黎明の光が後宮の瓦に差し込む頃、煌星はすでに魏嬪との密会の準備を整えていた。
前夜、張嬪から受け取った濃縮香包は、今や煌星の懐に眠っている。
(あれは“ただの安眠香”じゃない。……明らかに、誰かを動かすためのもの)
香棚から別の香材を一つ取り出し、煌星は短く息を吐いた。
※
「これは、軍用の鎮静香に近い構成ですわね」
魏嬪の言葉に、煌星は目を見開いた。
「軍用……?」
「ええ。かつて、戦場で兵の精神を安定させるために用いられた調香法。現在は禁制扱いです。城内に出回るはずがありません」
卓上に広げられた調香図には、龍脳、合歓、青梅皮、それに極少量の刺激成分が記されている。
「……誰かを“誘導”するための香、と張嬪は言っていた」
「おそらく。“発情”や“混乱”を誘うには、より濃縮された形が必要。張嬪の持っていたあの香こそが、その証拠」
魏嬪は香包の紙を指で撫でた。
「調香された場所を突き止めましょう。錦麟衛には、既に動いてもらっています」
煌星は頷き、静かに呟いた。
「……きっと、ここを壊すために来ている。狙いは全部だよ」
※
その夜。
煌星は帳の内で、整理した香材を紙に包み、手帳に記録を付けていた。
静かな足音のあと、扉がそっと開く。
「今夜も、起きてると思った。身体を壊すなよ」
景翊の声に、煌星は顔を上げて微笑んだ。
「うん。……まだ、考えたいことがあって」
景翊はそばに座り、机の上に目を落とした。
「張嬪のこと、よく動いてくれたな」
「ううん……彼女のしたことは良くないことだとは思うよ。でも……傷つけられて、そのまま黙ってるのは違うかな、って」
煌星の声は静かだった。
「僕、最初はただの“仮の番”で、“代わり”だと思ってた。でも、誰かの役に立ちたい、と思えるようになった。……それだけで、少し強くなれた気がする」
景翊はその言葉をしばし黙って聞いていた。
「……お前は、もう誇りだ」
煌星が頬を染めて目をそらす。
「そんな大げさに言わなでいいよ……」
だがそのとき、帳の外から急ぎの足音。
扉が控えめに叩かれ、密偵の影が滑り込んできた。
「貴妃様、陛下。……香の出処が判明しました」
景翊がすっと姿勢を正す。
「詳しく」
「南部の軍施設近くにある私設香房にて、極めて近い香の残香が確認されました。さらに、その者は……蘇家と過去に因縁を持っております」
煌星の眉が動く。
魏嬪は帳の奥から、密書を一通取り出した。
「……“濃縮香”を仕立てたのは、数年前に蘇家と取引があった城外の香材商。今は、景恒の庇護下にあると判明しました」
その言葉に、煌星は動きを止めた。
「え……僕の……店に? いや、そんな名前、覚えが……うそ……」
眉を寄せ、記憶をたどる。
「どれくらい前……?」
「およそ2年前ですね」
「店を開いてすぐの頃だよ、それだと。当時、香材を卸してくれていた業者……いた、けど……あの人、そんな……景恒の……」
驚きと困惑が入り混じった声が、静かな室内に落ちた。
「今の王家と繋がりが深い蘇家……どちらも潰せる機会と言うわけだ」
煌星は、しばし無言のまま、香包を握りしめた。
(だったら、僕は“璃月”じゃなく、“煌星”として立たなきゃいけないんじゃないか?)
「……僕が行きます」
その瞳に、恐れはなかった。
夜が深まり、戦いの気配が静かに芽吹いていた。