舌先で唇をなめて、アキミチ君が口をつぐんだ。
その顔には相も変わらず、ニヤニヤとした軽薄な笑みを貼り付かせながら。
だけど、その目はちっとも笑ってなくて――。
そう感じた瞬間、ぞわり、と肌が泡立つのを覚えた。筋肉という筋肉が強張り、全身が石のように固まっていくのを感じながら、何とか視線をそらす。
教室は先ほどまでとは明らかに違う雰囲気が漂っていた。
エアコンもないのにいつの間にか温度が冷たいものに一変している。
それも心地よいものではなく、思わず身震いしてしまうような、突き刺すような冷たさだ。
カーテンの隙間から射し込む夕陽に照らしつけられ、教室の天井や隅の陰影はますます濃くなっていた。そのベッタリとしたグラデーションはどことなく、自分の耳を切り落としたという画家の描いたひまわりの油絵を彷彿とさせた。
あかん、これはガチであかんやつや。
頭の中で警報がガンガンと鳴り響き始めるのをうちは感じていた。
「今のお話のオチなんだけど……」
声を発したのはユカリだった。
申し訳なさそうにユカリは眉間に皺を寄せながら言う。
「この話を知った人のところに■■■■くんがやって来るって最後のオチ。これって聞いたら呪われる話だよね? ……あまり野暮なことは言いたくないけれど、聞き手を脅す系の話って学級新聞には載せられないんだよね。怪談として面白い、面白くない以前の問題として本当のことだと思って気に病んじゃう子もいるから」
違う。そう言うことやない。
そう声をあげたかったができなかった。強烈な違和感と吐き気に喉の奥が詰まって。
「ふーん。最近は怪談にもコンプライアンスが求められるんだね」
「だから、その、申し訳ないんだけど、できれば他の話を……」
「他の話? おいおい、そりゃないだろ?」
心外だというようにアキミチ君が肩をすくめる。
「パンザマストの怪談はまだ、終わってないよ。むしろ、本番はここからなんだからさ。新聞に載せられないのは残念だけど、せめて最後まで堪能していってよ」
「えっ? それはどういう意味?」
怪訝な表情を浮かべたユカリが問い返そうとした時だった。
ブツッという異音が響いた。恐らく校舎の外から。
チューニング中のラジオのような耳障りで神経に障る音だった。
それから一拍の間を置いて、「夕焼小焼」のメロディーが鳴り響き始める。
ボリュームを最大限まで引き上げたと思しき大音量で。
とっさにうちは両手で耳を塞いでいた。
それがいつもの聴き慣れたパンザマストとは全くの別物であることはすぐにわかった。
「夕焼小焼」のメロディーに紛れて――冷たい悪意が、嘲笑が、指の隙間から染み込んで来るのを感じる。
鼓膜の中で小さな蟲が蠢き合っているような不快感に文字通り、身の毛がよだつ。
歯を食いしばりながら、うちはユカリに目を向けた。
ユカリもうちと同じように耳を塞いでいた。
口が悲鳴の形に大きく開いているが、大音量の「夕焼小焼」にかき消されている。
と、パンザマストが唐突に鳴り止んだ。
同時におぞましい不快感も消え、そのままうちは机に倒れ込みそうになる。
「な、何なの。今の……? 変、だったよね……?」
顔面蒼白になったユカリが声を震わせる。ユカリは冷や汗を滝のように流していた。
敢えてうちが説明しなくても異変が生じたことは理解しているようだった。
プッ、と耐えかねたように噴き出したのはアキミチ君だった。
金属を擦り合わせたかのような不快な声でゲラゲラと笑い始める。
死んだ魚のように表情のない瞳でジッとうちらを見すえながら。
と、その時だった。
バン、と破裂するような鋭く攻撃的な音が教室に響いた。
ビクッと肩が跳ね上がり、反社的にうちは音が聞こえた方角に顔を向ける。
うちらの教室の出入り口はスライドさせて開け閉めするタイプのドアだ。
その磨りガラスの窓の部分に手形が浮き上がっていた。
教室の外――、つまり廊下から叩きつけられたと思しきそれは赤黒く、ベッタリとねばつくものを滴らせていた。
それが血糊だということはすぐわかった。
頭の後ろが灰になって崩れ落ちていくような気がした。
くらくらと目が回るのを感じた時、バン、とまた叩きつける音が響く。
磨りガラスの向こうに人影は見えなかったが、手形がもう一つ、新たに増えていた。
血にまみれた二つの手形は、確かな重量感をもってズルズルと滑り落ちてゆく。
赤黒い帯のような跡を残して。
甲高い悲鳴があがる。
声の主は多分ユカリだと思うけど、ひょっとしたらうちだったかも知れない。
こんなものを目の当たりにして取り乱さずにいられるほどうちはタフやない。
だから次に取った行動は我ながら上出来だったと思う。
全身を蝕んでいた怖気を強引に振り払い、何とかうちは椅子から跳ね上がっていた。
「逃げるでユカリ!」
叫びながらうちは親友の腕をつかみ、無理矢理立たせていた。
ユカリはまるで石化したかのように、表情と身体を強張らせたまま固まっていたけれど、今、それを解きほぐしてやる時間も余裕もない。
このままここにおったら。
間違いなく、絶対に、確実に――うちらは死ぬ。
ユカリの手を引きながらもう一つの出入り口、最前列寄りのドアをうちは目指した。
うちとユカリが廊下に飛び出たのとタッチの差でそいつが教室に入って来る。
一瞬だけ、視界のすみでそいつの姿をうちは捉えていた。
それは男の子だった。
うちらと同じぐらいの歳の。
表情や着ている服のディテールはよく分からない。
肉が腐ったような悪臭を漂わせる男の子は、床に両の手と膝をついた姿勢で頭からペンキを浴びせかけられたかのように全身、真っ赤。
その下腹部は大きく切り裂かれ、デロデロとした中身がこぼれ出ている。
四肢は枯れ枝のように痩せさらばえ、両手にはギラギラ光るナイフが逆手ににぎりしめられていて――。
匍匐前進するたびに刃先が床を磨り、シャキシャキと嫌な音を立てていた。
アキミチ君はまだ笑っていた。
死んだ魚みたいに表情のない瞳でうちらを凝視しながら大口を開いて笑い続けていた。