「お背中、濡れてます」
三十分ほどで雨は止み、嘘みたいに天気がよくなった。木漏れ日が再び差し込み、濡れた草が光を反射している。
「ありがとう。でも少ししか濡れてないから、そのうち乾くよ」
ハンカチを取り出した私は、そっと彼のスーツを抑える。風があったから雨が吹き込んでいたけど、私はまったく濡れていない。
それほど、副社長が私を庇ってくれていたからだ。
「だめですよ。スーツも傷みますし、私が濡れないようにしてくださったからなので」
「きみのためじゃないよ」
静かにそう言われ、私は微笑を返す。その言葉が、副社長の優しい嘘だと分かるからだ。
「これで、大丈夫ですね。先を急ぎますか?」
「ああ、そうしよう。本当に、ありがとう」
さすが上質なスーツだけあり、撥水加工がされている。ハンカチで軽く押さえるだけで、すっかり乾いていた。
「ゲストハウスまで、あと少しですかね?」
車がないとキツイ坂道だけど、思わぬハプニングで逆に疲れが吹き飛んだ。平静を装っているだけで、内心はまだドキドキしている。
「たぶん、もうちょっとだろうが。雨のせいで、道が悪くなったな」
「そうですね。葉っぱがいっぱい……」
雨風で葉っぱが落ちたようで、道にたくさんの濡れた葉がある。滑るかもしれないから、気をつけて歩かなければいけない。
注意して進んでいても、足を取られて滑りそうになる。でもあまりゆっくりだと、いつゲストハウスに着くか分からない。
気合いを入れ直していると、そっと手を差し出された。
「よければ、人がいない間だけでも。滑るんだろう?」
「え……?」
手を取れという意味だと分かり、ドキッと胸が跳ねる。意識する必要はないのに、どうしてもときめきを抑えられない。
きっとこの行動も、副社長の純粋な気遣いだと思う。もしかすると、時間が押しているから、早く行くために手を貸してくれているのかもしれない。
だから、深く考えず応えればいい。
「すみません……」
他意がないことは、分かっている。今朝も、彼の鞄の中にある写真が見えてしまったのだ。副社長は、今でも元カノを忘れていない。彼の好きな人は、彼女だけ。
「いや、気にしないで。見てて、危なっかしいから心配で」
僅かに口角を上げた副社長は、重ねた私の手を握ってくれる。そして、ゆっくりと歩き始めた。副社長の手は、なんて大きくて温かいのだろう──。
「素敵なゲストハウスですね」
「本当だな。こんなに、敷地が広かったのか」
ようやく目的地に着くと、そこは広大な天然芝が広がっていた。ガーデンパーティーができるようで、開放感溢れる場所だ。
ゲストハウスは西洋の貴族の館をイメージしているらしく、大きくて優雅な建物だった。
「ゲストの方も、たくさんいらっしゃいますね」
「本当だな。中でお茶もできるみたいだし、ゆっくり楽しもうか」
「はい!」
業務中とはいえ、心が弾んでくる。内覧には多くの関係者が来ており、私たちのように役員と秘書の姿もある。
「社内パーティーとか、結婚式の二次会か……。たしかに、華やかなイベントにぴったりのゲストハウスだな」
「そうですね……」
“結婚式の二次会”の言葉には、元カノとそうなれたらよかったという願望が含まれていると思う。
きっと、副社長はどんなときでも彼女のことを思い出してしまうのだろう。それ以上会話を広げられず、しばらく黙って館内を見て回った。
二階建てで、二階には個室が並んでいる。休憩する場所や、着替えをする場所として用意されているらしい。
一階はホールになっていて、パーティー会場やダンスホールとして使えるとのことだった。
「夜はライトアップされて、綺麗らしいよ?」
「そうなんですか? ロマンチックですね」
ナイトパーティーなんて、想像するだけでため息が漏れる。もしかすると、二階の個室は宿泊場所にもなるのではないか。
「化粧室も、かなり綺麗らしいよ。見てくる?」
「いいんですか? それじゃあ、お言葉に甘えて……」
少し汗ばんだこともあって、メイク直しをしたいと思っていたのだ。好意に甘えてその場を離れると、奥にある化粧室に向かった。
副社長の言うとおり、柔らかなダウンライトで照らされた綺麗なパウダールームもある。椅子が置かれ、隣とはパーテーションで区切られていた。
(半個室みたい)
磨かれた鏡には、口元が緩んでいる自分が写っている。ティッシュやコットンなど、メイク直しに必要なものが置かれていて、さっそく使わせてもらった。
「伊藤さんって、九条副社長とやり直したがってるって本当?」
急に副社長の名前が出てきて、心臓が飛び跳ねる。メイク直しの手が止まり、聞き耳を立ててしまった。
「結婚直前でフッたこと、かなり後悔してるみたい。まあ、周りの人たちもみんな驚きだったよね」
「だよね。九条副社長をフル人がいるって、衝撃的だったもん」
奥のほうから声が聞こえるから、同じくメイク直しをしているゲストなのだろう。声の雰囲気からして、私より少し年上か。
そして、伊藤さんという人が副社長の元カノ……。あの写真の女性に間違いない。その彼女が、副社長と別れたことを後悔している……?
(それ、副社長は知ってるのかな……?)
それ以上会話を聞きたくなくて、簡単にメイク直しを済ませると、急いで化粧室を出たのだった……。
「すみません、お待たせしました」
「待ってないよ。化粧室、綺麗だった?」
「はい、とても素敵でした」
最初の頃に比べたら、副社長との距離が少し縮んだ気がする。彼との関係に心地良さを感じてきたから、パウダールームで聞いた会話に動揺していた。
はっきりしていないことを、部外者である私が副社長に話せない。ぎこちなく微笑むと、彼は私の心を読み取ろうとするかのように見つめた。
「疲れた? いつ帰ってもいいから、適当なところで会社へ戻ろうか?」
「え? いえ、大丈夫です。まだ、ご挨拶されたい方がいらっしゃるんじゃないですか?」
内覧といっても、ただ建物を見学しているわけではない。仕事の関係者と会えば、挨拶や会話をしているのだ。
「いや、ひととおり挨拶もできたから。雨も降ったし、疲れたんじゃないか?」
私の笑顔は、そんなにぎこちなかっただろうか。表に出したつもりではなかったから、今度は目も細めて笑顔を浮かべた。
「元気なので、心配されないでください。副社長のタイミングで、会社に戻りましょう」
秘書の私が、上司に気を遣わせてはいけない。そもそも、体力は余っているくらいだ。疲れていないというのは、本当のことだった。
「それならいいが……。じゃあ、ホールをもう一回見てから帰ろう」
「はい」
彼女とやり直せたら、副社長はどれほど幸せだろう。公園のことも、きっと笑い話になるはずだ。
もし、本当にそうなったら? 副社長が彼女に優しく微笑む姿を、間近で見ていかなければいけない。
それは私にとって、きっと辛いこと……。