目次
ブックマーク
応援する
30
コメント
シェア
通報

第15話

「信じられない」

 帰宅して着替えを終えると、急に副社長とのことが気恥ずかしくなってくる。本当に、彼と付き合っているんだよね……?

 一人になると、実は夢を見ていたのではないかと思えてきた。それくらい、副社長との交際が嘘のようなのだ。

(うちへ来てくれるって言ってたけど……)

 二十時近くになり、少し気持ちが焦ってくる。期待と不安が入り混じるけど、時間も遅くなるから来れなくなっても仕方ない。

 自分にそう言い聞かせながら、ベッドに寝転んで目を閉じる。それでも落ち着かない気持ちでいたとき、インターホンが鳴った。

「副社長!?」

 いざインターホンが鳴ると、自分がいかに彼を待っていたかが分かる。飛び起きて玄関へ走ると、勢いよくドアを開けた。

「確認もせず開けるのは、危ないよ」

 苦笑する副社長に、私も苦笑いを返す。それだけ、私は彼が来るのを待ち遠しく思っていたのだ。

「すみません。ちょっと、浮かれてました」

「それは、俺も同じだよ。中に、入ってもいい?」

「もちろんです。副社長、お腹空いてませんか? 私もまだ食べてなくて、簡単なものならすぐ作れるんですけど」

「そうか。待たせてしまって、申し訳ない。きみの好意に、甘えていいかな?」

「はい! じゃあ、すぐに作りますね。副社長は、座ってください。狭いので、居心地はよくないかもしれませんが」

 きっと、副社長の住んでいるマンションは、豪華なのだろう。うちの狭さに驚いただろうけど、彼は穏やかに口角を上げて首を横に振った。

「全然そう感じないよ。きみといられる場所は、どこでも俺にとって安らげるところだから」

「副社長……」

 心をくすぐられ、私も温かな気持ちになる。これからは、彼の優しさに常に包まれていくのだろう。そんな日々を想像したら、幸福感でいっぱいになった……。


「美味しかったよ。本当に、ありがとう」

「お口に合って、よかったです」

「お世辞じゃなく、本当に美味しかったよ」

 あり合わせで作ったチャーハンを、彼はあっという間に完食してくれた。副社長が私の部屋でご飯を食べていることが、不思議な感じだけど……。

「嬉しいです。こうやって、うちで一緒にいるのが夢みたいですよね」

 ちょっと緊張するけれど、二人で過ごす時間に少しずつ慣れていくのだろう。はにかんだ笑顔を見せると、副社長は真剣な顔をした。

「俺も、まだ夢心地だよ。ただ、付き合っていくのは現実のことだから、きみに加奈のことはきちんと話しておきたい」

「加奈って、伊藤さんのことですよね?」

 話が核心に触れたようで、背筋を伸ばして姿勢を正す。すると、彼も私と向き直った。

「加奈には、婚約指輪も渡してプロポーズしたんだ。そのときに、彼女にフラれてしまったんだが」

「そうだったんですか?」

 彼女にフラれたタイミングが、プロポーズのときだったとは思わなかった。それなら、副社長が泣くほど傷ついたのも納得する。

「ああ。しばらくは、現実を受け止められなくて、彼女の写真ばかり眺めてた。加奈との結婚生活を、思い描いていたから」

「それほどお好きな方だったのに、本当に未練はないんですか?」

 それは、私が安心したいから聞いたのではない。彼の気持ちを大切にしたいからだ。私は、副社長と付き合えるなら嬉しい。でもそれが、彼の本心を抑え込むものであってはいけないと思う。

