そうだと思えるほど、二人は腕を密着させている。上品でお嬢様らしい雰囲気の彼女は、噂の社長令嬢だろう。
この写真を鞄に入れて持ち歩いているということは、副社長はまだ恋人との別れを割り切れていないのかもしれない。この写真は、彼の宝物なのだろう。そんな想像をすればするほど、私の胸は苦しくなる。
自分が副社長の癒しになりたいなんて、一瞬でも考えたことが恥ずかしい。少なくとも、今の副社長を元気づけられるのは元恋人との楽しかった思い出だと思う。
最初から入り込む隙間はないのだから、首を突っ込みすぎることはやめておこう。私は与えられた職務を全うするだけだ……。
「副社長、お疲れ様でした」
会議が終わり、執務室へ戻ってきた副社長に熱いお茶を出す。彼はお礼を言ってから、それを口にした。
「このお茶、美味しいな。茶葉を変えたのか?」
「分かりましたか? 実は、今までのがなくなったので、新しく買い替えたんです。有名なお茶みたいで」
分かってもらえたのが嬉しくて、はしゃぐように説明をする。私が副社長にできる癒しは、こんなことくらいだ。それなら、できることを徹底しようと思ったのだ。
「そうか。本当に美味しい。原田さんも飲んだ?」
「いえ、私は……。そのお茶は、副社長と来客用ですから」
さすがに、秘書が高級茶葉のお茶を飲むわけにはいかない。苦笑すると、副社長が立ち上がった。
「じゃあ、俺が入れてあげるよ。おいで」
「えっ!?」
面食らう私をよそに、副社長は執務室を出ていく。そして、秘書デスクの奥にある給湯室へ入った。
「原田さんが選んでくれたんだから、きみにも飲む権利があるよ」
「で、では私が入れます」
「いいって。人に入れてもらったほうが、より美味しく感じることもあるだろう?」
副社長は、慣れた手つきでお茶を入れてくれる。湯気の立つお茶をすすると、口の中で香ばしいお茶の味が広がった。
「評判どおり、本当に美味しいです。副社長、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。これからは、こうやって原田さんも飲んだらいい」
「はい……」
穏やかな笑みを向ける副社長に、私の胸は小さくときめく。私が彼の恋人なら、心変わりをすることはないと思う。
副社長がフラれた理由がなにか分からないままだけど、こんな素敵な人の力になりたい。。ささやかでも、日々楽しいと思ってもらえるように。
そして、集中して副社長の業務をしてもらえるように。私は彼を、陰ながら支えるだけだ。
「乃亜、久しぶり! 副社長秘書の仕事はどう?」
約半月ぶりに佐知に会い、私はなんとも言えない表情を彼女に向けた。終業後に訪れたカフェは、夜間でも人が多い。
「いろいろ、ヤバイかも……」
「えっ!? そんなに仕事がキツイの?」
カウンター席に並んで座った佐知が、心配そうに私の顔を覗き込む。私は照れくささを覚えながら、小さく首を横に振った。
「仕事は楽ではないけど、充実感があるよ。副社長が……素敵な人で」
「やっぱり! だから言ったでしょ? 本気で狙ってみればって」
テンションが上がった佐知は、今にも立ち上がりそうな勢いだ。そんな彼女に、私は弱々しくもう一度首を横に振った。
「あまり詳しく言えないけど、本気で副社長にアプローチしても望みはないよ」
「それって、噂の失恋が原因ってこと?」
否定しても嘘くさいし、かといって肯定もできない。副社長のプライバシーもあるから、黙ることしかできなかった。
佐知は私の態度で察してくれ、一気に冷静になり椅子に座り直している。
「そうだね。副社長との仕事を、純粋に楽しむほうがいいかも。乃亜、余計なこと言ってごめん」
「佐知が、謝ることじゃないよ。副社長って、身近に感じると本当に魅力的な方なの。だから、身の程知らずな恋をしないよう自制する」
「乃亜……。副社長と、楽しい仕事ができるといいね」
笑顔の佐知に微笑み返すと、そのあとは温かいカフェオレを飲みながら、たわいもないお喋りを楽しんだ。
次に佐知に会うときは、もっと気楽に副社長のことを話せるようにしよう。かっこよくて、とにかく惚れ惚れする人なのだと。それくらい、ミーハーな感じで話せたらいい……。
「じゃあね、乃亜。また、お茶しようね」
「うん、お疲れ」
店を出て、大通りで佐知と別れる。佐知には学生時代から付き合っている彼氏がいて、これから彼の家に行くらしい。
心の中で羨ましいと思いながら、私は一人暮らしをしているマンションへ向かう。二十時でも、通りには人が多い。
どこかで、適当に夕飯を買おうか。そんなことを考えながら、路地をひとつ中へ入ろうとしたときだった。進行方向に車が横付けされながら、軽くクラクションを鳴らされた。
(な、なに?)
