう」


璃月はそれ以上、何も言わなかった。

けれどその口元がわずかに和らいだことを、煌星は横目でとらえていた。



景耀の声が上がり、香宴の開始が告げられる。


まずは景翊が先に香を焚いた。

皇弟としての正式な着座と、今後の政治参与を告げる“香の儀”。

炎に投じられた香包は、研ぎ澄まされた沈香に、龍脳を重ねたもの。


王家の血を継ぐ者として、香をもって国に誓う――その象徴だった。


続いて、煌星が香を捧げる。

白い香包がほどかれた瞬間、ふんわりとした甘さに、微かな花香が混ざった。


「……これは、“春雪桃”……か?」


景耀が思わず言った声に、璃月が応える。


「蘇家に伝わる、春告げの香です。母上が好んでいたものを、我が弟が調香したものでございます」


「なるほど……」


景耀は小さく頷き、目を細めた。


桃花香に似た柔らかさの中に、ひと匙だけ違う温かさがある。

それは、誰かを癒すために作られたのではなく、**“誰かと並び立つため”**に創られた香だった。


香は風にのり、宮中を静かに包む。


歓談が始まり、貴族や文官たちが穏やかに言葉を交わし始めたその頃――

煌星のもとに、ひとりの文吏がそっと耳打ちに来た。


「失礼いたします。……都外に潜伏していた梁逸文という香商の所在が判明しました」


その名に、煌星は一瞬だけ、瞳を細めた。


「どこに……?」


「西郊の旧香倉庫跡にて潜伏中と見られます。すでに錦麟衛は手配済みにございます」


「……ありがとうございます」


礼を述べた後、ふと視線を感じて振り向くと、すぐ近くで景翊がこちらを見ていた。

その視線は何も問わず、ただ穏やかに、しかし確かに煌星を見ている。


(――知ってるんだ、あの人も)


煌星は、微かに笑みを返した。


(……僕が行かないといけない)


香宴は続く。


けれど、煌星の胸の奥には、静かに次の香が灯っていた。


それは、「すべての始まり」に対峙するための香。

かつて自分の技術を歪め、使われた者――梁逸文との再会。

“香”を愛したがゆえに、“香”で罪を犯した男。


……もう一度、香を信じるために。


仄かに煙る香の中、煌星の目に映る景翊の姿が、ふと重なった。

その視線の先には、確かに――己の未来があった。


だが、その未来に至るためには、

香の闇に身を潜めたまま逃げ続ける、最後の“調香師”を――捕らえねばならない。


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