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新しい世界

 ひなは眠りから目覚めた。虚ろな眼差しを数回瞬き、寝ぼけた頭を働かせる。

 夢の中で麟の手を取ろうと伸ばした手が、現実でも虚空に向かって伸ばされ誰かがその手を握り締めている。


「……」


 ここは一体どこだろうか? 見たことが無い場所、嗅いだことが無いニオイ、こちらを覗き込む二人の男性……。


「……?」


 自分の手を優しく握り返してくれる暖かな手は夢だろうか……?

 何より暗い闇の中に閉じ込められて途方に暮れていたはずなのに、なぜ自分はここに寝ているのだろう。

 そう思った瞬間ひなの頭は完全に覚醒し、布団から起き上がろうとした。


「いた……っ」


 急に起き上がろうとしたせいか、唐突にズキリと頭が痛み思わず頭を押さえて俯いた。

 この頭の痛みは泣きじゃくったせいだろうか。


「大丈夫か?」


 握られていた手のぬくもりが離れるのと同時に声を掛けられ、ひながそちらを振り返ると麟が優しい笑みを浮かべている。

 あぁ、そう言えばこの人は知っている。自分を暗闇から助け出してくれた神様だ。そして、その横に立っているのは……。


 見覚えのない八咫烏に恐る恐る視線を向けると、彼は腕を組んだまま真顔でじっと見下ろしていた。

 大きな体に三白眼で真顔。ただそれだけで言いようのない強い威圧感を感じてしまう。

 ひなはその雰囲気に怯えたように僅かに視線をそらした。


「……ここ、どこ?」


 視線を逸らしたままそう呟くと、麟はひなが怯えているのに気付いて八咫烏に座るよう促した。八咫烏は促されるままにどっかりとその場に胡坐をかいて腰を下ろすのを見届けてから、麟はもう一度ひなを見つめた。


「ここは幽世。ひなの住んでいた世界とは違う世界だ」

「かくりよ……? それって、神様の国?」


 神様の国だと言うひなの言葉に思わず笑ったのは八咫烏だった。

 突然笑われてしまったひなは少し怪訝そうな顔をしながらも彼を見上げると、八咫烏は目の端に滲んだ涙を軽く拭きながら手をひらひらとさせた。


「まぁ、あながち間違いじゃないけどな」


 八咫烏の姿を改めて真っすぐに見たひなは、マジマジと見つめ不思議そうに目を瞬く。

 その様子に、麟も八咫烏本人も不思議そうな表情を浮かべた。


「……お兄さん……もしかして烏?」

「え?」


 完璧とも言えるほどの人型を取っていると言うのに、正体を見破られた八咫烏はぎょっと驚いたように目を剝き、咄嗟に麟を振り返った。言葉が出てこないと言わんばかりに、心底驚いている顔だ。そんな八咫烏に麟は真顔で小さく頷き返すと彼はもう一度ひなを振り返る。


「な、何だこの子……俺の正体を見破れるのか?」

「え? ……だって、お兄さん烏でしょ? それとも違う鳥なのかな」


 ひなは気まずそうに視線を逸らしながら呟くと、八咫烏は「なるほどね」と納得したようにため息をこぼす。八咫烏に対してどこか怯えているひなに対し、出来るだけ怖がらせないように優しい口調で麟は言葉を続けた。


「ひな。彼は八咫烏。私の神使だ」

「しんし? しんしって何?」

「神使と言うのは……そうだな。私の代わりにひなや人間たちと会ったり、私やこの世界の橋渡しをしてくれる者の事を言うんだ」

「神様のお手伝いをする人のことってこと?」

「そうだな」


 ひなは麟の言葉に目を輝かせると、八咫烏を振り返り彼の着物の袖をぎゅっと掴んだ。

 神様のお手伝いをする人と言う事は悪い人じゃない。ひなは安直にもそう考え、先ほどまで感じていた恐怖心はどこへやら、その瞳をキラキラと輝かせて八咫烏を見上げる。

 あまりにも純粋なその眼差しに、八咫烏は面食らってしまう。


「ヤタさんて凄い人なんだね!」

「は? え? ヤ、ヤタさん?」


 突然「ヤタさん」と呼ばれた八咫烏は戸惑いの色を濃くする。そのあまりに驚いた表情を浮かべる彼の姿に、ひなはハッとなりまた一瞬表情を曇らせた。


「え? ……だってヤタガラスって名前なんでしょ? 長くって言い難いからヤタさんでいいかなって思って……」


 大人の言葉一つ一つに過敏に反応してしまうのは、ひなの癖になっている。

 捨てられた小犬のようにしょんぼりと、上目遣いで聞き返してくるひなに八咫烏はぐっと頬を僅かに染めながらも言葉を飲み込んでしまう。

 彼からすれば、こんな風に何も身構える事なくすんなりと懐に飛び込んでくるような子は初めてで、接し方が分からないだけで決して嫌だと言う気持ちがあるわけではなかった。むしろ、胸を射抜かれたようなむず痒いようなそんな気持ちに包まれる。


