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五十一、黎明の行方、決意の香

煌星が密偵から渡された調書を読み終えたのは、まだ夜が明けきらぬ頃だった。

蘇家とかつて取引のあった香材商――今は景恒の庇護下にある。その名前に、心当たりがあった。


(……確か、二年前。開店したばかりの店に、何度か香材を持ち込んでくれた業者……名乗っていた、あの名)


当時、急に取引が途絶えた相手。その理由が、いま繋がった。


(顔を覚えているのは、この中で僕だけだと思う。なら――僕が行くのが一番早い)


煌星は静かに香包を懐に納め、ひとつ息を吐いた。



日が昇り、少し経った頃。

煌星は“璃月”として張嬪の私室を訪ねた。

張嬪は少し驚いた顔をしながらも、すぐに姿勢を正した。


「……まだ、顔を見せに来てくれるのね」

「貴妃として、挨拶は必要ですから」


煌星はにこやかに微笑む。


「あなたが選んだことは、正しいとは言えません。でも、あなた自身があの香に苦しめられていたこと……わかってます」


張嬪は唇を噛み、目を伏せた。


「私は……璃月様が“番”になってしまうのが、怖かった。だから、壊したかったのかも」


煌星は静かに頷いた。


「私も──あなたが選ばれていたら、一緒のようにしたかもですよ?だから、もう……気にしないでいましょう?」


張嬪の瞳に、涙が浮かんだ。


「……あなたって、ほんとにずるい」

「そうでないと、貴妃にはなれませんでしょう?」


煌星は一歩退き、冗談めかした口調で告げながら優しく微笑む。


「また、いつか。香を送りますね」


張嬪は俯いたまま、拳を握りしめる。

その手は震えていたが──かすかに、香の余韻が指先を包んでいた。

それは、過ちの記憶ではなく、ようやく手にした「赦し」の温度だった。


張嬪は何も言わず、ただ深く頭を下げた。



部屋に戻ると、景翊がそこには居た。

椅子に座り、片手には茶器がある。

まだ日の高い時間だ。

珍しいな、と思いながら煌星は扉を閉めた。


「もうお仕事は終わったの?皇帝陛下」


煌星は静かに腰を下ろし、景翊の隣に座った。

景翊は茶器を置くと、煌星の頬に手を伸ばす。


「……お前、後宮を出る気だな……?」


その声は低く、しかし優しさを含んでいた。

煌星は一瞬目を開き、次いで微苦笑を浮かべる。


「バレたか……敵の香房が、僕が昔、店を開いていた頃に取引していた商人と繋がっていた。魏嬪や錦麟衛も動いてくれてるけど……顔を覚えているのは、きっと僕だけ」

「……危険だ」


眉を顰める景翊に、煌星は言葉を続けた。


「だからこそ、僕が行く意味がある。僕が、“璃月”じゃなく、“煌星”として」


頬に触れていた手に、煌星はそっと自分の手を重ねる。


「駄目だ。一人でなんて行かせられるか……守る。何があっても、必ず」


その手のぬくもりが、煌星の胸を満たしていく。


「ありがとう。……でも、今回だけは、僕の方が先に歩くよ。僕だけなら、病気、とか言えるけど“皇帝”と“貴妃”が消えちゃまずいでしょう?」


景翊が口を開きかけた、その瞬間――

続き間の奥から、衣擦れの音とともにひとつの影が現れた。


「……変なところだけ兄弟で似てるのよねぇ」


現れたのは璃月だった。

薄衣をまとい、変わらぬ涼やかな表情で二人を見つめていた。


「璃月……!」


驚きの声を漏らす煌星に、璃月はかすかに頷いた。


「貴妃の座は、あなたが守ってくれた。十分すぎるほどよ。……だから私が戻るわ。そして、陛下も。もう大丈夫よ」


璃月はふわりと微笑んだ。


「……だから、お願いね。景翊殿下。煌星を守ってあげて。その子、見た目よりずっと無茶する子だから」


景翊が頷いた。


「もちろん。番として、誓う」


璃月は、軽く目を伏せると、頭を下げる。


煌星はそれを見て、ふっと微笑むと、改めて景翊を見つめた。

その瞳には、恐れはなかった。

香の道を歩いてきた自分自身が、今ようやく選び取った進むべき未来。


「……じゃあ、先には行かない。一緒に行ってくれる?」


煌星の問いに、景翊は目を細めて微笑み、答えは言葉ではなく抱擁で返した。


その夜。

二つの影が、後宮を静かに後にした。

その足音だけが、静けさを裂くように、夜の空気に溶けていった。


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