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五十二、仄暗き香房、偽りの記憶

月明かりも届かぬ、城外の裏路地。

煌星は、仄暗い香房の扉を前に立ち止まった。


「……ここだ」


かつて、彼が調香師として香材を仕入れていた場所。

だが、今はただの“取引先”ではなかった。景恒の庇護を受け、禁制香の調香が行われている密所。


静かに後ろを振り返ると、景翊が肩越しに目を細めた。


「本当に……ここで?」

「間違いない。香りは覚えてる。……脳が、体が、覚えてるんだ」


その言葉に、景翊は微かに笑った。


「……調香師の本能ってやつか」

「やめてよ、そういう言い方」


拗ねたように言い返す煌星の声は、けれど震えていた。


「……怖いんだ」

「……」


「もし過去に自分が知らないこととはいえ……もし、誰かを傷つける香を作っていたとしたら――」

「お前は、しないさ」


不意に、強く腕を掴まれる。

その手のひらは、今まで見た誰のものよりも熱く、確かなぬくもりを宿していた。


「蘇煌星。俺の番いにして、都一の調香師。そんなお前が“香”を間違えることはない」

「……景翊」


煌星は一瞬、呼吸を忘れた。


――俺様で、余裕たっぷりで、自分をからかってばかりの皇帝の影武者。

そう思っていたのに、いつからだろう。こんな風に、真っ直ぐな言葉を投げてくるようになったのは。

いや、この男はいつでも“真っ直ぐ”であったかもしれない。


「お前が怖いなら、俺が傍にいればいい。手を握って、逃げるなって言ってやる」

「……それ、番のセリフとしてはズルいんだけど……」

「番だから言うんだ」


煌星は目を伏せ、そっとその手を握り返す。


「じゃあ、言うよ。……怖いけど、景翊がいるなら、進める。だから……隣、離れないで」


景翊は、ふっと笑った。


「言ったな。……じゃあ、お前が望む限り、どこにも行かない」


そして、二人は香房の扉を、そっと押し開けた。


――その瞬間、仄暗い空気の中に、ほんの微かな残り香が流れ出す。


柔らかな甘さの中に、微かに金属を擦ったような苦み。心の奥を撫でながら、少しずつ侵食してくる香りだった。

それは、かつて煌星が調香した“癒しの香”と、明らかに異なる。

違和感。いや、記憶の中にない“ねじれ”が混じっている。


「……この香り……おかしい」

「わかるのか?」

「うん。……これ、“僕の香り”を模してある。でも、違う。もっと……底の方に、別の何かが混じってる」


景翊が剣を抜き、静かに奥を見やる。


「この奥だな……」


煌星は頷いた。


(俺じゃない“誰かの記憶”を、この香は植え付けようとしてる……?)


仄暗き香房で、ふたりの足音が重なった。


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