一瞬ナンパかと疑ったけれど、もっと若いときからナンパをされることはほとんどない。もしかしたら私ではないかもしれないし、無視してやり過ごそうか…。
「原田さん」
車から聞こえてきた声は、つい一時間ほど前まで一緒にいた副社長のものだ。驚いて振り向くと、運転席の窓から副社長が顔を覗かせた。
「副社長!? 今、お帰りですか?」
同時に退社したはずなのに、まだこの辺りにいたことにもびっくりする。目を丸くした私に、彼は苦笑した。
「俺も、同じセリフ。原田さんこそ、今から帰るのか?」
「は、はい。同期とお茶あをしていまして……」
副社長は、なにをしていたのだろう。聞いてみたいけど、彼のプライベートを覗くようで憚れてしまう。
「そうだったのか。真っすぐ家に帰る?」
「いえ。どこかで、夕飯を買って帰ろうかなって思ってます」
そう答えながら、自炊をしていないことが丸わかりで情けなくなる。すると、副社長は一瞬間を置いて言った。
「よかったら、ご飯食べて帰る? 俺も、どこかで買って帰ろうと思ってたところなんだ」
「えっ? よろしいんですか?」
ランチに続き、ディナーまで……。こんなに、立て続けに副社長と食事ができるなんて信じられない。
同じ会社にいるとはいえ、副社長のほうは半月前まで私のことは知らなかったのだ。それなのに、今は後ろ姿で気づいてもらえる。
「いいよ。一人より、誰かと一緒のほうが食事も美味しいし。もちろん、原田さんが迷惑でなければ……だけど」
「迷惑なんてことはありません。むしろ、光栄です」
はやる気持ちを抑えても、嬉しさを隠しきれない。即答すると、副社長はハハっと笑った。
「そう言ってもらえて、よかった。じゃあ、助手席に乗って」
「はい。失礼します」
副社長の車はシルバーのセダン型で、海外の高級車だ。副社長は運転席から顔を出していたと思ったら、実際は助手席から顔を出していたようだ。
「私、左ハンドルの車に乗ったの初めてです」
副社長秘書になって、ドキドキすることばかりだ。初めてのことも多く、刺激に溢れた日々になっている。
「慣れないと、変な感じだよな。シート、調整してくれていいから」
「ありがとうございます。それにしても、綺麗な車ですね」
革の匂いがして、新しい車のように感じる。副社長の元カノも、ここに座ったのだろうか。
「買い替えたばかりなんだよ」
「そうなんですか……」
車を買い替えたことと、彼女との別れは関係あるのだろうか。思い出のある車なら、乗っていても辛いかもしれない。
考えると、切なくなってくる。すると、車を走らせ始めた副社長がクスッと笑った。
「原田さん、感情移入しただろ?」
「えっ!? そ、そんなことは……」
図星でしどろもどろになっていると、副社長は横顔からでも分かるほど笑みを浮かべて言った。
「きみの想像どおりだと思うよ。彼女との思い出を少しでも整理したくて、車を買い替えてみたんだ」
「そういう風に、ゆっくりでも前に進まれてる副社長を尊敬します」
なんでも話してほしいと言ったのは私で、副社長が元カノのことを話してくれるのは本当に嬉しい。
ただ、それを聞くと、副社長の彼女への愛情も知らされるようで少し胸が苦しい……。
「ありがとう。気を遣わせてしまったかな。重たい話をして、すまない」
「いえ。私でよければ、いつでも聞きますから。それで副社長がすっきりされるなら、私も本望です」
元カノの話をしてくれたのは、少しは私に心を開いてくれたからだろうか。そうなら、心底満足だ。
「原田さんは、とても頼もしいな。きみが秘書になってくれて、本当に感謝してるよ」
「そのお言葉だけで、もう充分すぎます」
副社長と過ごす時間が増えれば増えるほど、私は彼に惹かれていくと思う。憧れの副社長は、想像どおり魅力に溢れる人だから。
でも、本気で恋に落ちることがないようにしよう。どんなに想っても、それが叶うことはないからだ。
こうやって声をかけてもらえたのも、副社長が私を意識していないからだろう。副社長の心の寂しさを、一緒に食事に行くことで埋められたらいい。
「店なんだが、中華はどうだ? 好みに合ってなければ、他のところにするが……」
「いえ、中華は大好きですので。副社長が連れていってくれるお店ですから、また高級なところなんですよね?」
できるだけ明るい雰囲気にしたくて、半分冗談めいて言うと、副社長は苦笑した。
「たしかに、高級な店だよ。そういうところ、堅苦しくて好きじゃない?」
「いいえ。私にはもったいないくらいで、楽しみでいっぱいです。思い出の上書きができるなら、どこまでもお付き合いしますので」
きっと、元カノと行ったことがある店だろう。どれくらい付き合っていたかは知らないけれど、思い出の整理が私とできるなら嬉しい。
「原田さん、ひとつ誤解がないように言っておくけど」
「は、はい」
急に堅い口調になり、ドキッとする。なにか、気に障ることを口走っただろうか。
「俺は、自分の寂しさを埋めるために、きみと接してるわけじゃない。そこは、誤解しないでほしい」
「はい……。軽はずみな発言がありましたら、本当にすみません」
「原田さんが謝ることは、ひとつもないよ」
副社長は優しいから、最後はこうやってフォローをしてくれる。もしかして、私は心の底では副社長に同情していたのだろうか。
どこかで、彼を可哀想な人だと思っていたのか……。そんなつもりはなかったけれど、知らず知らずのうちに彼を傷つけていたかもしれない……。