春の気配が庭先に滲みはじめたある朝、煌星はまだ薄闇の残る寝所にひとり、文机に向かっていた。
景翊の姿はそこになかった。
「……今日も政務、か」
独りごちた声は、責めるでも寂しげでもなかった。
ただ、静かに風の音に混ざって消えた。
この数日──景恒を捉えてから、景翊は“影”の身分を解かれ、正式に朝務へと加わっていた。かつて煌星のもとに滞在していた身軽さは消え、今や名実ともに“皇帝の弟”としての役割を背負っている。
一方の煌星は、後宮に留まるわけにもいかず、現在は皇宮内の斉風殿に身を寄せていた。そこは、景翊に正式に与えられた居殿であり、煌星は形式上、“景耀陛下の弟”の妃候補として滞在している。
だが――それ以上でも、それ以下でもない。
「……あの人の隣に立つなら、僕は……」
筆先が震え、紙の端に滲んだ墨の輪を作った。
※
「久しぶりに、香を焚いたのね」
昼下がり、訪ねてきた璃月がそう言って部屋を見回した。
「これでも調香師だからね。忘れないようにしないと」
棚には古い香図帳と、調合したばかりの香包。
すべて、宮中に呼ばれる前、蘇煌星として調香師の名を掲げていた頃のものだ。
「悪くない香ね。少しだけ春の匂いがする」
「母上が好きだった桃花香を混ぜたんだ」
それを聞いて、璃月がふっと笑う。
「私もこれ、好きよ。“誰かのために香を作る”煌星は、やっぱり蘇家の誇りね。……でも、そろそろ“自分のために選ぶ”時じゃない?」
煌星は視線を落としたまま答えなかった。
※
その夜、ふいに、景翊が静かに戻ってきた。
「まだ起きていたのか」
「寝ようとは思ってた。けど、なんとなく……」
帳を隔てた灯りの下、景翊は一枚の書簡を取り出す。
「蘇家から、招きがあった。“調香所”の再開を支援したいと。――正式に、蘇家嫡男として戻ることもできる」
煌星はしばし黙っていた。
「……それで、僕が去ってもいいって、言うの?」
景翊は首を横に振った。
「違う。“去っても恨まない”と言ってる」
「……ずるいよ。そういう言い方」
言葉の端が少しだけ震えていた。
「俺はお前に、番としてここにいてほしい。でもそれは、俺の我が儘だ。だから……お前が“蘇煌星”として選んだ香の道を尊重したい」
「そんな風に言われたら……僕、どこにも行けなくなる」
景翊が、静かに手を伸ばして煌星の指先を取る。
「なら、行くな。俺のわがままを、ひとつ聞け。……“番い”になろう」
煌星は、ゆっくりと目を見開いた。
「……景翊」
「お前が俺の隣にいてくれるなら、俺は国を正す。その未来に、お前の香を連れていきたい」
そして、そっとその手に、香包が渡される。
それは――かつて煌星が“誰か”のために作り、いま“自分の想い”を包んだ、新たな香。
「……ありがとう。これ、すごくいい香りがする」
「――当たり前。……あなたのために作ったんだから」
その声は、どこまでも静かで、けれど確かだった。
※
夜が深まり、ふたりの影が寄り添ってひとつになっていく。
斉風殿の帳が静かに揺れていた。
景翊は煌星の肩を抱いたまま、そっと頬を撫でる。
「……これが、俺の望んでいた“繋がり”だ」
煌星はその言葉に、静かに微笑んだ。
「うん、僕も……景翊……」
ゆっくりと唇が重なる。
今度のそれは、名を与えられた役割のためでも、感情を誤魔化すためでもなかった。
ただ、“好きだから”触れた。
触れたいと思ったから、手を伸ばした――それだけだった。
着衣の隙間から、肌が触れ合う。
景翊の指が、煌星の背を撫で、鎖骨をたどる。
「無理はしていないか……?」
「……してないよ。今は……景翊と、繋がりたい」
その一言がすべてだった。
灯りが落とされ、夜気がわずかに流れ込む中で、景翊の体温がじかに重なる。
焦りも、衝動もなかった。
ただ確かめるように、肌を重ね、指を絡め、唇を落とし合う。
どこまでも丁寧で、ひとつひとつの触れ方に――愛情が込められていた。
「……こうしてると、ほんとうに僕は“僕”でいられる気がするんだ」
煌星がぽつりと零した言葉に、景翊は額を重ねた。
「お前は、いつだって“お前”だった。俺はそれに惚れた。……番いとしてでなくても、きっと惚れてた」
その言葉に、煌星の瞳が潤む。
息が絡み、腰が沈み、奥深く、ふたりの輪郭が重なってゆく。
――仮ではない、“本物”として。
肌が触れ合い、名を呼び合い、交わるたびに、互いが互いを求めていたことを、深く深く確かめてゆく。
灯が落ちた室内に、静かな吐息と、微かな衣擦れの音だけが満ちた。
夜は、深く、穏やかに流れていく。
香はすでに焚かれていなかった。
けれど、ふたりの間には確かに――甘く、暖かい“想い”の香りが、息づいていた。