朝焼けが後宮の屋根を赤く染める頃、煌星は早くも身支度を整えていた。
その目には眠気の色もなく、むしろ何かを決意したような光が宿っている。
(張嬪があの香を仕掛けた理由……もう少しで見える気がする)
魏嬪からの報告で、香の出処が城外にあると分かり始めていた。
煌星は早朝の静けさの中、錦麟衛の密偵と接触する段取りを進めていたが——
「……張嬪様のご様子が……」
密偵に引き継ぎを行おうとしていた矢先、別の侍女からの報告が滑り込んできた。
動揺を隠そうとする声に、ただならぬ気配を感じた煌星は、すぐに身を翻した。
※
煌星は静かに張嬪の私室の前に立っていた。
魏嬪からの報せで、張嬪の様子がおかしいと知ったのは夕方。
しかし、侍女は口を閉ざし、詳細を語らなかった。
(嫌な予感がする……)
香が使われていたなら、張嬪も例外ではないかもしれない。
煌星は決意を固め、扉をそっと開いた。
中は、淡い煙に包まれていた。
強く焚かれた香が、部屋の空気を鈍く甘く染めている。
煌星は袖で口元を覆い、部屋の中へと入る。
「……張嬪?」
室内の奥。ふとんの縁に、女が膝を抱えて座っていた。
着衣は整っているが、指先は小刻みに震え、顔は汗に濡れている。
「誰……? ああ……璃月様……?」
声はかすれていた。
煌星は急いで香炉に蓋をして、窓を開け放つ。
そのまま水差しに手を伸ばし、杯を満たして差し出した。
「飲んで。……少し、落ち着くから」
張嬪は、震える手で受け取り、何口か飲んだ後、深く息を吐いた。
「……どうして、来たの」
「魏嬪から、あなたの様子がおかしいと聞いて。……まさか、自分にまで使ってるなんて」
張嬪は少しだけ笑った。
「だって……“あの人”は言ったの。皆に配れって。……そうすれば、見返りがあるって……でも……」
そこまで言って、肩を震わせる。
「使えって言われた香を、自分にも使ってしまったの?」
張嬪は、黙って頷いた。
煌星は目を伏せる。
怒りが、湧いていた。
けれどそれは、張嬪に対してではない。
「……こんな、使い方をするなんて」
拳を握った。
「……使い捨てるつもりだったんだ。あなたの想いも、悩みも、全部……」
張嬪の目に、涙が浮かぶ。
煌星はその肩に、そっと羽織をかけた。
「こんなの、許せるはずがない。あなただって、こんなことを望んだわけじゃないでしょう」
「私は……怖かったの。璃月様がどんどん、私たちの前を歩いていくから。……怖かった……陛下の“番”は璃月様ひとり……」
「それでも、こんな風に壊れる必要はなかった。あなたは、あなたとしていればよかった」
張嬪は、しばらく嗚咽をこらえていた。
やがて、煌星の手をそっと掴み、か細く言った。
「……璃月様って、ほんと、ずるい……」
その言葉に、煌星は静かに微笑んだ。
「……ずるくてもいいと思えるようになったんだ。誰かを守るためなら」
彼女は、小さな香包を一つ差し出した。
「これが“濃縮された香”です。本当に誘導したい相手に使うもの。……用意したのは、私じゃない」
「……誰が?」
「……後宮の者ではありません」
張嬪の震える唇。
煌星はその香包をそっと受け取り、深く息を吸った。
(この香……発情だけじゃない。“混乱”も引き起こす。生理的反応作用を持つ物質操作の準備段階だ)
──“璃月”ごと後宮を壊す準備をしている……。
その足音が、すぐそこまで来ていると、煌星は感じていた。