「えっ? いえ、そんなことないです。お食事のお誘いも、ありますもんね」
冷静に……と言い聞かせても、あからさまに動揺してしまった。だってまさか、連絡先を聞かれるとは思わなかったからだ。
ドキドキしながら、バッグからスマホを取り出す。その手すら、小さく震えていた。
「本当に、大丈夫か? 俺だから、断りきれないとかないか?」
「全然、ありません」
副社長に他意はなく、連絡のために番号を聞いているだけだ。ここから、なにが始まるわけではない。
それは分かっているのに、このやり取りすらときめいてしまう……。
「じゃあ、俺の番号も伝えるから。仕事が終わったあとでも、なにかあれば気軽に連絡して」
「はい……」
“なにか”とは、なにを考えればいいのだろう。電話をする機会はあまりないかもしれないけど、自分のアドレスに副社長が追加されたことが夢みたいだ。
(奇跡かも……)
番号を交換したあと、副社長は私がエントランスに入るまで見送ってくれた。恋人ではないし、彼は私に特別な感情はない。
それでも、優しい過保護な副社長に、私の心は大きく揺さぶられていた。どうすれば、副社長に恋をしないでいられるだろう。どんなことも、ごくあたり前にやってしまえばいいだろうか。
「あとで、お礼のメールをしてみようかな」
そういうことが、意識せずできればいいのかもしれない。副社長に送ってもらってから一時間ほど経って、短いメールを送ってみた。
《今日は、本当にありがとうございました。とても、楽しかったです》
返信がこなくてもいいし、むしろそのほうがいいかもしれない。いろいろな感情を巡らせていたとき、彼からの返信があった。
《また誘うよ。おやすみ》
「ヤバイ……」
特別な意味がないとはいえ、この二行の文章は心をくすぐられる。副社長は、罪深い……。
そう思いながら、私は何度も返事を見返していた──。
「副社長、おはようございます」
副社長が出勤してきて、私はいつもどおりデスクから立ち上がり挨拶をする。日課なのに、今日は内心ドキドキしていた。
「おはよう。昨日は、ありがとう」
「いえ、お礼を言うのは私のほうです」
こういう律儀なところも、副社長の魅力だと思う。彼はステータスが高いのに鼻にかけないし、嫌みなところは微塵もない。
接すれば接するほど、副社長の魅力に気づかされるばかりだ。
「今日は一日忙しいですから、元気をつけるためにも熱いお茶をお持ちしますね」
以前出したお茶を、副社長が気に入ってくれたから、ストックを買い足しているのだ。お茶を出そうと張り切っていると、執務室に入りかけた副社長の足が止まった。
「あ、それなら待って」
「え? は、はい」
お茶のタイミングが、悪かっただろうか。少し不安になりながら立ち尽くしていると、鞄を置いた副社長が急ぎ足で戻ってきた。
「どうせなら、一緒に入れよう。原田さんも、飲むだろう?」
「はい。いただきます……」
副社長から、お茶を飲んだらいいと言われているけれど、やっぱり遠慮をしてしまう。彼が、それを知っているのか分からないけど、まさかの一緒にお茶を入れることになり、またもや私の胸はときめいていた。
「笹野さんとも、こうやってお茶を入れていたんですか?」
そうあってほしい。そのほうが、私の心が勘違いしないですむから。そんな願いも込めて尋ねると、副社長は首を横に振った。
「いや、彼女とはしてなかったな」
「そ、そうですか」
嘘をつく必要はないから、その答えは真実だろう。どうして、笹野さんとはしなかったのか。さすがにそこまでは聞けなくて、黙ってお茶を入れる。
「原田さんって、放っておけない気になるんだよな。頑張る姿が、健気というか」
「そう言われると、照れくさいです……」
副社長には、私が子供っぽく見えるのかもしれない。写真の元カノは、色気のある大人の女性だったから。だから、今の言葉も深い意味はない。
「原田さんのお茶、入ったよ」
「ありがとうございます。副社長の湯呑みは、私がお持ちしますね」
「いいよ。自分で持っていくから」
柔らかに微笑む彼に、私は小さく微笑み返した。こんなことを続けていたら、私は確実に恋に落ちる……。
「副社長って、乃亜のこと好きなんじゃない?」
「そんなわけないでしょ。むしろ、恋愛対象外だと思う」
数日後、再び佐知とお茶をしている。近況を報告すると、彼女は興奮気味に言った。
「なんで? 副社長の言動、なんとも思ってない人にする感じじゃないじゃない」
たしかに、そう思えるかもしれない。ただ副社長の場合、大きな失恋をしたばかりなのだ。次の恋をする余裕は、きっとないだろう。
「誰にも、言わないでね。実は……」
写真の話をすると、佐知は大きく息を吐きながら椅子に座り直した。
「副社長の噂は、ほとんど認知されてるよ。ただ、あまりにプライベートなことだから、口にする人もいなくなってる。写真、今でもあるの?」
「あるんじゃないかな? 数日前の話だし……」
