月明かりも届かぬ、城外の裏路地。
煌星は、仄暗い香房の扉を前に立ち止まった。
「……ここだ」
かつて、彼が調香師として香材を仕入れていた場所。
だが、今はただの“取引先”ではなかった。景恒の庇護を受け、禁制香の調香が行われている密所。
静かに後ろを振り返ると、景翊が肩越しに目を細めた。
「本当に……ここで?」
「間違いない。香りは覚えてる。……脳が、体が、覚えてるんだ」
その言葉に、景翊は微かに笑った。
「……調香師の本能ってやつか」
「やめてよ、そういう言い方」
拗ねたように言い返す煌星の声は、けれど震えていた。
「……怖いんだ」
「……」
「もし過去に自分が知らないこととはいえ……もし、誰かを傷つける香を作っていたとしたら――」
「お前は、しないさ」
不意に、強く腕を掴まれる。
その手のひらは、今まで見た誰のものよりも熱く、確かなぬくもりを宿していた。
「蘇煌星。俺の番いにして、都一の調香師。そんなお前が“香”を間違えることはない」
「……景翊」
煌星は一瞬、呼吸を忘れた。
――俺様で、余裕たっぷりで、自分をからかってばかりの皇帝の影武者。
そう思っていたのに、いつからだろう。こんな風に、真っ直ぐな言葉を投げてくるようになったのは。
いや、この男はいつでも“真っ直ぐ”であったかもしれない。
「お前が怖いなら、俺が傍にいればいい。手を握って、逃げるなって言ってやる」
「……それ、番のセリフとしてはズルいんだけど……」
「番だから言うんだ」
煌星は目を伏せ、そっとその手を握り返す。
「じゃあ、言うよ。……怖いけど、景翊がいるなら、進める。だから……隣、離れないで」
景翊は、ふっと笑った。
「言ったな。……じゃあ、お前が望む限り、どこにも行かない」
そして、二人は香房の扉を、そっと押し開けた。
――その瞬間、仄暗い空気の中に、ほんの微かな残り香が流れ出す。
柔らかな甘さの中に、微かに金属を擦ったような苦み。心の奥を撫でながら、少しずつ侵食してくる香りだった。
それは、かつて煌星が調香した“癒しの香”と、明らかに異なる。
違和感。いや、記憶の中にない“ねじれ”が混じっている。
「……この香り……おかしい」
「わかるのか?」
「うん。……これ、“僕の香り”を模してある。でも、違う。もっと……底の方に、別の何かが混じってる」
景翊が剣を抜き、静かに奥を見やる。
「この奥だな……」
煌星は頷いた。
(俺じゃない“誰かの記憶”を、この香は植え付けようとしてる……?)
仄暗き香房で、ふたりの足音が重なった。