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五十四、 香の奥、封じられた手紙

香房の奥、冷えた石の床に、錦麟衛の足音が響いた。

一人が壁の板を外し、露出した空間を指さす。


「……地下に続く、空気穴です。隠し香倉庫かと」


景翊は短く頷いた。


「案内しろ。煌星、お前も」

「うん……!」


香房の奥から階段を降りると、そこは狭いながらも整然とした“第二香房”だった。

棚には封じられたままの香包、紙に包まれた香材、そして……鉄箱に保管された一冊の帳簿。


景翊がそれを取り出し、煌星に手渡す。


「見覚えは?」


煌星は息を呑んだ。


「……これ、僕が以前参考にしてた香図帳の複製……いや、改竄された版だ」


頁を捲るたび、見覚えのある香のレシピが、微妙に“ねじられて”記されている。


「催情系、撹乱系、鎮静系……どれも“濃縮”前提で調整されてる……まるで兵器」


その手が、最後の一枚で止まった。


「……これは……」


表紙の裏に、挟まれていた紙片。

景翊がそれを抜き取ると、煌星の目が大きく見開かれた。


「景恒の花押……」

「しかも、依頼書の形式だ。“調香書”じゃない。“発注”だ」


景翊の声が低くなる。


「この構成、完全に皇族内の兵事記録と同じ体裁だな……」


煌星は唇を噛む。


「ってことは……景恒は、“個人の計略”じゃなく、“軍事戦略として”香を使おうとしてたってこと?」

「あるいは、“先帝の遺志の継承”とでも称するつもりだったんだろうな」


景翊が鼻を鳴らし、文書のもう一枚を抜き出す。そこには……


「……景耀陛下の印影が、写されてる」

「偽造……?」

「ああ。恐らくは、“王家による正式な依頼”と偽って、調香網を広げてた」


煌星は紙の端を指先で撫でた。

その震えは怒りとも、恐怖とも違った。もっと静かで、深いものだった。


「……香で人の心を壊して、命令で嗅がせる。“王命”だと言えば、誰も疑わない……」

「だからこそ、“俺たちの番”が邪魔だった」


景翊の言葉は低く、確かだった。


「鳳華と龍血の“信頼”が、最も揺るがぬものと知られているからこそ――お前と俺を壊す香が、まず必要だった」


煌星の眉が、わずかに寄る。


「……許せない」


その言葉は、苦しみに濡れながらも、決して濁らなかった。


「誰かの名を偽って、誰かの想いを壊して……そんな香を作ったなんて、許せない」


景翊はその横顔を見つめ、短く息を吐いた。


「……まだ証拠は足りん。だが、これなら……兄上に動いてもらえるかもしれん」


煌星が頷いた、そのとき。


「殿下、貴妃様。報告です――城外の東側倉庫で、“調香資材の不審な移送”が始まっています。荷主の名義は……沈建業のかつての部下です」


「……残党か」


景翊の瞳に、鋭い光が宿る。


「……あと一手。締めに行くぞ」


香の残り香が、地下の静寂に淡く揺れていた。

だが、今やその香に飲まれる者はいない。


二人の足取りは、次なる戦へと向けて、迷いなく歩を進めていた。



風が静かに渡る蘭台宮。


遠く鳥の声が響く中、景耀は机上に広げられた密書に目を落としていた。

筆を持つ手は落ち着いていたが、視線の奥には、張り詰めた光が宿っている。


「……景恒の印か。やはり、そこに繋がったか」


その声に、傍らで控えていた璃月が顔を上げた。


「確証が得られたの?」

「香材の流通帳、そして“王命”を偽装した発注書……これは、もはや私的な謀ではない。軍事と政を巻き込んだ、明確な反逆だ」


璃月は短く息を吐いた。


「……沈建業を表から排した今、彼の遺した“香の仕組み”を引き継げる者は限られていた。景恒がその一人であることは、以前から予測していた、けれど……」

「だが、証拠がなければ動けなかった。ようやく……動ける」


景耀は静かに席を立ち、書案机に向き直る。


「王命を偽し、後宮を壊し、鳳華と龍血の絆すら利用しようとした。その上で、この国の“秩序”を再定義しようとしたのなら――」


筆先が滑る。景耀の字は凛として、揺らぎがない。


「正当なる法と、皇命により粛清する」


璃月が静かに頷いた。


「そのための準備は、すでに。……煌星が、すべてを繋いできたのです」

「……感謝している。璃月、君にも。君の双子の弟にも」


璃月は微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。


「ならば、次は私たちの番ですね。……彼らが手にした“証”を、この朝廷に通す番です」



その頃、城外の東倉庫前。


隠された通路の先、数名の男たちが大きな包みを荷車へと積み込んでいた。

香材を覆う布には、かつて沈建業が好んだ私印が滲んでいる。


そこへ、軽やかな足音。


「……予想通りだな」


景翊がひとつ息を吐き、傍らの煌星へ目をやる。


「これで、“香の流通”の終点も確定できる」


煌星は頷いた。


「封じ込める準備が整った、ってことだね」

「後は、挟撃するだけだ」


景翊は合図を出す。

闇に潜んでいた錦麟衛が一斉に動いた。

沈黙のうちに進む“断香”の一手。


煌星は一歩下がり、その様子を見守った。

その瞳には、もはや迷いはなかった。


香を愛し、香に救われ、香に翻弄された。

けれど今、その香を、己の手で終わらせようとしている。


(……僕の手で、終わらせる)


その背後で夜風が吹く。

仄かに甘く、だが今はもう、苦くない。

次に戦場に立つとき、自分は“誰かの代わり”ではなく、ただの“蘇煌星”として在る。

それを告げるように、彼はそっと懐の香包に触れた。


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