煌星が密偵から渡された調書を読み終えたのは、まだ夜が明けきらぬ頃だった。
蘇家とかつて取引のあった香材商――今は景恒の庇護下にある。その名前に、心当たりがあった。
(……確か、二年前。開店したばかりの店に、何度か香材を持ち込んでくれた業者……名乗っていた、あの名)
当時、急に取引が途絶えた相手。その理由が、いま繋がった。
(顔を覚えているのは、この中で僕だけだと思う。なら――僕が行くのが一番早い)
煌星は静かに香包を懐に納め、ひとつ息を吐いた。
※
日が昇り、少し経った頃。
煌星は“璃月”として張嬪の私室を訪ねた。
張嬪は少し驚いた顔をしながらも、すぐに姿勢を正した。
「……まだ、顔を見せに来てくれるのね」
「貴妃として、挨拶は必要ですから」
煌星はにこやかに微笑む。
「あなたが選んだことは、正しいとは言えません。でも、あなた自身があの香に苦しめられていたこと……わかってます」
張嬪は唇を噛み、目を伏せた。
「私は……璃月様が“番”になってしまうのが、怖かった。だから、壊したかったのかも」
煌星は静かに頷いた。
「私も──あなたが選ばれていたら、一緒のようにしたかもですよ?だから、もう……気にしないでいましょう?」
張嬪の瞳に、涙が浮かんだ。
「……あなたって、ほんとにずるい」
「そうでないと、貴妃にはなれませんでしょう?」
煌星は一歩退き、冗談めかした口調で告げながら優しく微笑む。
「また、いつか。香を送りますね」
張嬪は俯いたまま、拳を握りしめる。
その手は震えていたが──かすかに、香の余韻が指先を包んでいた。
それは、過ちの記憶ではなく、ようやく手にした「赦し」の温度だった。
張嬪は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
※
部屋に戻ると、景翊がそこには居た。
椅子に座り、片手には茶器がある。
まだ日の高い時間だ。
珍しいな、と思いながら煌星は扉を閉めた。
「もうお仕事は終わったの?皇帝陛下」
煌星は静かに腰を下ろし、景翊の隣に座った。
景翊は茶器を置くと、煌星の頬に手を伸ばす。
「……お前、後宮を出る気だな……?」
その声は低く、しかし優しさを含んでいた。
煌星は一瞬目を開き、次いで微苦笑を浮かべる。
「バレたか……敵の香房が、僕が昔、店を開いていた頃に取引していた商人と繋がっていた。魏嬪や錦麟衛も動いてくれてるけど……顔を覚えているのは、きっと僕だけ」
「……危険だ」
眉を顰める景翊に、煌星は言葉を続けた。
「だからこそ、僕が行く意味がある。僕が、“璃月”じゃなく、“煌星”として」
頬に触れていた手に、煌星はそっと自分の手を重ねる。
「駄目だ。一人でなんて行かせられるか……守る。何があっても、必ず」
その手のぬくもりが、煌星の胸を満たしていく。
「ありがとう。……でも、今回だけは、僕の方が先に歩くよ。僕だけなら、病気、とか言えるけど“皇帝”と“貴妃”が消えちゃまずいでしょう?」
景翊が口を開きかけた、その瞬間――
続き間の奥から、衣擦れの音とともにひとつの影が現れた。
「……変なところだけ兄弟で似てるのよねぇ」
現れたのは璃月だった。
薄衣をまとい、変わらぬ涼やかな表情で二人を見つめていた。
「璃月……!」
驚きの声を漏らす煌星に、璃月はかすかに頷いた。
「貴妃の座は、あなたが守ってくれた。十分すぎるほどよ。……だから私が戻るわ。そして、陛下も。もう大丈夫よ」
璃月はふわりと微笑んだ。
「……だから、お願いね。景翊殿下。煌星を守ってあげて。その子、見た目よりずっと無茶する子だから」
景翊が頷いた。
「もちろん。番として、誓う」
璃月は、軽く目を伏せると、頭を下げる。
煌星はそれを見て、ふっと微笑むと、改めて景翊を見つめた。
その瞳には、恐れはなかった。
香の道を歩いてきた自分自身が、今ようやく選び取った進むべき未来。
「……じゃあ、先には行かない。一緒に行ってくれる?」
煌星の問いに、景翊は目を細めて微笑み、答えは言葉ではなく抱擁で返した。
その夜。
二つの影が、後宮を静かに後にした。
その足音だけが、静けさを裂くように、夜の空気に溶けていった。