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五十五、香の断絶、命の証

宝華宮の大殿に、ふたたび重苦しい沈黙が降りていた。


壁際には魏嬪と錦麟衛の将が控え、中心には景耀と璃月。

そして、景翊と煌星が向かい合って座していた。


「調香網の終点は、すでに封じた」


魏嬪の報告に、景耀が頷く。


「沈建業の残党を装った香材移送、それが景恒の動きと繋がった。……もはや言い逃れは効かぬ」


景耀の声には、静かな怒りがあった。

王命の偽装、後宮の撹乱、そして“番”に対する攻撃。


「景恒は己の意志で香を操り、国をゆがめようとした。これは、個人の謀ではなく、皇族の名を汚した反逆である」


それを聞いていた煌星は、ふと目を伏せた。


「……香は、誰かを癒すためにあると思っていました。僕が初めて香に触れたのは、母の箱に残されていた衣の香でした。……とても優しい香りで、安心できた」


ぽつり、と落ちる言葉は、淡く、静かだった。

だが、その静けさの奥に、芯が通っている。


「それが今、誰かの心を操るために使われてるなんて。僕は……やっぱり、許せません」


その背筋は真っ直ぐだった。

市井で調香師として生きてきた男。

官吏の道を避け、政治の理から離れた彼が、今――己の意志で、国家に立ち向かおうとしている。


「煌星」


景耀が名を呼んだ。


「……君の香が、この国の命を守った。その誇りは、誰にも奪えない」


その言葉に、煌星ははっとして、ゆっくりと顔を上げる。


「ならば、命じる。景恒を拘束し、調香網を断ち切れ」

「はっ」


錦麟衛の将が膝を突いた。


「魏嬪、後宮の調香記録と帳簿はすべて差し押さえよ。璃月、君には“貴妃”として、後宮の安寧を再構築してもらう」

「……承知いたしました。お任せください、我が君」


璃月が静かに立ち上がり、深く頭を垂れる。

視線の先で、煌星が彼女と目を合わせ、わずかに頷いた。


それは、互いの役目が入れ替わっても、絆が消えぬことを知っている者同士の、静かな挨拶だった。



日が傾きかける頃。


城外東の隠れ屋敷。

景恒の私邸として知られるその建物に、錦麟衛が包囲を固めた。


「合図で突入する」


景翊が低く言う。

背後には煌星が立っていた。風に揺れる袖の中、封じ香の包みを握りしめている。


「……香の流通、すべての根を断つ」


その声に、景翊がちらと横目をやる。


「怖いか」

「……少し。でも、それ以上に、許せない」


煌星の指先は震えていない。


「香を穢されたままじゃ、母に顔向けできないから」


その言葉に、景翊がひとつ笑った。


「……そうだな。忘れるな、俺はいつもお前の隣にいる」


二人の視線が交差した、その瞬間。


「進め」


合図と同時に、錦麟衛が屋敷に雪崩れ込む。

次の瞬間、奥の部屋で香が弾けた。



屋敷の奥、屏風に囲まれた間。


その中心に、景恒はいた。

白磁の茶器を手に、微笑みを崩さないまま、侵入者を迎えた。


「随分と手荒な真似だな、甥よ」

「王命だ」


景翊の声は低く鋭い。

その後ろに煌星が立つと、景恒の目がかすかに細められる。


「ほう……“仮の貴妃”までお揃いか。だが、そちらの役目はもう終わったのでは?」


言葉の端に滲む侮蔑。

煌星は一歩、前に出た。


「そうですね。ですから煌星としてここに、います。……あなたのしてきたことを、許すわけにはいかない」


その一言に、景恒は茶を置いた。

笑みが消える。


「……まさか、こんなところで私の“香”を批判されるとは。たかだか市井で、店を持つ程度の若造が随分な口を利く」

「香を使うこと、それ自体を否定しているんじゃない。――人の心を操るために“命令”を使って嗅がせた、そのやり方を、許せないだけです」


煌星の声は静かだった。

それに景恒は、冷ややかに笑う。


「甘い。記憶は曖昧で、感情は脆い。“国家”を維持するには、それを支配しなければならない。……香は、そのための最も洗練された手段だ」

「……でも、僕にとっての香は、そうじゃない」


煌星の目がまっすぐに向けられる。


「香は、“誰かの心を支えるもの”であってほしい。……癒すためのものであってほしい。誰かの記憶に寄り添うためのものだ」


景恒の瞳がわずかに揺れた。

それは、理解ではなく、拒絶の色だった。


「……やはり、“感情”に寄り添う者に国は任せられんな」


その声に、景恒の目が細められた。

次の瞬間、彼の背後から、一人の男が踏み出す。

香を込めた小瓶を取り出し、床へと投げつけようとした、そのとき。


「させる、か……!」


煌星の手が素早く動く。

懐から取り出した香包を放ると、ぱんと小さな破裂音。

辺りに拡がったのは、強力な吸着性を持つ“香霧封殺”。


香の粒子を中和し、香材の拡散そのものを断つ技――

調香師としての最後の技だった。


「……これで、もう誰も騙されない」


景翊がその隙を突き、男を拘束。

景恒の周囲が静かに崩れていく。


「叔父上。これが、あなたの答えか」


景翊が短く問うた。


景恒は静かに立ち上がり、景翊を見つめた。


「……お前たちは、香で心を“繋いだ”という。だが私は、香で心を“制した”つもりだった。……違いは、どこにあると思う?」


景翊は答えなかった。

その代わりに煌星が、一歩前に出て言う。


「違いは、“信じる”か、“支配する”か、だと思います」


景恒は、一瞬だけ笑った。


「……ならば、信じる者が、どれほど脆く、危ういか……いずれ知る日が来るだろう」


その言葉は、敗者の最後の矜持でもあった。


「……だが、そのときが来るまで、お前たちの“絆”とやらを見せてもらおう」


そう言って、彼は自ら手を差し出した。


「拘束せよ」


錦麟衛が景恒を包囲し、静かに連行が始まる。

煌星は黙ってその背を見つめていた。


破れた香包からは、まだわずかに残り香が漂っている。

だがそれは、誰の心も惑わさず、ただ空気に溶けていくだけだった。



日が沈む頃、宮中の一角。

煌星は庭の縁に立ち、静かに風を感じていた。


景翊がそっと背後から寄ってくる。


「……疲れたか」

「うん。でも、不思議と……後悔はない」


煌星は、微かに笑みを浮かべて言った。


「誰かの代わりじゃなくて、“僕”として、終わらせられた気がする。……初めて、自分の“香”を選べた気がしたんだ」


景翊はその肩に手を置き、優しく触れる。


「お前の香は、ずっとお前のものだった。……それに惹かれたのが、俺だ」


そして、短く触れるような口づけ。

――今度のそれは、約束でも、誓いでもない。


ただ、互いがそこにいることを確かめるような、優しい口づけだった。


風が吹き、香が揺れる。

それはもう、操るためのものではなかった。


静かに、ただ、二人を包むだけの、温かな香だった。


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