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第7話

「えっ? いえ、そんなことないです。お食事のお誘いも、ありますもんね」


 冷静に……と言い聞かせても、あからさまに動揺してしまった。だってまさか、連絡先を聞かれるとは思わなかったからだ。


 ドキドキしながら、バッグからスマホを取り出す。その手すら、小さく震えていた。


「本当に、大丈夫か? 俺だから、断りきれないとかないか?」


「全然、ありません」


 副社長に他意はなく、連絡のために番号を聞いているだけだ。ここから、なにが始まるわけではない。


 それは分かっているのに、このやり取りすらときめいてしまう……。


「じゃあ、俺の番号も伝えるから。仕事が終わったあとでも、なにかあれば気軽に連絡して」


「はい……」


 “なにか”とは、なにを考えればいいのだろう。電話をする機会はあまりないかもしれないけど、自分のアドレスに副社長が追加されたことが夢みたいだ。


(奇跡かも……)


 番号を交換したあと、副社長は私がエントランスに入るまで見送ってくれた。恋人ではないし、彼は私に特別な感情はない。


 それでも、優しい過保護な副社長に、私の心は大きく揺さぶられていた。どうすれば、副社長に恋をしないでいられるだろう。どんなことも、ごくあたり前にやってしまえばいいだろうか。 


「あとで、お礼のメールをしてみようかな」


 そういうことが、意識せずできればいいのかもしれない。副社長に送ってもらってから一時間ほど経って、短いメールを送ってみた。


《今日は、本当にありがとうございました。とても、楽しかったです》 


 返信がこなくてもいいし、むしろそのほうがいいかもしれない。いろいろな感情を巡らせていたとき、彼からの返信があった。


《また誘うよ。おやすみ》


「ヤバイ……」


 特別な意味がないとはいえ、この二行の文章は心をくすぐられる。副社長は、罪深い……。


 そう思いながら、私は何度も返事を見返していた──。




「副社長、おはようございます」


 副社長が出勤してきて、私はいつもどおりデスクから立ち上がり挨拶をする。日課なのに、今日は内心ドキドキしていた。


「おはよう。昨日は、ありがとう」


「いえ、お礼を言うのは私のほうです」


 こういう律儀なところも、副社長の魅力だと思う。彼はステータスが高いのに鼻にかけないし、嫌みなところは微塵もない。


 接すれば接するほど、副社長の魅力に気づかされるばかりだ。


「今日は一日忙しいですから、元気をつけるためにも熱いお茶をお持ちしますね」


 以前出したお茶を、副社長が気に入ってくれたから、ストックを買い足しているのだ。お茶を出そうと張り切っていると、執務室に入りかけた副社長の足が止まった。


「あ、それなら待って」


「え? は、はい」


 お茶のタイミングが、悪かっただろうか。少し不安になりながら立ち尽くしていると、鞄を置いた副社長が急ぎ足で戻ってきた。


「どうせなら、一緒に入れよう。原田さんも、飲むだろう?」


「はい。いただきます……」


 副社長から、お茶を飲んだらいいと言われているけれど、やっぱり遠慮をしてしまう。彼が、それを知っているのか分からないけど、まさかの一緒にお茶を入れることになり、またもや私の胸はときめいていた。