「……べ、別に、ダメなんて言ってない」

「ほんと!?」


  ヤタが僅かに視線をそらしながらぶっきらぼうに答えると、ひなは心底嬉しそうに表情を明るくし、躊躇う事もなくヤタの胸に飛び込んだ。


「うおっ!?」

「ありがと!」


 彼女にとって「ダメ」と言う言葉は自分をすべて否定されているような気分にさせる。代わりに「ダメじゃない」と言う何でもない一言が、初めて自分を受け入れてくれる第一歩に感じられ、それがひなにとってとても嬉しくて堪らないものだった。


「ひなのいた世界は凄く寂しかった……。おうちにいても一人だったし、誰もひなのことちゃんと見てくれなかったから。でも、ここならヤタさんも麟さんも、ひなのこと怖がらずにいてくれるから嬉しい」

「……」


 ヤタの胸に抱きついたまま呟いたひなの言葉にヤタは戸惑った様子のまま麟を振り返った。


『麟! ちょ、どうすんだこれ!?』


 どう対応していいか分からない八咫烏は小声で麟に訴えかけるが、麟はクスクスと笑う。


「いいじゃないか」

『じょ、冗談だろ!? 一体どうしろってんだよ?!』


 胸元にしがみついて離れないひなに、八咫烏の両手は宙を動き回る。

 抱きしめると言う行動はおろか、体に触れると言う選択肢すら彼の中にはないのか、困り果てていた。 


 しばらく一人でじたばたしている八咫烏を見ていた麟は「やれやれ」と縁側から立ち上がると、二人の傍に歩み寄りひなの頭に手を置いた。


「ここには君を嫌う者はいない。ひな、君を歓迎するよ」

「麟さん、ひなを連れて来てくれてありがとう!」


 嬉しそうに微笑むひなの姿に、麟も柔らかい笑みを返した。


「よし、ではひな。この屋敷内と幽世の世界について少し案内しようか」

「うん!」

「麟、それなら俺が……」

「いや、お前には別の事を頼みたい。鬼反屋きたんやに行ってひなの着る着物を幾つか見繕ってきて欲しい。あと、化け猫屋で菓子を買って来てくれないか」


 幽世は人でなくなった者たちが住まう場所。生身の人間が幽世に存在すると言う事は、時に危険を伴う事もある。麟はその危険性を少しでも減らす為にこの世界の物を身に着け、この世界の食べ物を口にしていく事で整合性を取ろうとしていた。


 ヤタは複雑な表情を浮かべながら、渋々「御意」と言うと男性の姿から元の烏の姿に戻ると早速縁側から飛び立った。その姿を見たひなは、飛び立つ八咫烏を追いかけるように縁側に駆け寄り、縁にしがみついて目を輝かせる。


「わぁ!! ヤタさんカッコイイ~!!」

「ひな……おいで」


 呼ばれて振り返ったひなの目の前には、麟の大きな手が差し伸べられていた。

 ひなはその手をじっと見つめチラリと見上げると、麟は不思議そうに彼女を見下ろした。


 この、大きな手は自分に向かって差し伸べられている。それは分かっているのに、何故かすぐにその手を取るのに躊躇ってしまった。


「どうした?」

「手、こうやって差し出してくれた人、今までいなかったから……」


 大人と手を繋いで一緒に歩いたのはどれぐらい前だっただろう。そもそも、誰かと手を繋いで歩いたことがあったかどうかさえもよく覚えていない。気付けば誰からも触る事さえ嫌がられてしまっていたから、こうして差し出された温かい手には正直不慣れだった。


 麟は先ほどまで何の遠慮もせずにいたひなが突然行動を控える事に小さく微笑むと、差し出した手とは逆の手も差し出して彼女の体をひょいと抱き上げた。


「ひゃあっ!」


 突然抱き上げられたひなは頓狂な声を上げ、慌てて麟の着物の肩口を掴む。

 小さな子供がそうするように麟の片腕の上に腰を据え、先ほどまで見上げていた麟を見下ろすような体制になった。


「遠慮をするな。ここではお前の生きたいように生きればいい」

「……っ」

「ひなは軽いな」


 くすくすと笑う麟に、ひなは涙が零れ出そうだった。

 本当にここは違う世界。優しさに溢れたこの空気がひなには少し苦手だが、それでもあの家や世界にいるよりはずっと安らげる。


「あり……がと……」

「……」


 しがみつくように麟の首に抱きついたひなが、彼の肩口に顔を押し付けて小さく礼を呟くと、彼は何も言わずにぽんぽんと優しく彼女の背中を叩いた。

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