宝華宮の大殿に、ふたたび重苦しい沈黙が降りていた。
壁際には魏嬪と錦麟衛の将が控え、中心には景耀と璃月。
そして、景翊と煌星が向かい合って座していた。
「調香網の終点は、すでに封じた」
魏嬪の報告に、景耀が頷く。
「沈建業の残党を装った香材移送、それが景恒の動きと繋がった。……もはや言い逃れは効かぬ」
景耀の声には、静かな怒りがあった。
王命の偽装、後宮の撹乱、そして“番”に対する攻撃。
「景恒は己の意志で香を操り、国をゆがめようとした。これは、個人の謀ではなく、皇族の名を汚した反逆である」
それを聞いていた煌星は、ふと目を伏せた。
「……香は、誰かを癒すためにあると思っていました。僕が初めて香に触れたのは、母の箱に残されていた衣の香でした。……とても優しい香りで、安心できた」
ぽつり、と落ちる言葉は、淡く、静かだった。
だが、その静けさの奥に、芯が通っている。
「それが今、誰かの心を操るために使われてるなんて。僕は……やっぱり、許せません」
その背筋は真っ直ぐだった。
市井で調香師として生きてきた男。
官吏の道を避け、政治の理から離れた彼が、今――己の意志で、国家に立ち向かおうとしている。
「煌星」
景耀が名を呼んだ。
「……君の香が、この国の命を守った。その誇りは、誰にも奪えない」
その言葉に、煌星ははっとして、ゆっくりと顔を上げる。
「ならば、命じる。景恒を拘束し、調香網を断ち切れ」
「はっ」
錦麟衛の将が膝を突いた。
「魏嬪、後宮の調香記録と帳簿はすべて差し押さえよ。璃月、君には“貴妃”として、後宮の安寧を再構築してもらう」
「……承知いたしました。お任せください、我が君」
璃月が静かに立ち上がり、深く頭を垂れる。
視線の先で、煌星が彼女と目を合わせ、わずかに頷いた。
それは、互いの役目が入れ替わっても、絆が消えぬことを知っている者同士の、静かな挨拶だった。
※
日が傾きかける頃。
城外東の隠れ屋敷。
景恒の私邸として知られるその建物に、錦麟衛が包囲を固めた。
「合図で突入する」
景翊が低く言う。
背後には煌星が立っていた。風に揺れる袖の中、封じ香の包みを握りしめている。
「……香の流通、すべての根を断つ」
その声に、景翊がちらと横目をやる。
「怖いか」
「……少し。でも、それ以上に、許せない」
煌星の指先は震えていない。
「香を穢されたままじゃ、母に顔向けできないから」
その言葉に、景翊がひとつ笑った。
「……そうだな。忘れるな、俺はいつもお前の隣にいる」
二人の視線が交差した、その瞬間。
「進め」
合図と同時に、錦麟衛が屋敷に雪崩れ込む。
次の瞬間、奥の部屋で香が弾けた。
※
屋敷の奥、屏風に囲まれた間。
その中心に、景恒はいた。
白磁の茶器を手に、微笑みを崩さないまま、侵入者を迎えた。
「随分と手荒な真似だな、甥よ」
「王命だ」
景翊の声は低く鋭い。
その後ろに煌星が立つと、景恒の目がかすかに細められる。
「ほう……“仮の貴妃”までお揃いか。だが、そちらの役目はもう終わったのでは?」
言葉の端に滲む侮蔑。
煌星は一歩、前に出た。
「そうですね。ですから煌星としてここに、います。……あなたのしてきたことを、許すわけにはいかない」
その一言に、景恒は茶を置いた。
笑みが消える。
「……まさか、こんなところで私の“香”を批判されるとは。たかだか市井で、店を持つ程度の若造が随分な口を利く」
「香を使うこと、それ自体を否定しているんじゃない。――人の心を操るために“命令”を使って嗅がせた、そのやり方を、許せないだけです」
煌星の声は静かだった。
それに景恒は、冷ややかに笑う。
「甘い。記憶は曖昧で、感情は脆い。“国家”を維持するには、それを支配しなければならない。……香は、そのための最も洗練された手段だ」
「……でも、僕にとっての香は、そうじゃない」
煌星の目がまっすぐに向けられる。
「香は、“誰かの心を支えるもの”であってほしい。……癒すためのものであってほしい。誰かの記憶に寄り添うためのものだ」
景恒の瞳がわずかに揺れた。
それは、理解ではなく、拒絶の色だった。
「……やはり、“感情”に寄り添う者に国は任せられんな」
その声に、景恒の目が細められた。
次の瞬間、彼の背後から、一人の男が踏み出す。
香を込めた小瓶を取り出し、床へと投げつけようとした、そのとき。
「させる、か……!」
煌星の手が素早く動く。
懐から取り出した香包を放ると、ぱんと小さな破裂音。
辺りに拡がったのは、強力な吸着性を持つ“香霧封殺”。
香の粒子を中和し、香材の拡散そのものを断つ技――
調香師としての最後の技だった。
「……これで、もう誰も騙されない」
景翊がその隙を突き、男を拘束。
景恒の周囲が静かに崩れていく。
「叔父上。これが、あなたの答えか」
景翊が短く問うた。
景恒は静かに立ち上がり、景翊を見つめた。
「……お前たちは、香で心を“繋いだ”という。だが私は、香で心を“制した”つもりだった。……違いは、どこにあると思う?」
景翊は答えなかった。
その代わりに煌星が、一歩前に出て言う。
「違いは、“信じる”か、“支配する”か、だと思います」
景恒は、一瞬だけ笑った。
「……ならば、信じる者が、どれほど脆く、危ういか……いずれ知る日が来るだろう」
その言葉は、敗者の最後の矜持でもあった。
「……だが、そのときが来るまで、お前たちの“絆”とやらを見せてもらおう」
そう言って、彼は自ら手を差し出した。
「拘束せよ」
錦麟衛が景恒を包囲し、静かに連行が始まる。
煌星は黙ってその背を見つめていた。
破れた香包からは、まだわずかに残り香が漂っている。
だがそれは、誰の心も惑わさず、ただ空気に溶けていくだけだった。
※
日が沈む頃、宮中の一角。
煌星は庭の縁に立ち、静かに風を感じていた。
景翊がそっと背後から寄ってくる。
「……疲れたか」
「うん。でも、不思議と……後悔はない」
煌星は、微かに笑みを浮かべて言った。
「誰かの代わりじゃなくて、“僕”として、終わらせられた気がする。……初めて、自分の“香”を選べた気がしたんだ」
景翊はその肩に手を置き、優しく触れる。
「お前の香は、ずっとお前のものだった。……それに惹かれたのが、俺だ」
そして、短く触れるような口づけ。
――今度のそれは、約束でも、誓いでもない。
ただ、互いがそこにいることを確かめるような、優しい口づけだった。
風が吹き、香が揺れる。
それはもう、操るためのものではなかった。
静かに、ただ、二人を包むだけの、温かな香だった。