それから程なくして、車は一軒の店の前に着いた。そこは、中華料理の店とはいってもモダンな建物で、隠れ家的な感じだ。
「看板は、出てないんですね」
駐車場は地下にあり、そこに車を停めると、そのままエレベーターで地上に上がる。どうやら、店の中と繋がっているようだ。
「そうなんだよ。著名人が、お忍びで来る店でもあってね。宣伝もしないし、看板もないんだ」
「凄い……」
外をとおりかかるだけなら、ここが店かどうかさえ分からないと思う。そんな店を知っている副社長を、改めて別世界の人だと感じてしまった。
「いらっしゃいませ、九条様。いつものお部屋が、空いております」
エレベーターの扉が開くと、感じのいい女性店員が出迎えてくれた。あたり前のように、奥の部屋を案内してくれる。
「ありがとう。原田さん、中に入って」
「は、はい」
急ぎ気味に部屋へ入ると、店員さんは丁寧にお辞儀をしてホールへ戻っていった。ここは個室で、テーブルセットの他に、ソファも置かれている。
「ホールの席も、仕切りがあっただろう? 声が響きにくくなってて、プライバシーが守られるって評判なんだ」
「だから、お忍びで来られる人もいるんですね」
そんな店で、当然のように個室を案内される副社長が凄い。私が彼の秘書でなければ、一生縁がなかっただろう。
「そう。だから、原田さんもリラックスして。そのうち、コース料理が運ばれてくるから」
「ありがとうございます。あの……。改めて、すみませんでした」
席に着く前に頭を下げた私に、副社長はあ然としている。
「ちょっと、待ってくれ。なにを謝ってるんだ?」
「先ほど、副社長が言われていたことです。寂しさを埋めるために……ってお言葉……」
「ああ、あれか。別に、きみを責めてるわけじゃないんだよ」
少し脱力したように笑う副社長に、私はゆっくり首を横に振った。
「私、副社長に同情していたのかもしれません。だから、副社長にあんなことを言わせたのかもって思って」
肩を落としていると、彼のハハっと笑う声が聞こえた。顔を上げると、副社長は優しく微笑んだ。
「構わないよ。誰が聞いたって、同情されるようなことだから」
「いえ……。そんなつもりはなかったとはいえ、失礼だったかもしれません……」
「そんなことないよ。言っただろう? 原田さんには、感謝してるって。だから、また俺の話を聞いてくれる?」
「もちろんです。副社長が話したいことは、なんでも話してください」
元カノを羨ましいと思うこと自体、身の程知らずだと思う。余計な感情は押しやって、副社長と接していきたい。
「それじゃあ、席に着こうか。時間はどれくらいある? 電車の時間があるなら、乗り過ごさないよう気をつけるから」
「終電までに、間に合えばいいので……」
そう答えながら、そんなに遅くまでいるはずがないか……と、心の中で突っ込む。せいぜい、一時間ちょっとくらいだろう。
「それなら安心だけど、原田さんは近くに住んでるのか? 電車はあっても、家に着くのが遅くなるだろう?」
副社長は意外と心配症のようで、結構本気で聞かれてしまった。
「実は、オフィスビルから二駅分のところなんです。だから、時間はそんなにかからないので」
「そうなのか。もし迷惑でなければ、俺が送ってくよ?」
「ええっ? それは、いけません。副社長のご好意に、甘えるばかりになりますから」
驚いて断ると、副社長は申し訳なさそうな顔をした。
「かえって、きみが気を遣うかな?」
「やっぱり、副社長にそこまでしていただくわけには……」
私をこれだけ気にかけるなら、彼女にはかなり過保護だったのだろう。もし私が副社長の恋人なら、愛を感じるけど……。
「分かった。無理強いはしないよ」
「本当に、すみません」
半分ホッとするような、最後まで副社長といたかったような複雑な気持ちになる。しばらくして料理が運ばれ、私たちは美味しい中華を堪能したのだった……。
