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四十九、沈む香、仄かな赦し

朝焼けが後宮の屋根を赤く染める頃、煌星は早くも身支度を整えていた。

その目には眠気の色もなく、むしろ何かを決意したような光が宿っている。


(張嬪があの香を仕掛けた理由……もう少しで見える気がする)


魏嬪からの報告で、香の出処が城外にあると分かり始めていた。

煌星は早朝の静けさの中、錦麟衛の密偵と接触する段取りを進めていたが——


「……張嬪様のご様子が……」


密偵に引き継ぎを行おうとしていた矢先、別の侍女からの報告が滑り込んできた。

動揺を隠そうとする声に、ただならぬ気配を感じた煌星は、すぐに身を翻した。



煌星は静かに張嬪の私室の前に立っていた。

魏嬪からの報せで、張嬪の様子がおかしいと知ったのは夕方。

しかし、侍女は口を閉ざし、詳細を語らなかった。


(嫌な予感がする……)


香が使われていたなら、張嬪も例外ではないかもしれない。

煌星は決意を固め、扉をそっと開いた。


中は、淡い煙に包まれていた。

強く焚かれた香が、部屋の空気を鈍く甘く染めている。

煌星は袖で口元を覆い、部屋の中へと入る。


「……張嬪?」


室内の奥。ふとんの縁に、女が膝を抱えて座っていた。

着衣は整っているが、指先は小刻みに震え、顔は汗に濡れている。


「誰……? ああ……璃月様……?」


声はかすれていた。

煌星は急いで香炉に蓋をして、窓を開け放つ。

そのまま水差しに手を伸ばし、杯を満たして差し出した。


「飲んで。……少し、落ち着くから」


張嬪は、震える手で受け取り、何口か飲んだ後、深く息を吐いた。


「……どうして、来たの」

「魏嬪から、あなたの様子がおかしいと聞いて。……まさか、自分にまで使ってるなんて」


張嬪は少しだけ笑った。


「だって……“あの人”は言ったの。皆に配れって。……そうすれば、見返りがあるって……でも……」


そこまで言って、肩を震わせる。


「使えって言われた香を、自分にも使ってしまったの?」


張嬪は、黙って頷いた。


煌星は目を伏せる。

怒りが、湧いていた。

けれどそれは、張嬪に対してではない。


「……こんな、使い方をするなんて」


拳を握った。


「……使い捨てるつもりだったんだ。あなたの想いも、悩みも、全部……」


張嬪の目に、涙が浮かぶ。

煌星はその肩に、そっと羽織をかけた。


「こんなの、許せるはずがない。あなただって、こんなことを望んだわけじゃないでしょう」

「私は……怖かったの。璃月様がどんどん、私たちの前を歩いていくから。……怖かった……陛下の“番”は璃月様ひとり……」

「それでも、こんな風に壊れる必要はなかった。あなたは、あなたとしていればよかった」


張嬪は、しばらく嗚咽をこらえていた。

やがて、煌星の手をそっと掴み、か細く言った。


「……璃月様って、ほんと、ずるい……」


その言葉に、煌星は静かに微笑んだ。


「……ずるくてもいいと思えるようになったんだ。誰かを守るためなら」


彼女は、小さな香包を一つ差し出した。


「これが“濃縮された香”です。本当に誘導したい相手に使うもの。……用意したのは、私じゃない」

「……誰が?」

「……後宮の者ではありません」


張嬪の震える唇。

煌星はその香包をそっと受け取り、深く息を吸った。


(この香……発情だけじゃない。“混乱”も引き起こす。生理的反応作用を持つ物質操作の準備段階だ)


──“璃月”ごと後宮を壊す準備をしている……。


その足音が、すぐそこまで来ていると、煌星は感じていた。


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