香房の奥、冷えた石の床に、錦麟衛の足音が響いた。
一人が壁の板を外し、露出した空間を指さす。
「……地下に続く、空気穴です。隠し香倉庫かと」
景翊は短く頷いた。
「案内しろ。煌星、お前も」
「うん……!」
香房の奥から階段を降りると、そこは狭いながらも整然とした“第二香房”だった。
棚には封じられたままの香包、紙に包まれた香材、そして……鉄箱に保管された一冊の帳簿。
景翊がそれを取り出し、煌星に手渡す。
「見覚えは?」
煌星は息を呑んだ。
「……これ、僕が以前参考にしてた香図帳の複製……いや、改竄された版だ」
頁を捲るたび、見覚えのある香のレシピが、微妙に“ねじられて”記されている。
「催情系、撹乱系、鎮静系……どれも“濃縮”前提で調整されてる……まるで兵器」
その手が、最後の一枚で止まった。
「……これは……」
表紙の裏に、挟まれていた紙片。
景翊がそれを抜き取ると、煌星の目が大きく見開かれた。
「景恒の花押……」
「しかも、依頼書の形式だ。“調香書”じゃない。“発注”だ」
景翊の声が低くなる。
「この構成、完全に皇族内の兵事記録と同じ体裁だな……」
煌星は唇を噛む。
「ってことは……景恒は、“個人の計略”じゃなく、“軍事戦略として”香を使おうとしてたってこと?」
「あるいは、“先帝の遺志の継承”とでも称するつもりだったんだろうな」
景翊が鼻を鳴らし、文書のもう一枚を抜き出す。そこには……
「……景耀陛下の印影が、写されてる」
「偽造……?」
「ああ。恐らくは、“王家による正式な依頼”と偽って、調香網を広げてた」
煌星は紙の端を指先で撫でた。
その震えは怒りとも、恐怖とも違った。もっと静かで、深いものだった。
「……香で人の心を壊して、命令で嗅がせる。“王命”だと言えば、誰も疑わない……」
「だからこそ、“俺たちの番”が邪魔だった」
景翊の言葉は低く、確かだった。
「鳳華と龍血の“信頼”が、最も揺るがぬものと知られているからこそ――お前と俺を壊す香が、まず必要だった」
煌星の眉が、わずかに寄る。
「……許せない」
その言葉は、苦しみに濡れながらも、決して濁らなかった。
「誰かの名を偽って、誰かの想いを壊して……そんな香を作ったなんて、許せない」
景翊はその横顔を見つめ、短く息を吐いた。
「……まだ証拠は足りん。だが、これなら……兄上に動いてもらえるかもしれん」
煌星が頷いた、そのとき。
「殿下、貴妃様。報告です――城外の東側倉庫で、“調香資材の不審な移送”が始まっています。荷主の名義は……沈建業のかつての部下です」
「……残党か」
景翊の瞳に、鋭い光が宿る。
「……あと一手。締めに行くぞ」
香の残り香が、地下の静寂に淡く揺れていた。
だが、今やその香に飲まれる者はいない。
二人の足取りは、次なる戦へと向けて、迷いなく歩を進めていた。
※
風が静かに渡る蘭台宮。
遠く鳥の声が響く中、景耀は机上に広げられた密書に目を落としていた。
筆を持つ手は落ち着いていたが、視線の奥には、張り詰めた光が宿っている。
「……景恒の印か。やはり、そこに繋がったか」
その声に、傍らで控えていた璃月が顔を上げた。
「確証が得られたの?」
「香材の流通帳、そして“王命”を偽装した発注書……これは、もはや私的な謀ではない。軍事と政を巻き込んだ、明確な反逆だ」
璃月は短く息を吐いた。
「……沈建業を表から排した今、彼の遺した“香の仕組み”を引き継げる者は限られていた。景恒がその一人であることは、以前から予測していた、けれど……」
「だが、証拠がなければ動けなかった。ようやく……動ける」
景耀は静かに席を立ち、書案机に向き直る。
「王命を偽し、後宮を壊し、鳳華と龍血の絆すら利用しようとした。その上で、この国の“秩序”を再定義しようとしたのなら――」
筆先が滑る。景耀の字は凛として、揺らぎがない。
「正当なる法と、皇命により粛清する」
璃月が静かに頷いた。
「そのための準備は、すでに。……煌星が、すべてを繋いできたのです」
「……感謝している。璃月、君にも。君の双子の弟にも」
璃月は微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。
「ならば、次は私たちの番ですね。……彼らが手にした“証”を、この朝廷に通す番です」
※
その頃、城外の東倉庫前。
隠された通路の先、数名の男たちが大きな包みを荷車へと積み込んでいた。
香材を覆う布には、かつて沈建業が好んだ私印が滲んでいる。
そこへ、軽やかな足音。
「……予想通りだな」
景翊がひとつ息を吐き、傍らの煌星へ目をやる。
「これで、“香の流通”の終点も確定できる」
煌星は頷いた。
「封じ込める準備が整った、ってことだね」
「後は、挟撃するだけだ」
景翊は合図を出す。
闇に潜んでいた錦麟衛が一斉に動いた。
沈黙のうちに進む“断香”の一手。
煌星は一歩下がり、その様子を見守った。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
香を愛し、香に救われ、香に翻弄された。
けれど今、その香を、己の手で終わらせようとしている。
(……僕の手で、終わらせる)
その背後で夜風が吹く。
仄かに甘く、だが今はもう、苦くない。
次に戦場に立つとき、自分は“誰かの代わり”ではなく、ただの“蘇煌星”として在る。
それを告げるように、彼はそっと懐の香包に触れた。