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五十三、記憶と香の檻、君が君でなくなる前に

仄暗い香房の中、壁に沿って設けられた棚には、かつての調香器具や香材の欠片が無造作に並んでいた。


景翊と煌星は共にこの場所へ足を踏み入れたものの、中へ入るなり言葉を交わさぬまま、それぞれ別の棚へと向かっていた。


景翊は奥の壁際、調香図の複写や仕入れ帳など“資金の流れ”を記した記録書を探る。

その視線は冷静で、まるで戦場の布陣を読み解く軍師のような鋭さがあった。


一方、煌星は反対側の香材棚へ。

並べられた香包と瓶の並び――そして、ラベルの癖に目を凝らす。


「……この並べ方、僕が使ってた分類と似てる」


かつて使っていた記憶が、細部を思い出させる。

香材の扱い方、重ね置きの順、蓋の閉め方ひとつで、そこに誰の手が加わったかがわかる。


「これは……僕の……?」


呟きと同時に、煌星の指先が小さな帳簿へと触れた瞬間だった。


棚の奥から、ほのかな煙が立ちのぼる。


わずかに甘く、どこか懐かしいような、それでいて肌に纏わりつくような粘着質な気配――


(……まずい)


煌星の胸に、直感的な危機が走る。

次の瞬間、脚がふらりと揺らぎ、壁へと手をつく。


「この香……感情を撹乱させる……っ」


呼吸が苦しい。

視界は正常のままだが、意識の奥で感情がざわつく。


“本当にお前でよかったのか?”

“代わりでしかなかったのではないか?”


誰かの声――いや、自分の中にある微かな疑念が浮き彫りになる。


「僕は……ほんの一時だけ、璃月の代わりをしていただけで……」


まるで香が、その“ほんの一時”を永遠の罪であるかのように強調してくる。


「煌星!」


振り返った景翊がすぐに駆け寄り、彼の身体をしっかりと抱きとめた。


香が漂う中、景翊の体温が、荒れる感情を包み込むように触れる。


「お前が揺らぐには、まだ早い」

「……っ、やめて……巻き込まれる……」

「いいや。お前が迷うなら、その手を引くのが番の役目だ」


低く、しかし真っ直ぐな声で景翊が囁いた。


香の作用は、視覚や記憶を揺るがすものではなかった。

それはもっと原始的で、もっと厄介なもの――感情の“根”を揺さぶる類の香だった。


景翊の腕の中で、煌星の呼吸が浅くなる。


「……僕が、ここにいる意味って……なんなんだろう」


ぽつりとこぼれたその声は、普段の煌星からは想像もつかないほど、か細いものだった。


「誰でもよかったのに、たまたま僕だっただけで。仮の貴妃、番の代わり、そういう存在で……」


香が揺さぶっているのは、記憶ではなく、“価値”の感覚。

だがその瞬間、景翊の手が強く煌星の背を抱きしめた。


「違う」


その声は静かだったが、確信に満ちていた。


「たまたま、なんかじゃない。俺が“選んだ”んだ。お前という存在を」


煌星の肩が、びくりと揺れる。


「お前は、誰の代わりでもない。“蘇煌星”を俺は求めている」


その言葉とともに、景翊の手がそっと頬に添えられ、顔を近づける。


「信じられないなら、今から信じさせる」


言い終えると同時に、景翊は彼の唇を奪った。


迷いを押し流すような、深い口付けだった。

舌が滑り込み、熱と共に絡み合う。


呼吸も、鼓動も、香さえも、すべてが混ざり合う。

熱に浮かされたように、煌星の瞳が閉じる。


指先が震える。

だが、その震えはもう恐れではなかった。


――自分の存在が、求められている。

――“誰でもない僕”が、今、たった一人に抱きしめられている。


唇が離れると、景翊の声が囁くように落ちた。


「俺は、お前の姿を見た時から決めてた。お前が後宮にきた、あの日だ。翻弄されるくせに、真っ直ぐで、愚直で。……自分で道を選ぼうとする、そんなお前が、愛しくてたまらなかった」


そしてもう一度、唇を近づける。

今度は深く、確かに、“誓い”のような口づけだった。


煌星の目に、涙が浮かぶ。


「……僕は、璃月じゃない。“僕”として……」

「俺は璃月を求めていない。お前だけだ」

「……景翊」


景翊の笑みが深くなる。

ふたりの額が触れ合った。

香の残滓はまだ微かに漂っているが、その影響はもう、何も届かない。


ふたりの呼吸だけが、しっかりと重なっていた。

そして、沈黙を破るように――景翊が静かに口を開いた。


「……この香房、やはり奴の指図だな」

「……景恒?」


煌星が顔を上げると、景翊は視線を香棚の奥に向けたまま、目を細めた。


「香材の流通帳に不自然な抜けがある。誰かが“特定の時期だけ”記録を消してる。……しかも、俺たちが後宮に出入りするようになった頃と一致してる」

「つまり……」

「俺たちの動きに合わせて、香の流れを操作してたってことだ。璃月が離れて、“貴妃”がお前になったタイミングで、だ」


景翊は床を軽く蹴って、視線を棚から香炉に移す。


「ここを壊すための香じゃない。“代わり”を潰すための香でもない。――これは、“番”を潰すための香だ」


煌星の表情が静かに引き締まる。


「……番を?」

「ああ。“番”になり得る鳳華と、“選ぶ側”である龍血。この両方に、信頼や愛情の揺らぎを仕込むには、記憶じゃ足りない。“感情”を壊すのが、手っ取り早いからな」


その口ぶりは、既に確信に近かった。


「……この先、証拠が出る。香材商か、香の設計図か……奴の“意図”そのものが」


煌星は景翊の横顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「じゃあ、ここからが本番だね……景恒に見せてやろうよ、僕たちの“強さ”を」

「ああ。……それでこそ、お前だ」


どこか挑むようなその言葉に、景翊の口元がわずかに緩んだ。

ふたりの間に流れる空気は、かつてよりも遥かに静かで、強い。

外で風が鳴くように吹いた。


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