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五十六、香の余白、ふたりの間にあるもの

春の気配が庭先に滲みはじめたある朝、煌星はまだ薄闇の残る寝所にひとり、文机に向かっていた。


景翊の姿はそこになかった。


「……今日も政務、か」


独りごちた声は、責めるでも寂しげでもなかった。

ただ、静かに風の音に混ざって消えた。

この数日──景恒を捉えてから、景翊は“影”の身分を解かれ、正式に朝務へと加わっていた。かつて煌星のもとに滞在していた身軽さは消え、今や名実ともに“皇帝の弟”としての役割を背負っている。

一方の煌星は、後宮に留まるわけにもいかず、現在は皇宮内の斉風殿に身を寄せていた。そこは、景翊に正式に与えられた居殿であり、煌星は形式上、“景耀陛下の弟”の妃候補として滞在している。

だが――それ以上でも、それ以下でもない。


「……あの人の隣に立つなら、僕は……」


筆先が震え、紙の端に滲んだ墨の輪を作った。



「久しぶりに、香を焚いたのね」


昼下がり、訪ねてきた璃月がそう言って部屋を見回した。


「これでも調香師だからね。忘れないようにしないと」


棚には古い香図帳と、調合したばかりの香包。

すべて、宮中に呼ばれる前、蘇煌星として調香師の名を掲げていた頃のものだ。


「悪くない香ね。少しだけ春の匂いがする」

「母上が好きだった桃花香を混ぜたんだ」


それを聞いて、璃月がふっと笑う。


「私もこれ、好きよ。“誰かのために香を作る”煌星は、やっぱり蘇家の誇りね。……でも、そろそろ“自分のために選ぶ”時じゃない?」


煌星は視線を落としたまま答えなかった。



その夜、ふいに、景翊が静かに戻ってきた。


「まだ起きていたのか」

「寝ようとは思ってた。けど、なんとなく……」


帳を隔てた灯りの下、景翊は一枚の書簡を取り出す。


「蘇家から、招きがあった。“調香所”の再開を支援したいと。――正式に、蘇家嫡男として戻ることもできる」


煌星はしばし黙っていた。


「……それで、僕が去ってもいいって、言うの?」


景翊は首を横に振った。


「違う。“去っても恨まない”と言ってる」

「……ずるいよ。そういう言い方」


言葉の端が少しだけ震えていた。


「俺はお前に、番としてここにいてほしい。でもそれは、俺の我が儘だ。だから……お前が“蘇煌星”として選んだ香の道を尊重したい」

「そんな風に言われたら……僕、どこにも行けなくなる」


景翊が、静かに手を伸ばして煌星の指先を取る。


「なら、行くな。俺のわがままを、ひとつ聞け。……“番い”になろう」


煌星は、ゆっくりと目を見開いた。


「……景翊」

「お前が俺の隣にいてくれるなら、俺は国を正す。その未来に、お前の香を連れていきたい」


そして、そっとその手に、香包が渡される。

それは――かつて煌星が“誰か”のために作り、いま“自分の想い”を包んだ、新たな香。


「……ありがとう。これ、すごくいい香りがする」

「――当たり前。……あなたのために作ったんだから」


その声は、どこまでも静かで、けれど確かだった。



夜が深まり、ふたりの影が寄り添ってひとつになっていく。

斉風殿の帳が静かに揺れていた。


景翊は煌星の肩を抱いたまま、そっと頬を撫でる。


「……これが、俺の望んでいた“繋がり”だ」


煌星はその言葉に、静かに微笑んだ。


「うん、僕も……景翊……」


ゆっくりと唇が重なる。

今度のそれは、名を与えられた役割のためでも、感情を誤魔化すためでもなかった。

ただ、“好きだから”触れた。

触れたいと思ったから、手を伸ばした――それだけだった。


着衣の隙間から、肌が触れ合う。

景翊の指が、煌星の背を撫で、鎖骨をたどる。


「無理はしていないか……?」

「……してないよ。今は……景翊と、繋がりたい」


その一言がすべてだった。

灯りが落とされ、夜気がわずかに流れ込む中で、景翊の体温がじかに重なる。


焦りも、衝動もなかった。

ただ確かめるように、肌を重ね、指を絡め、唇を落とし合う。

どこまでも丁寧で、ひとつひとつの触れ方に――愛情が込められていた。


「……こうしてると、ほんとうに僕は“僕”でいられる気がするんだ」


煌星がぽつりと零した言葉に、景翊は額を重ねた。


「お前は、いつだって“お前”だった。俺はそれに惚れた。……番いとしてでなくても、きっと惚れてた」


その言葉に、煌星の瞳が潤む。

息が絡み、腰が沈み、奥深く、ふたりの輪郭が重なってゆく。


――仮ではない、“本物”として。


肌が触れ合い、名を呼び合い、交わるたびに、互いが互いを求めていたことを、深く深く確かめてゆく。


灯が落ちた室内に、静かな吐息と、微かな衣擦れの音だけが満ちた。


夜は、深く、穏やかに流れていく。

香はすでに焚かれていなかった。


けれど、ふたりの間には確かに――甘く、暖かい“想い”の香りが、息づいていた。


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