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第9話

「お背中、濡れてます」

 三十分ほどで雨は止み、嘘みたいに天気がよくなった。木漏れ日が再び差し込み、濡れた草が光を反射している。

「ありがとう。でも少ししか濡れてないから、そのうち乾くよ」

 ハンカチを取り出した私は、そっと彼のスーツを抑える。風があったから雨が吹き込んでいたけど、私はまったく濡れていない。

 それほど、副社長が私を庇ってくれていたからだ。

「だめですよ。スーツも傷みますし、私が濡れないようにしてくださったからなので」

「きみのためじゃないよ」

 静かにそう言われ、私は微笑を返す。その言葉が、副社長の優しい嘘だと分かるからだ。

「これで、大丈夫ですね。先を急ぎますか?」

「ああ、そうしよう。本当に、ありがとう」

 さすが上質なスーツだけあり、撥水加工がされている。ハンカチで軽く押さえるだけで、すっかり乾いていた。

「ゲストハウスまで、あと少しですかね?」

 車がないとキツイ坂道だけど、思わぬハプニングで逆に疲れが吹き飛んだ。平静を装っているだけで、内心はまだドキドキしている。

「たぶん、もうちょっとだろうが。雨のせいで、道が悪くなったな」

「そうですね。葉っぱがいっぱい……」

 雨風で葉っぱが落ちたようで、道にたくさんの濡れた葉がある。滑るかもしれないから、気をつけて歩かなければいけない。

 注意して進んでいても、足を取られて滑りそうになる。でもあまりゆっくりだと、いつゲストハウスに着くか分からない。

 気合いを入れ直していると、そっと手を差し出された。

「よければ、人がいない間だけでも。滑るんだろう?」

「え……?」

 手を取れという意味だと分かり、ドキッと胸が跳ねる。意識する必要はないのに、どうしてもときめきを抑えられない。

 きっとこの行動も、副社長の純粋な気遣いだと思う。もしかすると、時間が押しているから、早く行くために手を貸してくれているのかもしれない。

 だから、深く考えず応えればいい。

「すみません……」

 他意がないことは、分かっている。今朝も、彼の鞄の中にある写真が見えてしまったのだ。副社長は、今でも元カノを忘れていない。彼の好きな人は、彼女だけ。

「いや、気にしないで。見てて、危なっかしいから心配で」

 僅かに口角を上げた副社長は、重ねた私の手を握ってくれる。そして、ゆっくりと歩き始めた。副社長の手は、なんて大きくて温かいのだろう──。


「素敵なゲストハウスですね」

「本当だな。こんなに、敷地が広かったのか」 

ようやく目的地に着くと、そこは広大な天然芝が広がっていた。ガーデンパーティーができるようで、開放感溢れる場所だ。

ゲストハウスは西洋の貴族の館をイメージしているらしく、大きくて優雅な建物だった。

「ゲストの方も、たくさんいらっしゃいますね」

「本当だな。中でお茶もできるみたいだし、ゆっくり楽しもうか」

「はい!」

 業務中とはいえ、心が弾んでくる。内覧には多くの関係者が来ており、私たちのように役員と秘書の姿もある。

「社内パーティーとか、結婚式の二次会か……。たしかに、華やかなイベントにぴったりのゲストハウスだな」

「そうですね……」

 “結婚式の二次会”の言葉には、元カノとそうなれたらよかったという願望が含まれていると思う。

 きっと、副社長はどんなときでも彼女のことを思い出してしまうのだろう。それ以上会話を広げられず、しばらく黙って館内を見て回った。

 二階建てで、二階には個室が並んでいる。休憩する場所や、着替えをする場所として用意されているらしい。

 一階はホールになっていて、パーティー会場やダンスホールとして使えるとのことだった。

「夜はライトアップされて、綺麗らしいよ?」

「そうなんですか? ロマンチックですね」

 ナイトパーティーなんて、想像するだけでため息が漏れる。もしかすると、二階の個室は宿泊場所にもなるのではないか。

「化粧室も、かなり綺麗らしいよ。見てくる?」

「いいんですか? それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 少し汗ばんだこともあって、メイク直しをしたいと思っていたのだ。好意に甘えてその場を離れると、奥にある化粧室に向かった。

 副社長の言うとおり、柔らかなダウンライトで照らされた綺麗なパウダールームもある。椅子が置かれ、隣とはパーテーションで区切られていた。

(半個室みたい)

 磨かれた鏡には、口元が緩んでいる自分が写っている。ティッシュやコットンなど、メイク直しに必要なものが置かれていて、さっそく使わせてもらった。

「伊藤さんって、九条副社長とやり直したがってるって本当?」

 急に副社長の名前が出てきて、心臓が飛び跳ねる。メイク直しの手が止まり、聞き耳を立ててしまった。

「結婚直前でフッたこと、かなり後悔してるみたい。まあ、周りの人たちもみんな驚きだったよね」

「だよね。九条副社長をフル人がいるって、衝撃的だったもん」

 奥のほうから声が聞こえるから、同じくメイク直しをしているゲストなのだろう。声の雰囲気からして、私より少し年上か。

 そして、伊藤さんという人が副社長の元カノ……。あの写真の女性に間違いない。その彼女が、副社長と別れたことを後悔している……?

(それ、副社長は知ってるのかな……?)

 それ以上会話を聞きたくなくて、簡単にメイク直しを済ませると、急いで化粧室を出たのだった……。


「すみません、お待たせしました」

「待ってないよ。化粧室、綺麗だった?」

「はい、とても素敵でした」

 最初の頃に比べたら、副社長との距離が少し縮んだ気がする。彼との関係に心地良さを感じてきたから、パウダールームで聞いた会話に動揺していた。

 はっきりしていないことを、部外者である私が副社長に話せない。ぎこちなく微笑むと、彼は私の心を読み取ろうとするかのように見つめた。

「疲れた? いつ帰ってもいいから、適当なところで会社へ戻ろうか?」

「え? いえ、大丈夫です。まだ、ご挨拶されたい方がいらっしゃるんじゃないですか?」

 内覧といっても、ただ建物を見学しているわけではない。仕事の関係者と会えば、挨拶や会話をしているのだ。

「いや、ひととおり挨拶もできたから。雨も降ったし、疲れたんじゃないか?」

 私の笑顔は、そんなにぎこちなかっただろうか。表に出したつもりではなかったから、今度は目も細めて笑顔を浮かべた。

「元気なので、心配されないでください。副社長のタイミングで、会社に戻りましょう」

 秘書の私が、上司に気を遣わせてはいけない。そもそも、体力は余っているくらいだ。疲れていないというのは、本当のことだった。

「それならいいが……。じゃあ、ホールをもう一回見てから帰ろう」

「はい」

 彼女とやり直せたら、副社長はどれほど幸せだろう。公園のことも、きっと笑い話になるはずだ。

 もし、本当にそうなったら? 副社長が彼女に優しく微笑む姿を、間近で見ていかなければいけない。

 それは私にとって、きっと辛いこと……。


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