さすがに鞄を見るわけにいかないから、はっきりとは分からない。だけど、すぐに割り切れるものでもないと思う。
「副社長は、前を向こうとしてるかもしれないじゃない。そんなときに乃亜がやってきて、一気に気持ちが向いた可能性だってあるよ?」
「そういう意味の気持ちじゃないよ。、私が子供っぽいから、気になるんだと思う」
佐知は納得できないようで、副社長が私を意識していると思っているらしい。そんなそんな夢みたいなことがあるとは、私にはとても思えなかった。
「でも、乃亜といて楽しいって思ってくれてるかもよ?」
「うん……」
「副社長の元カノって、かなりお嬢様なんだよね」
佐知は確かめるように言い、私は小さく頷いた。
「社長令嬢だから。私とは、全然雰囲気が違うよ」
そんな人が彼女だったのだから、ますます私が恋愛対象になるわけがない。
「だからよ。副社長には、乃亜が新鮮に映るのよ」
「もし佐知の言うとおりなら、副社長の関心も最初の内だけかもよ?」
物珍しいだけなら、すぐに興味が薄れるだろう。佐知の言葉は嬉しいけど、私は全然自信がない。
「元カノさん、かなりおっとりした人みたい。基本的に、人に従うタイプっぽいよ。地に足がついてる乃亜は、副社長に眩しく見えるんじゃないかな?」
本当に、そうだろうか。自分の都合のいいほうに、考えているだけなのではないか。そう思ってしまい、否定できる理由を探した。
「笹野さんは? 素敵な人なのに」
「笹野さんは、そもそも既婚者でしょ。乃亜ってば、知らなかったの?」
「え? そうだったの?」
引継ぎに必死で、プライベートの話をする機会はほとんどなかったのだ。あまり踏み込んで聞けないから、彼女の退職理由もはっきり知らない。
「勘違いしちゃいけないけど、ちょっとくらいは素直な気持ちで副社長を見てもいいんじゃない?」
「うん……」
返事をしたものの、秘書になりたてで恋愛を意識するのも違う気がする。ただ、副社長の優しさは、佐知の言うとおり素直に受け取ろう……。
「副社長、次のアポまで二時間近くありますが、お昼にされますか?」
車で移動しながら、後部座席で午後のスケジュールを確認する。企業によっては、秘書が車を運転するところもあるけど、ここは役員に専用の運転手がついているのだ。
そのため、車で移動中も業務の打ち合わせができる。
「そうだな。会社近くで、お昼をすませようか。原田さん、なにが食べたい?」
(きた……!)
副社長と行動するときは、たいていランチも一緒にする。するときまって、彼が食事代を払ってくれるのだ。
どんなに拒んでも、副社長は受け入れてくれない。だから、次に一緒にランチに行くときは、リーズナブルな店を提案しようと考えていたのだ。
「ラーメンがいいです……」
「ラーメン?」
当然、高級中華料理店のことではない。オフィスビル近くにある町中華のことだ。
「はい。近くに、美味しい個人店があるんです。安くて、ボリューム満点なんですよ」
きっと、副社長は訪れたことがないだろう。カウンター席とテーブル席が数席あるだけで、お昼時は混雑している。
副社長のイメージには合わないし、拒否されるかもしれない。それならそれで、私だけ行かせてもらおうと思っていた。
「じゃあ、そこにしようか」
「えっ? で、でも。副社長が行かれるような雰囲気じゃないですよ?」
「そんなことないだろう? 店の名前は?」
本当に大丈夫だろうか心配になりながら名前を伝えると、副社長は運転手にそこh向かうよう頼んでいる。
「雑多な感じですし、ランチだと千円くらいで食べれるんです」
「いいじゃないか。原田さんは、よく行くのか?」
「ごくたまに……ですが」
副社長のイメージする店とは、きっと大きく違っているはずだ。とはいえ、車が向かっている以上、今さらやめるとも言いにくい。
「どうして、今日はそこを選んだんだ?」
心を見透かされているようで、小さく口角を上げられた。
「今日は、ご馳走してもらわないようにしようと思いまして……。ここならリーズナブルなので、割り勘も受け入れてもらえるかなって思ったんです」
きっとこれまでの店は、どこも高級で高かったから奢ってくれていたのだと思う。安ければ、副社長もすんなり割り勘してくれると考えていた。
「なんとなく、そうだと思ったよ。すまない、きみに、負担を感じさせていたんだな」
「いえ、感謝しかないんです。でも、毎回だとさすがに……」
「分かった。じゃあこれからは、基本的には割り勘にしよう。今日から、そうするよ」
「ありがとうございます。でも、ラーメンでいいですか?」
無理強いしない副社長に感謝しつつ、店のチョイスが心配で改めて確認した。
「構わないよ。ラーメンは好きだし、楽しみだよ」
「それなら安心ですが……。副社長のようなステータスが高い方が、行くようなお店ではないので」
「ステータスは、関係ないよ」
副社長にクスッと笑われ、はにかんだ笑みを彼に向けた……。