「ディナーまでご馳走になってしまって、ありがとうございました」
副社長に支払ってもらい、恐縮で肩をすぼめる。頑なに割り勘を拒まれたから、結局折れたのだった。
「いいよ。誘ったのは俺だから。それより、やっぱり送っていこうか? 家の前が抵抗あるなら、近くで降ろすよ?」
「いえ、抵抗はないんですが……」
そんなに心配なのかと思うほど、副社長は私の帰りをまだ気にしている。甘えてばかりはいけないと思い断ったけれど、素直にお願いしたほうがいいのだろうか。
「せめて、近くまででも……」
これだけ心配されたら、受け入れ入れることも大事かもしれない。そう考えて、私は小さく微笑んだ。
「それでは、お願いします。自宅マンション前まで、甘えてもいいですか?」
「もちろんだよ。じゃあ、行こう」
私の返事に安心したようで、副社長も微笑み返してくれる。彼の優しさに心を温かくさせて、駐車場まで一緒に向かった。
「副社長って、とても優しいんですね」
「そうか?」
車で自宅に向かいながら、副社長とたわいもない会話をする。その中で、思っていたことを口にした。
「そうですよ。心配して、こんな風に送ってくれたり。彼女さんにも、こんな感じだったのかなって想像しました」
「え?」
「あ、いえ。すみません。余計なことを……」
元カノの話は、本人がしてくれる以外、私から振るべきことではない。一瞬にして後悔し、話題を変えることにした。
「明日のスケジュールは、結構タイトですよね。新規事業が進められている関係だから、仕方ないですけど」
私と副社長の話題は、仕事のことで充分だ。彼のプライベートを、不必要に覗くべきではない。
「そうだな。業務が多くて、疲れないか?」
「疲れないと言えば嘘ですけど、充実感のほうが勝っています」
副社長秘書の仕事は、まだ完全に慣れていない。だけど、やり甲斐でいっぱいだった。
「原田さんは、バイタリティに溢れてるな。見た目は、小柄でおっとりした女性に感じるのに」
「それ、よく言われます。案外、活動的なんだねって」
クスッと笑うと、副社長はほんの一瞬だけ私に視線を向けた。
「なあ、原田さん。きみが嫌でなければ……だけど。たまに、食事に誘ってもいいか? 話をしてると楽しくて」
「は、はい。もちろんです。私でよければ、いつでも……」
勘違いしてはいけないと思うのに、私の心は分かりやすいくらいドキドキしている。副社長は、元カノのことを忘れていない。
彼女と写っている写真は、どうやらいつも持ち歩いているようなのだ。さっきも、会計をするときに彼の鞄の中が見え、写真があったから。
たぶん、それ以外にも彼女との思い出のものを持ち歩いているのかもしれない。結婚を考えるくらい好きだったなら、簡単に忘れることはできないだろう。
だから、副社長の言葉を勘違いして受け取ってはだめだ。彼は、純粋に私との食事を楽しんでくれ、また一緒に行きたいと思ってくれただけだから。
「ありがとう。でも、乗り気じゃないときは、遠慮なく言ってほしい」
「分かりました」
次に誘ってもらえるのは、いつだろうか。そんなことを考えてしまい、慌ててその気持ちを追い払った……。
「副社長、送ってくださってありがとうございました」
「それは、気にしなくていいよ。この辺り暗いから、送ってよかったって思ってる」
ハザードランプを点けて停まる副社長の車は、マンションの駐車場で一際目立つ。それはもちろん、こんな高級車は他にないからだ。
単身用の1Kのマンションで、入居者の全員が、若い社会人か学生の一人暮らしなのだ。高級な車に、乗っている人はいない。
「それでは副社長、また明日よろしくお願いします」
「こちらこそ。あと……もしよければ、連絡先も教えてくれないか? それは、さすがにやりすぎだろうか?」