「笹野さんとも、こうやってお茶を入れていたんですか?」


 そうあってほしい。そのほうが、私の心が勘違いしないですむから。そんな願いも込めて尋ねると、副社長は首を横に振った。


「いや、彼女とはしてなかったな」


「そ、そうですか」


 嘘をつく必要はないから、その答えは真実だろう。どうして、笹野さんとはしなかったのか。さすがにそこまでは聞けなくて、黙ってお茶を入れる。


「原田さんって、放っておけない気になるんだよな。頑張る姿が、健気というか」


「そう言われると、照れくさいです……」


 副社長には、私が子供っぽく見えるのかもしれない。写真の元カノは、色気のある大人の女性だったから。だから、今の言葉も深い意味はない。


「原田さんのお茶、入ったよ」


「ありがとうございます。副社長の湯呑みは、私がお持ちしますね」


「いいよ。自分で持っていくから」


 柔らかに微笑む彼に、私は小さく微笑み返した。こんなことを続けていたら、私は確実に恋に落ちる……。




「副社長って、乃亜のこと好きなんじゃない?」


「そんなわけないでしょ。むしろ、恋愛対象外だと思う」


 数日後、再び佐知とお茶をしている。近況を報告すると、彼女は興奮気味に言った。


「なんで? 副社長の言動、なんとも思ってない人にする感じじゃないじゃない」


 たしかに、そう思えるかもしれない。ただ副社長の場合、大きな失恋をしたばかりなのだ。次の恋をする余裕は、きっとないだろう。


「誰にも、言わないでね。実は……」


 写真の話をすると、佐知は大きく息を吐きながら椅子に座り直した。


「副社長の噂は、ほとんど認知されてるよ。ただ、あまりにプライベートなことだから、口にする人もいなくなってる。写真、今でもあるの?」


「あるんじゃないかな? 数日前の話だし……」


 さすがに鞄を見るわけにいかないから、はっきりとは分からない。だけど、すぐに割り切れるものでもないと思う。


「副社長は、前を向こうとしてるかもしれないじゃない。そんなときに乃亜がやってきて、一気に気持ちが向いた可能性だってあるよ?」


「そういう意味の気持ちじゃないよ。、私が子供っぽいから、気になるんだと思う」


 佐知は納得できないようで、副社長が私を意識していると思っているらしい。そんなそんな夢みたいなことがあるとは、私にはとても思えなかった。


「でも、乃亜といて楽しいって思ってくれてるかもよ?」


「うん……」


「副社長の元カノって、かなりお嬢様なんだよね」


 佐知は確かめるように言い、私は小さく頷いた。


「社長令嬢だから。私とは、全然雰囲気が違うよ」


 そんな人が彼女だったのだから、ますます私が恋愛対象になるわけがない。


「だからよ。副社長には、乃亜が新鮮に映るのよ」


「もし佐知の言うとおりなら、副社長の関心も最初の内だけかもよ?」


 物珍しいだけなら、すぐに興味が薄れるだろう。佐知の言葉は嬉しいけど、私は全然自信がない。


「元カノさん、かなりおっとりした人みたい。基本的に、人に従うタイプっぽいよ。地に足がついてる乃亜は、副社長に眩しく見えるんじゃないかな?」


 本当に、そうだろうか。自分の都合のいいほうに、考えているだけなのではないか。そう思ってしまい、否定できる理由を探した。


「笹野さんは? 素敵な人なのに」


「笹野さんは、そもそも既婚者でしょ。乃亜ってば、知らなかったの?」


「え? そうだったの?」


 引継ぎに必死で、プライベートの話をする機会はほとんどなかったのだ。あまり踏み込んで聞けないから、彼女の退職理由もはっきり知らない。


「勘違いしちゃいけないけど、ちょっとくらいは素直な気持ちで副社長を見てもいいんじゃない?」


「うん……」


 返事をしたものの、秘書になりたてで恋愛を意識するのも違う気がする。ただ、副社長の優しさは、佐知の言うとおり素直に受け取ろう……。




「副社長、次のアポまで二時間近くありますが、お昼にされますか?」


 車で移動しながら、後部座席で午後のスケジュールを確認する。企業によっては、秘書が車を運転するところもあるけど、ここは役員に専用の運転手がついているのだ。


 そのため、車で移動中も業務の打ち合わせができる。


「そうだな。会社近くで、お昼をすませようか。原田さん、なにが食べたい?」


(きた……!)


 副社長と行動するときは、たいていランチも一緒にする。するときまって、彼が食事代を払ってくれるのだ。


 どんなに拒んでも、副社長は受け入れてくれない。だから、次に一緒にランチに行くときは、リーズナブルな店を提案しようと考えていたのだ。


「ラーメンがいいです……」


「ラーメン?」


 当然、高級中華料理店のことではない。オフィスビル近くにある町中華のことだ。


「はい。近くに、美味しい個人店があるんです。安くて、ボリューム満点なんですよ」


 きっと、副社長は訪れたことがないだろう。カウンター席とテーブル席が数席あるだけで、お昼時は混雑している。


 副社長のイメージには合わないし、拒否されるかもしれない。それならそれで、私だけ行かせてもらおうと思っていた。


「じゃあ、そこにしようか」


「えっ? で、でも。副社長が行かれるような雰囲気じゃないですよ?」


「そんなことないだろう? 店の名前は?」


 本当に大丈夫だろうか心配になりながら名前を伝えると、副社長は運転手にそこh向かうよう頼んでいる。


「雑多な感じですし、ランチだと千円くらいで食べれるんです」


「いいじゃないか。原田さんは、よく行くのか?」


「ごくたまに……ですが」


 副社長のイメージする店とは、きっと大きく違っているはずだ。とはいえ、車が向かっている以上、今さらやめるとも言いにくい。


「どうして、今日はそこを選んだんだ?」


 心を見透かされているようで、小さく口角を上げられた。


「今日は、ご馳走してもらわないようにしようと思いまして……。ここならリーズナブルなので、割り勘も受け入れてもらえるかなって思ったんです」


 きっとこれまでの店は、どこも高級で高かったから奢ってくれていたのだと思う。安ければ、副社長もすんなり割り勘してくれると考えていた。


「なんとなく、そうだと思ったよ。すまない、きみに、負担を感じさせていたんだな」


「いえ、感謝しかないんです。でも、毎回だとさすがに……」


「分かった。じゃあこれからは、基本的には割り勘にしよう。今日から、そうするよ」


「ありがとうございます。でも、ラーメンでいいですか?」


 無理強いしない副社長に感謝しつつ、店のチョイスが心配で改めて確認した。


「構わないよ。ラーメンは好きだし、楽しみだよ」


「それなら安心ですが……。副社長のようなステータスが高い方が、行くようなお店ではないので」


「ステータスは、関係ないよ」

 副社長にクスッと笑われ、はにかんだ笑みを彼に向けた……。

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