「本当のことを言うと、もう少し前なら……。ゲストハウスに行ったときくらいなら、加奈とやり直したと思う」

「でも、今は違うんですよね……?」

「昨日、彼女からやり直したいと言われて、嬉しいというより困ったなと思ったんだ。加奈の気持ちが、負担だと」

 私を真っすぐ見る彼の目からは、嘘は微塵も感じられない。副社長を見つめ返しながら、小さく頷いた。

「副社長が、そう思われてるんならいいんです。伊藤さんのことで、気持ちに無理してないかなって、それが心配だったので」

「今は、きみに対して無理してるよ。畑野さんは、きみのことが好きなのかな? 俺には、そう見えたんだが」

「えっ? そんなことはないと思います」

 健司の名前が出てきて、驚いて腰が跳ねそうになる。健司が引っかかるようなことを言ったばかりだからか、彼の名前が出ただけで動揺してしまった。

「嫉妬してるんだ。畑野さんは、ずっときみの側にいた。それが友人という関係だったとしても、羨ましいよ。俺も、もっと早くきみと出会いたかった」

「副社長……。でもそれじゃあ、伊藤さんと出会えなかったかもしれませんよ? 伊藤さんは、副社長にとって、大切な女性なのは変わらないと思いますから」

 生意気なことを言ったかもしれないけれど、私は彼の過去も含めて受け止めたいから。だから伊藤さんのことは、ずっと大事に想ってほしいのだ。

「そうだな。それは、だめだな。彼女を愛した経験も必要だったから。父のほうにも、加奈との復縁を望む申し出があったみたいでね」

「それは、伊藤さんからですか?」

「いや、彼女のお父さんからだ。だから父には、やり直す気はないことを伝えたんだ」

 そういうことだったのか。それにしても、父親を介してまで復縁を願い出るくらいなのだから、伊藤さんはかなり本気に違いない。

「伊藤さん、納得されましたかね?」

「どうだろうな。たとえ納得してくれなくても、気持ちは変わらないからどうにもできないが」

 本当に、伊藤さんのことは吹っ切れているようで、それにはホッとした。こうやって、うちへ尋ねて話をしてくれたことが、彼の誠実さを物語っているようだ。

「副社長、これからよろしくお願いします。その……恋人としても」

 言いながら恥ずかしくなり、視線をそらす。すると、彼にクスッと笑われた。

「こっちを見てくれないか? 俺のほうこそ、よろしく。それと、“副社長”呼びは、社内だけで……」

「はい……。智哉さん……」

 顔から火が出そうなほど、とにかく気恥ずかしい。堪らず下を向くと、彼に優しく顔を上げられた。

「乃亜……」

 温かな唇が重なり、そっと目を閉じる。あまり余計なことを考えずに、今は彼の想いを素直に受け止めよう。

 このまま、時が止まればいいのに。そう思うほど、智哉さんのキスに酔いしれる。しばらくして唇が離されると、彼に穏やかな目で見つめられた。

「父に、きみのことは話した。交際をすることを喜んでくれたから、そこは気にしないでほしい」

「はい……。社長に、がっかりされないように自分を磨いていきます」

 もう社長に私のことを話したなんてびっくりだけど、それだけ智哉さんは本気ということだ。

「じゃあ、そろそろ帰るよ。夜遅くに、すまなかったな」

「いえ、来てくださって嬉しかったです」

 智哉さんが立ち上がり、私も見送るために立つ。彼が帰ってしまったら、寂しく感じるんだろうな。

「明日も会えるのに、お別れするのって未練感じちゃいますね」

 寂しさを誤魔化すように笑うと、靴を履こうとした智哉さんの足が止まった。

「乃亜……。そうだよな。明日も会えるって分かってても、なんか寂しいな」

 振り向いた彼が、優しくそう言う。私の気持ちを受け止めてもらえたようで、心が満たされていくようだった。

「もっと一緒にいたいって、そう思っちゃいますね。それじゃあ智哉さん、また明日……」

 帰ってほしくないと、甘えられたらいいのに。彼に未練を感じていると、不意に身体を抱き上げられた。

「我慢のない男だと思われるだろうが、きみだって悪いんだよ。帰りたくないって、思わせたんだから」

 智哉さんは引き返すように部屋へ戻ると、私をそっとベッドに下ろした。

「と、智哉さん?」

 鼓動が速くなり、身体が熱くなる。胸を高鳴らせながら智哉さんを見つめると、そっと唇を塞がれた。

 身体中にキスの雨が降り注ぎ、彼の温もりを直接感じる。こんな幸せに満たされる時間を過ごせるなんて。

 言葉にならない満ち足りた想いに浸りながら、熱い夜に身を任せたのだった──。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?