「えっ? は、はい」
まさかのお昼の誘いに、戸惑いながらも承諾する。断る気持ちも、その理由もないからだ。
「よかった。お勧めの店があるんだが、和食は大丈夫か?」
「はい、とても好きです」
副社長のお勧めの店と聞いて、心が弾みそうになる。少し心を開いてもらえた気がして、本当に嬉しかったからだ。
「よし、決まりだな。デスクを整理したら、早めに行こうか?」
「分かりました。すぐに、片づけてきます」
急いで自席に戻り、デスクの上を整理する。この一週間は笹野さんとお昼に行っていたから、副社長とランチに行くのは初めてだ。
(ドキドキする……)
憧れでもある副社長と、並んで歩けるだけでも夢みたいなのに……。貴重な時間を、楽しませてもらおう──。
「九条様、いらっしゃいませ」
和食の店といっても、ごく普通の感じだと思っていた。天ぷらとか、蕎麦とかを想像していたのに……。
「落ち着いた店だろう? 原田さんは、こういう雰囲気は好き?」
「は、はい。こんな高級なお店、普段は行く機会がないのでドキドキしてます」
副社長に連れていってもらった店は、老舗料亭だった。オフィスビルから近く、通りをひとつ入ったところにある。
店は奥行きのある平屋で、すべて個室になっている。通路の両端には石が敷き詰められていて、足元灯に照らされていた。
「本当? だったら、今日は料理を堪能してほしい」
「ありがとうございます。お料理が楽しみです」
通された部屋は、一番奥にある和室だった。大きな掃き出し窓からは、手入れをされた日本庭園が見える。
部屋の真ん中に掘りごたつのテーブルが置かれていた。広々とした室内で、ここが、特別な部屋なのだろうと想像できる。
「料理は、ランチ用のコースがあるんだ。それを注文していいか?」
「はい、お願いします」
副社長と向かい合って座ると、彼はすぐに慣れたように仲居さんに注文している。二人のやり取りを見ていると、副社長がこの店の常連だと分かった。
「原田さん、ここは俺が払うから。なにも気にせず、食事を楽しんで」
「えっ? いえ、それはいけません」
二人になった瞬間、副社長にそう言われる。簡単にご馳走になるわけにはいかず、私は慌てて両手を顔の前で振った。
「気にしなくていいよ。お礼……ってわけじゃないが、きみには感謝してるから」
「副社長……。ですが、私はまだ秘書として始まったばかりですし。まだまだ、これからだと思っています」
副社長の言葉を噛みしめながら言うと、彼は目を細めてフッと笑った。
「もちろん、秘書を引き受けてくれたこともだが、公園のことを言ってるんだよ」
「あ……。もしかして、私だと気づかれてましたか?」
頭の中から消そうとしていたあの夜のことが蘇り、一気に心臓がバクバクした。まさか、副社長から切り出してくれるなんて……。
「ああ。あれから社内で何度かすれ違っただろう? そのときには、気づいてた。公園のときは、社員だと気づけなくて申し訳ない」
「いえ! 社内で、気づいてくださったのが嬉しいです」
いくら副社長でも、社員全員の顔を覚えられるわけがない。それでも、あのほんの少しのやり取りで、顔を覚えてくれたことに感動していた。
「本当は、もっと早く言えばよかったんだろうが、笹野さんもいたから控えていたんだ」
「当然です。むしろ、こうやってお話くださって、私のほうこそ有難いです」
きっと、話しにくかったと思う。副社長にとっては、辛い経験を思い出させるからだ。それでも話してくれたのは、彼の優しさだと思っている。
「情けない姿を見せてしまったが、原田さんが声をかけてくれたことで我に返ったよ。ありがとう」
「いえ、気になさらないでください。なにも聞きませんので。ただ、もしなにか愚痴りたいとか思われたら、いつでも聞きますので言ってください」
なるべく気を遣ってほしくなくて、 場の空気を明るくさせるつもりで笑顔を見せる。すると、副社長に優しく微笑まれた。
「ありがとう。原田さんの気遣い、ちゃんと覚えておくよ」
「副社長……」
あの夜のことで、お礼を言ってほしいわけではない。結果的に、声をかけたら副社長だったというだけだ。無理に事情を聞き出そうとも思っていない。
ただ、叶うなら副社長の癒しになりたい。そんな身の程知らずのことを考えてしまっていた──。
「会議が終わるまで、一時間くらいか……」
壁掛け時計を見ながら、隙間時間になにをしようか考える。先日、副社長とランチに行ったのをきっかけに、私の張り切る気持ちは大きくなっているのだ。
仕事はひと段落着いたし、執務室の掃除をしようか。定期的に、業者が清掃に入るけれど、キャビネットやテーブルなどは毎日こちらで拭き掃除をしている。
今日は、役員会議のあとに来客の予定になっている。テーブルやソファなど拭き掃除をしておこう。
「失礼します」
誰もいないと分かっているけど、執務室に入るのは毎回緊張する。そっとドアを開けると、除菌シートを持ってデスク周りから拭き始めた。
そのとき、デスクの脇に立て掛けてあった副社長の鞄を倒してしまう。外出から戻ったあと、すぐに会議だったから、鞄を置いたままにしていたのだろう。
「いけない」
鞄の口が開いていたようで、中身が出てしまった。ファイルなど仕事関係のものから、彼の財布まで出てしまい慌てて拾い集める。
すると、どこに挟まれていたのか、写真が一枚落ちていた。裏になっていて、なにが写っているのかすぐには分からない。何気なく表を見て、呆然としてしまった。
写真には、幸せそうに微笑む副社長と一人の女性が写っていたからだ。なにかのパーティーのようで、二人ともドレスアップをしている。
副社長はスーツ姿で、髪をオールバックにしている。そして隣に立つ女性は、とても綺麗だった。淡い黄色のドレス姿で、シルク素材なのか光沢を放っている。ドレスから覗く脚は、憧れたくなるほど美しかった。
「もしかして、副社長の元カノさん……?」